一欠片を失った世界
「ボクが死んだら、笑ってね」
死ねない幼馴染みの言葉が、脳裏に焼き付いて、染み込んで、離れない、剥がれない。
死ねない死ねない、幼馴染み自身も、彼女自身も言っていて、私達も散々口にした言葉。
ボクは死ねない、アンタは死ねない、それはただ、タイミングが悪かっただけ。
元々色の白い顔が陶器のようになって、まるで眠っているみたいに綺麗だった。
長い睫毛が伏せられて、どこぞの童話のお姫様かよ、と突っ込みたくなる。
アンタにそんなのは似合わない。
お姫様なんて、アンタも望んでないでしょう。
「……おい、美生」
軽い力で肩を掴まれただけなのに、私の体は後方へと傾く。
あぁ、思ったよりも色々溜まっているようだ。
他人事のように考えながら向けた視線の先には、見慣れた、見飽きた兄の顔。
困惑したような泣き出しそうな心配そうな、色々な感情が混ざた顔をしているので、私はゆっくりと瞬きをして、口を開く。
「何」出た声は思いの外低く、掠れていた。
そう言えば、嫌に喉が乾いている。
ぺったりと埃が喉の粘膜に貼り付いているような不快感を感じて、小さく咳払いをした。
「お前、顔色悪いぞ」
「……私よりもあっちの方が酷いわよ」
兄から視線を外して指差した先には、長年の付き合いである、死ねないはずだった彼女と同じ幼馴染みの姿。
いつの間にあんなに髪を伸ばすようになったのか、上手く記憶を遡れないが、簡単に思い出せるのはその子の笑顔だった。
「四人一緒じゃなきゃ、笑えないのにね」
涙が枯れることなく流れていくのを見つめ、真っ赤になった目を見て、あんな風に泣けたらと思う。
あの子の笑顔が見たいけど、あの子を笑顔にしたいけど、私達じゃあ、無理だから。
もしかしたら、この先ずっと、無理かも知れない。
えぐえぐ、ぐすぐす、過呼吸を起こしそうになっているのに、全く泣き止む気配のないあの子の隣では、あの子を見ずに、自分の足元を見つめながら、あの子の背中を撫でる唯一の男の幼馴染み。
あの子とアイツと彼女と私で四人、それが私達であって、幼馴染み四人組だったはずだ。
「一人でも欠けたら、違うんだよ」と言っていたのは、既に欠けた彼女だった。
彼女はいつだって、四人一緒を望んでいた。
誰かが欠けることを恐れて、引き止めようと必死になって、躍起になって、並んで歩きたいと、なるべく近くにいたいと、歩幅を合わせていたのだ。
彼女がいたから、私達は私達だったのだ。
それを、彼女は、きっと、知らない。
「置いて行かないで、って、そうやって言った奴が置いてくなんて、笑い話にもならないわね」
兄さんもそう思うでしょう?と振り向けば、目を見開く兄さんがいて、その目の中には彼女と同じ目をした私がいた。
彼女があんな風に死んだ目になったのは、いつだったっけ。
死にたい、死のう、そう言い出した頃だっけ。
そんな彼女と同じ目をしている私は死にたいのか。
そもそも、彼女が死にたがった理由を私達は知らない。
彼女自身も、ぼんやりとしたことしか語らずに、ただただ衝動的に、発作的に死にたがった。
首吊り飛び降り飛び込み薬剤練炭――何をどれだけ試したのかなんて、誰も数えていないし全部思い出せるかも分からない。
ただ、死にたがって死にたがって、失敗して失敗して、生きて生きて生きて、彼女は消えた。
本当に死ぬんだなぁ、なんて思った瞬間もあって、死なないなんて嘘じゃないか、と笑いだしたくもなった。
それなのに、私は笑えずにここにいる。
あの子みたいにも泣けなくて、アイツみたいにも唇を噛み締めることが出来なくて、どうしたらいいんだろう、と立ち尽くす。
兄がくしゃくしゃに顔を歪めて、私の髪の毛を掻き混ぜるように撫でた。
痛いんだけど、兄さん、喉が乾いて上手く喋れない。
ぽたりぽたり、落ちてくる雫を感じながら、泣けない、泣けない、と思考が埋まる。
泣けないことは悪いことだろうか。
彼女が望んだのに笑えないのは悪いことだろうか。
兄さん、呟いて手を伸ばす。
年の差のある兄との距離が、こんな風に近くなったのは、いつぶりだろうか。
兄が泣くのを見るのは、いつぶりだろうか。
兄の頭を撫でるなんて、いつぶりだろうか。
『文ちゃんとお兄、本当は仲良しだもんね!』
そう言って笑った彼女はもういない。
眠り姫みたいにずっとずっと眠り続ける。
王子様なんていない。
だって彼女はお姫様じゃないから。
ぴくりとも動かない表情筋のまま、眠る彼女を振り返る。
眠ってるみたいね、なんてどこの小説で聞いたんだっけ、漫画だっけ。
……まぁ、何でもいいや、と瞬きを一つ。
結んだ口を解いて、乾いた喉を上下させて、震わせて、言葉を紡ぐ。
あの子の嗚咽は止まらないし、アイツは彼女を見ようともせずに震えている。
だから、私が言うよ。
「笑えるわけ、ないでしょう」
やっと一滴、落ちた。