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哀の千年闇士  作者: ふぇんねる
六章 三耀の術士
72/84

12

 リュエルの瞳はオロフの名で途端に揺らめく。


「もう……私には何も無いんです。愛した国も、師も……。たとえマティアスを生きて滅ぼす事ができたって……私には、もう、何も……」


 そこにはレグリス王子のことも含まれていたし、まだ尊敬の眼差しで見つめていた時代のマティアスのことも含まれていた。リュエルの美しい世界は、オロフとトゥキを失っては、本当にもう、偲ぶ面影すら無くなってしまったのだ。


 魔術ではほとんど敵う者のないリュエルだ。心も強い。だが多くの物を失った今では、かつての強さは半減したかもしれない。シアンの目の前でしゃくりあげて泣いた。


「本当に、もう何も未練がないの?」

「……ありません。さようなら」


 一瞬迷ったような沈黙を作ったが、リュエルはまたトゥキの後を追って森に分け入った。だが、その行く手をシアンが両手を広げて阻んだ。


 リュエルは涙のついたまつ毛のままで、哀しげに、けれど鋭くシアンを睨む。


 全くひるまないシアンだったが、その視線が別の理由で下に向いた。腕がひりひりと痛むことに気が付いたからだ。そこに静かに白い霜が降り始めていた。リュエルの術だ。


「くどいですよ。もう止めないで下さい。私は……本気です」


 そうらしい。先ほどは跳ね飛ばしたシアンを今は氷付けにしようというのだから。


 シアンがリュエルを見る。リュエルもシアンを見る。二人は、お互いに、お互いの主張を受け入れろと、無言できつく視線を投げ合った。


 しかし、リュエルがふいと避けた。きりがないからだ。そのまま脇を通り過ぎようとしたのだが、シアンがいきなりリュエルを抱き締めた。


「なっ……何するんですか!」


 いつかのようにシアンを突き飛ばして、その腕をほどこうとするが、できない。


「シアン……離しなさい! さもないと……」


 ところがシアンは聞かないどころか、その先を強い声で消した。


「俺を、レグリスって呼べばいい」

「え?」

「俺をレグリスに仕立てて、そう接すればいい。俺もそう振る舞うから」

「何を……」


 疑問のような言葉を漏らしたリュエルだったが、その意図は苦しいほど分かってしまった。空っぽのリュエルに、取っ掛かりをつくるには、それしかないとシアンは思ったのだろう、と。この世界に未練を作るということだ。自分を殺して他人になりきってでも。

 あやふやな記憶を頼りに、本当の自分がどんな人間なのかを捜し求めてきたシアンには、それは絶対に望まないことなのに違いないのに。


 リュエルを覗き込むシアンの目は言葉通りで、一点の曇りも迷いもない。それは図らずも、これまでで一番、リュエルの思い出の中のレグリスに生き写しだった。


「前に俺は言ったじゃないか。俺とレグリスを重ねるのは、もうよした方がいい、って。でも、そうできなかったのなら、それでもいい。それでも……俺はいいんだ」


 リュエルは息を呑む。熱っぽいシアンの視線はまるで……。それで逆にリュエルは冷たく言い放った。


「あなたにとって私は、妹の生き写しなんでしょう? そんなの……おかしいですよ」

「おかしいのはリュエルだよ。最初は確かにそうだったよ。でも本当にそれだけの感情で、今まで接してきたように見えてたの?」

「……」


 リュエルを抱き締めるシアンの腕の力は、最初よりずっと強い。


「前にも少し言ったけど、俺にとってマグァでの記憶は懐かしくて、憎らしくて、でもどこか他人事のように傍観してる部分があるんだ……。だからエンラータのことは、本当の妹なんだけれども、実感は無いんだ。妹だってことを知ってる、そんな感じに」


 それはリュエルも感じていた。過去の事を話すシアンは、なんだか芝居を見ていたような話し方をすると。けれど今ここでそれを突き詰める気にはどうしてもなれなかった。もうその機会が巡ってこないとしても。さっき掻き消された言葉を改めて言う。


