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「リュエル!」
「大事ない」
マティアスはそう言ったが、シアンがリュエルに駆け寄るのを阻止しようとはしなかった。
衝撃で仰向けに倒れたリュエルの体の前面には、不思議な幾何学模様が、暗闇に明滅を繰り返しながら浮かぶ。それが体に吸収されようとしていた。シアンが驚いて、その行く手を遮るが、いくら遮っても指の間をなかったようにすり抜けた。
「なんだこれ……!?」
身動きをも術は封じるらしい。苦しげに顔を歪ませるリュエルだったが、体は金縛りにあったかように動かなかった。マティアスが怜悧な声を響かせる。
「その術に害はない」
ほどなく緑の幾何学模様は消えた。リュエルも解き放たれて地面にぐったりと横たわりはしたが、マティアスの言葉通り、どうかしたというわけでもなかった。
「リュエル、大丈夫か!?」
シアンの問いかけに軽く頷きながら、上半身をやっとのこと起こしたリュエルは、自らの右手を見た。そこに違和感を覚えたからだ。だが見た目には異変などない。けれどリュエルにはおぼろげに理解できた。魔術的な印か証、そんなようなものを植えつけられた、と。
その不安と嫌悪の入り混じったような表情を見て、満足そうにマティアスが答えを明かす。
「それは鍵だ」
「……鍵?」
「そう。私の美しき庭へと至る鍵だ」
リュエルは顔色を怪訝に曇らせた。するとマティアスが心外、とでもいうように片眉を上げた。
「おや? 私の庭を探しているのだろう? ……よもや許可無い者が私の庭を見つけられるとでも思っていたのか? お前たちだって隠れ家には術くらい配置しているのだろうに」
「っ……」
言う通りだ。森の塔にはオロフにより、侵入者避けの術を張り巡らされている。
唇を噛み締めるリュエルを馬鹿にするでもなく、あざ笑うでも無く、マティアスは真摯にその目をまっすぐに見つめた。
「リュエル。『美しき永遠へと至る閉ざされた庭』と意図し、念じ、手を開け」
納得いかないままだがリュエルが言われたとおりにすると、掌の上に、先ほどのマティアスの術のような発光する緑色の時計の針のようなものが一本現れ出る。それがくるくると回りだし、一点を指して止まった。それはここからさらに北西の方角だった。それはきっと、リュエルたちが捜し求めた、マティアスの拠点のひとつに違いない。
「ここで出会った記念の品だ。受け取れ。興味があるなら来るがよい」
シアンが食いついた。
「どうせ罠仕掛けて待ってるつもりだろ?」
「私は、今は君たちに危害は加えない。約束しよう」
リュエルとシアンは揃って訝しい顔を向ける。するとマティアスは笑った。
「それならば来なければいいだけの話だ。ただし――その鍵の寿命は短い。どうするかはお前たちに任せよう……」
マティアスが長いローブを引きずり、背を向けた。本来ならば、攻撃を仕掛ける絶好の機会だ。だが先ほどの氷の矢を放ってリュエルには分かってしまっていた。それが背面だろうと、さして違いがないだろうことを。
マティアスは二人に見送られるように、現われた時と同じく、静かに闇に溶けて消えた。
完全に静寂が戻ってから、シアンがやっと口を開く。
「なんか腹立つなあ……手の上で転がされてるみたいで」
「実際そうでしょうね」
わかっていた答に、シアンはますます面白くなさそうに口を尖らせた。
「しっかし、なんだよ、あいつ。柱の跡がちょっとあるだけなのに、なんでここが観測所だったって分かるんだ? つうか、ここがマグァだなんて……」
シアンは足元の土くれを思い切り蹴飛ばした。乾いた細かな土煙がふわっと舞い上がり、風に飛ばされていった。
マティアスの言うことは、まったく納得も理解もできない。リュエルはマティアスによって完全に砂粒と化してしまった先ほどの文様の映った泥岩だったものを睨む。
失われてしまったが、それが、その可能性をどうしても肯定してしまっていた。




