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全てが済んだ。そう思わせる開放感と疲労感が、静寂と混ざりながら降りてくる。この空気感は懐かしい。腐沼に満ちる沈黙は不気味なのだが、今はいとおしいほどだ。珍しい事に、気まぐれにまだらの霧の薄くなったところから、ここでは場違いなほどに清らかな星明かりが黒緑色の泥沼に幻想的に降り注いだ。
ただしやはり、エヴィアがいたという明らかな証拠は嫌でも残っていて、奴らの一部だった少し粘り気のあるものがあたりに滲んでいる。氷となって砕け散った肉片が解けたのだ。花びらのように無数に、もしくはいびつな水玉模様のように、腐沼の上にいくつもいくつも浮かんでいた。それだけが手放しで穏やかに微笑む事を阻んだ。
それらを掻き分けるようにして青年はそろそろと泥沼から上がる。
「い、今のは……?」
振り返った少女と目が合う。
青年は幾分たじろいた。こうして身の安全が約束され平静になってみると、その人の顔立ちが、よく整っていて崩れの無いことを知る。気圧される。年齢相応の初々しい可憐さも持ち合わせるが、それよりも、扱う術によく似た、氷の彫像のような冴えた凛々しさと、どこか人を寄せ付けない雰囲気のある少女だと青年は思った。
少女の方は、一瞬睨むように鋭くした目をやや伏せると、沼に停滞する淀んだ空気に、顔にかかりかけた白金の髪を払ってなびかせた。
「彼が言うには、『偉大なる魔術師マティアスに忠誠を誓いし者。主より与えられし永久までの光栄なる名は、獰猛なる爪』……だそうです」
淡々と語る少女の首元から、ふと、彼女の飼い獣なのだろうか、イタチに似た小さな生き物が現れた。労わるように少女の頬に付着した返り血を丁寧に舐め取ると、今度は長い髪に纏わりついて遊び始めた。今までどこか、服か腰に下げた鞄の中にでも入っていたらしい。少女と飼い獣の様子はまったく警戒も遠慮もなく、まるで打ち解けた友か姉弟かのようでもあって、先ほどの氷術を見た時もそうなのだが青年は面食らってつい見つめてしまっていた。だがすぐにまた、学者として問うべき事を思い出す。
「……あの獅子を、セレヴィア、とか呼んでもいたけど? 」
「ええ。先ほどあなたが言ったとおりです。セレヴィア、つまりセル・エヴ・ウィア。古西方語で『言葉ある命の寄せ木細工』。私たちは通常のエヴィアとは区別してそう呼んでいます」
あの戦闘の後でも、少女は息を切らすことも無い。肌に汗で張り付く髪もない。見ていただけの若者の方が、なぜか疲弊していた。青い顔をしてよろめく。少女の答えを聞いてはますますだった。
「私たち……? 君が名づけたのか?」
「私ではありませんが」
会話はすれど、ボロ布を纏っていた時と同じに、少女は積極的に全ては教えてくれようとはしない。
「君は何か知っているのか? この腐沼、サ・ディの秘密を」
じれったそうに問い詰め、青年が少し身を乗り出すと、そこで、どうしてか少女は申し訳なさそうな顔をした。そしてまぶたを伏せた。それで躊躇してしまって、青年はつい言葉を飲み込んでしまったのだが、だからと言って、少女の語ることも、その反応の意味も理解できたわけではなく、ただ目をぱちくりとさせることしかできない。
少女は土地の者ではなさそうだったが、無知というわけでもないらしい。いくらかの間の後、青年のその視線を心苦しそうに避けて、霧の間から少しだけ覗けていた空に瞬く地図を確認して地平線を指した。
「星を頼りに南西に進めば、夜明けにはオアシスのある集落に着くでしょう」
それは初めと同様、去れ、ということだ。
青年も腕には覚えがある。再びエヴィアが現れても、先ほどのセレヴィアでもなければ、撃退もしくは、回避なりなんなりして無事に近隣の集落に辿り付けるだろう。そうやってここまで来たはずだし、危険な腐沼に好んでひとり、足を踏み入れるとはそういうことだ。
青年より、少女の方が先に動き始める。言い終えると、さっと、青年に指し示したのとは逆方向に足を踏み出した。
「き、君!」