「今すぐ離しなさい! さもないと、氷付けにしますよ!?」

「うん」


 そう言って、シアンはそっとリュエルの唇に、唇を寄せた。


「!?」


 リュエルが身を強張らせ、驚きから瞼をぎゅっと閉じる。

 けれど――、触れたシアンの唇はとても硬く冷たかった。


 ゆっくりと目を開くと、シアンは、全てが氷の結晶の中に閉ざされていた。琥珀に閉じ込められた小さな虫のように。時を止められたように。もう瞬きもしないし、その口からは何の言葉も漏れない。

 そうした張本人が呆然とそれを見つめた。


「……あ、あなたがいけないんです」


 リュエルは紅潮した頬に涙を一筋流す。


「あなたは……レグリス様に似すぎている……」


 シアンが氷に閉ざされたのは、驚いたリュエルが術を暴走させてしまったからだ。閉ざしただけで、殺したわけではない。けれど、いっそ、これでよかったという思いがリュエルの中に過ぎる。


「あなたの姿を見るたびに、私はレグリス様を思い出して仕方がなかった。もちろんレグリス様を助けられなかった罪悪感もそうさせたのだとも思います。でも……それだけじゃない。だって、私はレグリス様に、恋していた……」


 リュエルがそう言ってますます涙を零した。泣くのは身分違いを分かっていたからだ。叶わない想いだと、幼いながらに知っていた。


「だから、シアン。どんなに似ていても、あなたを『レグリス』と呼ぶことは、どうしてもできないんです……」


 氷の入れ物の中の、変わらぬ表情の男の前で、リュエルはその大きな瞳が溶け落ちてしまったかのような大粒の涙を落とす。


「う、うっ……うっ……」


 これは、ずっと堪えてきた涙だった。四年間流されることのなかった涙だった。王子としてではなく、幼心にも恋い慕った人を失った悲しみの涙だった。


「でも、私はいつか分からなくなっていました。あなたをつい見つめてしまうのは、レグリス様に似ているからなのか、あなただからなのか……」


 氷の結晶は弱い月の光に煌めく。白い頬を興奮で薔薇色に染め、瞬きと共に、リュエルはまた一粒、大きな雫を瞳から落として、触れられないシアンの頬に、氷越しに手を伸ばした。


「……もしかしたら私は、いつか、あなたと愛を分かち合えたのかもしれません……。でも、もう、何もかも終わってしまった」


 氷に捕縛されたシアンは物言わない。リュエルはそれを哀しそうに見つめる。


「いいえ、そもそも初めから無理だったのでしょう。私はもう一人のあなたが愛したあの可哀想なエンラータと同じ……。彼女にかけられた呪縛のように強力に、復讐心に縛られているのです。誰かを愛したとしても、憎しみを捨てて、その愛を選ぶなんて、この期に及んでも、到底できない……」


 一言言うたびにうつむいていったリュエルの顔が、言い終えて上がった。そこには哀しいほどに綺麗な微笑が湛えられていた。


「諦めましょう……お互いに」


 そこには、リュエルがシアンと一瞬でも愛を分かち合ったという意味が含まれたが、同時に、当然に、別れの言葉でもあった。


 氷の中のシアンは目を見開いたまま身動きしない。しかしその肌が青ざめていくことはない。リュエルはそれを眺めながら、自分を抱き締め凍ったシアンの腕の中から、氷をぱらぱらと落としながらそっと離れ出る。


「……命までも凍ることはありません。氷で文字通り足止めしただけです。私がここを離れれば氷は解けて、あなたは何の損傷も受けずに、元通りに戻ります……。でも……その頃には私はいません。追っては来られません」


 リュエルの頬に残っていた涙が、順々に氷の粒に変わっていった。そして、宝石のように輝きながら地に落ちて、砕けた。シアンにかけた術が、術者にも及んでしまっていた。感情が高ぶりすぎて、制御があやふやになっていた。


「今度こそ本当に、……永遠に、さようなら。シアン」


 リュエルはトゥキの元へと歩み寄り、連れ立って森の奥に消える。

 残されたシアンを閉じ込める氷柱が、闇に寂しく輝いた。




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