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薄い色の髪や肌のせいか、みすぼらしく煤けた外套を捨てた少女は、そこに立っているだけなのに輝いている。どんよりとした腐沼の中だからそう思うのだろうか。青年は息を呑み、岩獅子がいるのも忘れたようにぼんやりと少女を見つめた。
少女は岩獅子を鋭く見据えている。その合わせた視線で、獅子の方も、針のように固そうな目の上の毛をぴくりと動かす。完全に感情を読み取れない獣の顔つきではあるが、なぜかどこか楽しんでいる表情のようでもある。その岩獅子が言った。
「変装か」
「エ、エヴィアが言葉を!?」
青年は飛び上がるほど驚いた。エヴィアは獣程度の知能を持たない。それが常識だ。だがこの、多分エヴィアなのだろう獅子は確かに今喋った。男の中で常識が崩れ去ったのだ。
けれど慌てているのは青年だけだった。少女の方はいたって険しい空気を崩さない。それどころか平然とこの獣と会話を始めた。
「獰猛なる爪。ここしばらく、あなたにつけられていましたからね」
それがこの岩獅子の名のようだった。どうやら少女はこの岩獅子とは何度も対峙し合う既知の仲らしい。それに青年の発言を否定しないところを見ると、エヴィアだというのも間違いが無いようだった。
「うまくやったな。全く気づかなかったぞ」
豪快に、『獰猛なる爪』は高笑いを始めた。その隙に青年はさっと間を詰め少女に問う。
「な、なあ君。あれは本当にエヴィアなのか? 僕ぁ、沼やエヴィアを調査し始めて三年経つが、あんなものは初めて見た。あれじゃあ、まるで、高等な知能があるようじゃないか!」
少女は乞食の風体の時からずっとそうだったように、今も眉ひとつ動かさずに淡々としている。
「ええ、そうですよ。よくは分かりませんが、あれは普通のエヴィアとは違うようなのです。私たちはその特別なエヴィアのことをセレヴィア、と呼んでいますが……」
「セレヴィア……もしかしてセル・エヴィア? それも古い西方語? 君は一体……」
そのやりとりが終わらない前だった。獅子の咆哮が再び上がった。けれども、この間に襲い掛かってくるというわけでもない。どうやら笑い続けているようだった。しかし即座に少女は険しい空気を纏った。
「いけない……ここから離れて、すぐに泥の深みにまで入ってください」
「いや、しかし……それじゃあ身動きが取れない。かえって危険なんじゃ……」
「急いで」
少女の宝石のような稀有な瞳が男を串刺した。訳も分からないままだったが、それで男は言う通りにしていた。腰まで腐臭を発する泥の中につかる場所まで半分泳いでいく。むせかえる新鮮な瘴気がこぽこぽと生まれる。それを見ていた岩獅子が笑った。
「ほう。従順だな。だが正解だ。はなから用があるのはこの小娘だけだからな。俺としても無駄は省きたい。そこで黙っていれば、朽ちた木っ端とでも思っていてやろう」
その言葉でかえって男は、ますます恐怖した。
(知能があるどころじゃない……このエヴィアは何か目的を持っている……!?)
男の中で三年を賭して築きあげた仮説や持論が崩れ落ちた。
先ほどの岩獅子の咆哮に自然と呼び寄せられたのか、数十匹の犬のようななりのエヴィア、先ほど砂漠の番犬と呼ばれた生き物たちが、あらゆる方向から沼地に現れ、〈獰猛なる爪〉を頭と慕うようにして居並ぶ。四方八方を取囲まれた少女は、唸るそれらを軽く睨んだ。
「いつも不思議に思っていました。今日はなにやらお喋りが弾みますから、この際です、聞いてみましょう。獰猛なる爪、なぜ番犬たちは命も無しに、まるであなたの手足のように従順に動くのですか?」
「我が血肉を分けた存在だからさ」
「眷属ということでしょうか。それならば、情けをかけて、この場を撤退させて差し上げてはいかがでしょう?」
顔をしかませ、〈獰猛なる爪〉が苦笑したようだった。それが合図になったわけではなかろうが、途端、十数匹のエヴィアどもが一斉に少女に襲いかかり始めた。もちろん〈獰猛なる爪〉の指示ではない。むしろその巨大な獣は、少女が提案したように、犬たちに憐れな目を向けていた。
雌雄は一瞬にして決した。
少女の唇が震えるように幾度か動き、同時にしていた指遊びのようなことが終わると、その足元から放射状に一気に、泥色の沼地の表面が綺麗に白く染まったのだ。泥のうねりの形そのままに沼地がその色に固まる。青年の位置、遠目にもわかった。それは霜、いやほぼ氷だ。わかったのは、冷たい風が男の頬にも届いたからだ。
そこに触れた犬どもは、同じように白くなって動きが瞬時に遅くなり、やがて止まり、倒れて砕けた。あとには肉色の氷の粒が散らばる。
「……ま、魔術士だ……」
青年が震えた。