青年は手を伸ばす。空を切ると分かっていて。声をかけられても、少女は背を見せたままだ。それは近くて、遠い。
「もう少し聞かせてくれないか。沼のこと、エヴィアのこと……」
どこか懇願するような声が出てしまったことに、青年自身が驚き赤面した。ようやく振り返った少女の顔は、やはり、どこか申し訳無さそうに軽くしかめられていた。だが、思いも寄らないことを教えてくれた。
「私たちもそんなに詳しくは知りません。でも確かに言えることは、腐沼や命の寄せ木細工は自然界の異常なんかではないということです。もちろん、神の裁きなんて崇高なものでもありません。愚かな人間が生み出した忌まわしい現象……ただの、そんなものだということだけです」
「人間が……? どうして…なんのために……?」
「我欲を満たす為なのか、この世を滅ぼす為なのか、さてまた……」
苦く微笑み、少女がまた背を見せた。さらに濃くなった別れの気配を感じて、男は抵抗するように、慌てて声を張り上げる。
「じゃ、じゃあ君のことを教えてくれ。君は一体何者なんだ?」
「語るほどの者ではありません」
髪を揺らして少女は首を振った。だが、「ですが」と言って続ける。
「腐沼を渡り、エヴィアと対峙しながら、それを生み出した者を見つけ出し、消し去るのが私の悲願なのです」
「さっき、あのセレヴィアが言ってたマティ……なんとかっていう奴がそうなのか?」
その時、遠吠えが届いた。その声色は、砂漠の番犬と呼ばれる生き物たちのものだ。少女がその方向を見つめて静かに言う。
「またエヴィアですね」
「まただって!? こんなにエヴィアが出る夜は初めてだ! 奴らは腐沼で生まれるが、食料を求めてたいていは腐沼には留まらない。頻繁に出るのは腐沼の周辺の方だ」
「私がいるからですよ」
苦笑した少女に、青年の勢いは消される。代わりに戸惑いと疑問で埋め尽くされる。語りたがらない少女もそれにはさすがに話した。
「どうやらエヴィアの大半は私に反応し、追うようです。獰猛なる爪がそう操っているのか、元々がそう設計されているのか……わかりませんが、よほど彼らの主を探る私が邪魔なようです。それでもセレヴィアに会うのは稀なことですが……まあ、とにかく、どうやら見た目を変えてもエヴィアの方には通じないようですね」
エヴィアに悟られれば、セレヴィアが呼び寄せられる。
少女があんな薄汚いボロを纏っていたのはそのせいだったらしい。獣のなりだけに臭いにでも反応しているのかもしれない。
「ですから早く私から離れた方が安全ですよ。あなたも腕には多少覚えがありそうですが……私と共に尽きないエヴィアと戦うのは無益なことでしょう?」
そう言って少女は、今度こそ本当に沼を出て行くつもりのようだった。その背が躊躇無く遠ざかっていく。
正直、青年には聞きたいことが山ほどあった。エヴィアやサ・ディのことはもちろん、そう名づけたと伝え聞く魔術師のこと。滅びた王国のこと。他にもだ。
だがもう、止めてまでそうすることができなかった。乞食に扮した少女が及び腰だったのは配慮だったのだと気づいたからだ。危険に巻き込まないための。言葉少なにしていたのも、きっとずっと、神経はエヴィアに研ぎ澄まされていたからに違いない。
腐沼とエヴィアの謎を解くことと、それを生み出したものを滅すること。似たものを探求しながら、青年と少女の進む道はあまりにも違った。これほどの現象を起こしたその者がどれほど強大であるのか、青年には想像もつかない。
「……」
少女は腐沼の謎の答え、その欠片をくれた。あとは自分は学者なのだから、これまでのように調査し、研究するのみ。それでこそ学者だ。答えは与えられるものではなく、探すもの。少女だってその旅の途上だ。それに目指すものの違う二人は、違うものを見つけるはずだ。
そう無理やりにでも納得した青年は最後、とばかりに掠れ声をかける。
「君を追わない。でもせめて、名を教えてくれないか?」
少女は振り向かなかったが足を止めた。
「……リュエル」
小さくそう答えると、少女はさっと歩き始め、青年を一人残して去っていった。
幾多の血が飾る、暗く霧漂うその先に。