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「呪文と手指を絡める印との組み合わせと、その身に宿す魔力で、あらゆる奇跡を起こすという……そんなのと直に対面していたなんて……なんてこった……」
魔術師は稀有な存在で、力のある町や国に囲い込まれるのがこの大陸では当たり前だ。一般人があまりお目にかかることが出来ない強大な力を持つ人々は、尊敬と畏怖の対象だった。青年は泥で汚れた手を、額に当てた。
数十匹のエヴィアたちは、たちまちに全て無数の小さな塊になって転がった。すると、凍った泥沼はすぐに元に戻っていった。少女が術を解いたのだろう。きっと、いつでも瞬時に、氷であらばどんな風にでも操れるのに違いない。
躊躇なく術を行使することといい、〈獰猛なる爪〉とかいう得体の知れないエヴィアにも、一片の怖れを見せない少女の態度にはそんなようなことが伺われた。術士としてはかなり年若いが、熟練されている。
「あの少女……何者なんだ……?」
男の呟きなど届かない場所で、少女は静かに、ほの光る瞳で獰猛なる爪を刺していた。足元にいくつも転がる、獣たちだった肉塊はもう溶け始め、表面に血色の露を浮かべた。
「あなたを慕う哀れな血人形たちが滅びていくさまを眺めて楽しいですか?」
「楽しい?」
「あなたの顔は今、笑っています」
聞いて、獰猛なる爪は太鼓を打ち鳴らしたような、けたたましい声を上げた。その空気圧だけで少女の皮膚がびりびりと振動する。
「笑っているように見えたか? 俺はお前を嘆いていたのだがな。罪深い、とな。ここに町があったのはお前も知っているだろう?」
「何を言っているのかわかりませんね」
岩獅子はやれやれというような仕草をしたあと、突如間合いを一気に詰めた。巨体だが俊敏だ。それだけの筋肉量があるらしい。
少女も身構えたが岩獅子の方が一瞬早い。伸ばした腕二、三本分の距離を残して急に立ち止まり、豪腕を振った。その腕、鋭い爪からいくつもの真空が生まれた。切り裂きながら見えない風の刃が至近距離から少女を襲う。獅子が唸り声に似た歓喜の声を上げた。
「捉えたぞ!」
だがその刃は、消された。急に少女の目の前に伸び上がった鉱物の結晶のような氷盾により防がれ、その身が砕け散るのと共に。岩獅子がひるむ。
「なんだと!?」
現れ出てすぐに欠片となった氷はランタンの光を跳ね返して輝いている。泥を含まず澄み切っている、ということは、この沼を凍らせて作り上げたものではないらしい。少女の術は何かを凍らすだけではなく、無の状態から生成する事も可能なようだ。
少女は体勢を低くして、〈獰猛なる爪〉を睨み上げていた。そこには一片の驚愕も含まれてはいない。不意をつくようなセレヴィアの行動も少女には見え透いていたらしい。それどころか、多分、少女は相手が懐に近づいてくるのを待っていた。氷の盾が砕け散った次の瞬間にはもう、岩獅子の硬質な左胸近くには、鋭利で煌めく氷刃が突き刺さっていた。
沼地の霧を裂き、天地を震わせて、獅子の絶叫があたりに轟く。
「……や、やったのか……?」
呟いたのは、もはや一部始終を見守るしかない泥につかった青年だ。深みから少し上がりながら、岩獅子を伺う。痙攣し、氷が解けて栓を失った胸から噴水のように血飛沫を上げながらも、その体はまだ二本の足でわっしと地面を掴むようにして垂直を保っている。
男の目は答えを求めて少女に向いた。
少女はまだ険しい表情を崩していなかった。その手元、もの凄い勢いで追撃の氷の矢が生成されつつある。今度の物は槍の様に長く重厚だ。これで止めを刺すつもりに違いない。だがそれが再び肉を切り裂くことはなかった。
岩獅子が高速で後退したからだ。初めに現れた時のように、バサルト塊状に身を丸め、泥を跳ね上げながら車輪のように転がる。素早く少女の氷槍が追うが、全てはじかれる。
十分な距離を置いたところで岩獅子は再び身をほどき、影絵のように獣の体躯をあらわにして立ち上がる。その大きな手は先ほどの傷を押さえていた。まだ幾分残っていたらしい氷矢の残骸を胸から引き抜き、その反動でよろけて前に数歩踏み出す。
「貴様は日に日に力を増す……今日の戯れ事はここまでとしよう。マティアス様へ、このことを報告しておく」
言うが早いか、逃げるが得策とばかりに四つん這いになり元来た方へと退いていく。獅子のような姿だけあって、そう走る方が本来は楽だとみえる。現れた時と同じように、瞬く間にその影は見えなくなった。
「……また仕留め切れませんでした……」
悔しそうにそう言う少女は、それ以上追撃しようとはしなかった。こんな状況は幾度目かなのだろう。顔には、無駄だと知っているらしい諦めの表情が浮かんでいた。そして、それはそれは深い溜め息を吐く。鋭利な気配がその息で抜けていった。あの様子では、しばらくはやっては来られまい。それで緊張を解いたのだろう。