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この話はすでにリュエルが旅の道中で話したことだ。それをオロフは知らなかったのだが、シアンが静かに聞いていてくれるのを確認してから、また口を開いた。
「私はそこに洞穴を作り居を構え、幾人かの弟子たちと自給自足の生活を営みながら、ひとつの世代が終わりを迎える以上の時間、日々まるで同じに魔術の修練を重ねていた。自分で言うのもなんだが、そこで生み出した忘却術のおかげで私の名は大陸に轟き、その道では知らぬ者はないとまで言われたこともあった。……そんな頃だった。その噂を聞き、まだ紅顔のマティアスが私の庵の門を叩いたのは」
オロフの顔つきはそのあたりからだんだんと神妙になっていた。
「彼は優秀だった。何をさせても、物凄い速さで吸収し、身につけた。当時から彼の才は、すでに同世代から遥かに抜きん出ていた。どこか有名な塾や師についていたわけではないと言っていたのだが、あまりの技量と年齢を凌駕した知識量に、マティアスは私と同じように術で若さを維持しているのではないかと疑ったこともあった。だが、マティアスの噂は大陸のどこにもなかったし、とにかく彼が否定したので、そうではないと信じることにした。彼は秀でた能力者であるだけではなく、今となっては君は意外だと思うかもしれないが、仲間からも慕われる誠実な人格者だったからだ」
オロフが息をつくと、あたりが痛いほどの静寂に包まれているのがわかった。オロフは傍の杯を取り、傾けると、再びそれを壊す。
「リュエルがマティアスに拾われたのはそれから数年ののち、今から数えて十七年ほど前のことだった。近隣、といってもかなりの距離があるのだが、その集落にへその緒も乾かない赤子が捨てられていたのを偶然に見つけたのだと、マティアスは言っていた。それがリュエルだった。谷はとても育児ができるような環境には無かったのだが、彼は自分が世話をしてもいいとまで言って突然連れ帰ってきた。神聖なる修行の場に何を持ち込んでくれたのかと、正直、奴の破門も考えたのだが、間もなく私も理解した。あの神がかり的に優秀なマティアスと同等か、育て方によれば、もしかしたらそれ以上になるだろう魔術の才、可能性を、その赤子の中に見たのだ。最初に見つけたのがマティアスではなく私だったとしても、同じように連れ帰ることにしただろう。その目測が誤りであったかどうかは、今のリュエルを見ればシアンにも分かるだろう」
シアンにとってリュエルとの出会いは鮮烈だった。なにせ絶体絶命の窮地を一瞬で滅して救ってくれたのだから。マティアスの技量のことは伝聞で推量するしかないシアンでもその凄まじさは感じているが、リュエルがこの先マティアスのように勤勉に修練を重ね、齢を重ねたら、同等の力量にならない、などとは絶対に言いきれなかった。
「奴はリュエルにとかく目をかけていた。さすがに男手だけでは赤子を世話することはできず、乳母を雇いはしたが、毎日のように進んでリュエルの世話を焼いた。それから数年の後、奴は独り立ちして谷を出て、弟子を数人抱え、大陸に名を轟かせる魔術師へと成長した。だがそれでも、自身がラクィーズの魔術長官に任ぜられてなお、リュエルを招き、術を指導したいと申し出てきた事は、だから私にはそんなに驚くべきことではなかった」
基本、穏やかな中にも、様々な感情を時折僅かに覗かせながらオロフは語る。
「あの時、もしも赤子のリュエルをそのままにしておけば、野の獣に喰われていたかもしれない。だから、リュエルにとってマティアスは単に兄弟子であり師でもある、というだけではないんだ。拾いの親であり、育ての親であり、命の恩人なのだ。そして何より、リュエルは……マティアスを尊敬していたんだ」
「……」
聞いていてくれ、と初めに前置きされたからではなく、シアンは自ら発する言葉を失ってしまっていた。リュエルの強い憎悪の理由がわかったせいだった。騎士たちとはその性質は少し違う。反動なのだと。尊敬していた人に裏切られた失望、哀しみでもあるのだと。
シアンのその様子を、オロフは少し申し訳なさそうに横目でちらりと見た。
「この湖畔に移り住んだのは、君もおそらく知っての通り、マティアスの目から隠れる為だ。元の住処は知られていたからな、奴も弟子だったからな。いや、アスカリド・マティアス、奴こそが……私の一番弟子だった。知と技と……情を持ち合わせた男だと思っていた……」
オロフがマティアスと過ごした時間は決して短くはない。年若くして、熟練の兄弟子たちと自らの下で共に暮らし始めた少年。魔術の高みを志す者の棲家とはいえ、人間の集まりだ、いさかいもあったかもしれない。寝食をともにするうち、数多くの思い出を心に残してきただろう。リュエルの抱える失望、それはオロフも同様らしかった。
夜の闇から呼び寄せられて現われた羽虫たちが、炎に魅せられて飛び込んでいくのをしばらく眺めた後、また、オロフは口を開いた。
「シアン、できれば君に頼みたいことがあるんだが」
「何?」
オロフほどの者が頼みたい事とは。予想しない言葉にシアンも驚く。オロフの瞳が炎の明かりを受けたせいか、危機的に輝いた。
「リュエルはきっと、その時になったら迷う。そうしたら、君がリュエルの背を押してくれないか?」
その時。それはもちろん、マティアスに止めを刺すその時のことだ。
さすがのシアンもすぐには返事をできなかった。間を持たせるように頭を掻く。
「……俺のこと信用してくれるのは嬉しいけど、出会ったばかりで、それは……しすぎじゃないかなあ?」
「しかし、それでも私は君を信じられると感じるのだ。それに足る人物ではなかったのだとしたら、私の目が曇っていた、それだけの事だ。君が気にすることは無い」
オロフも仮にも大魔術師の再来と言われ、沢山の弟子を育て、ラクィーズでは権威を持っていた男だ。培ってきた自信がある。その人との問答には勝てずシアンは肩をすくめる。
「なんで俺? 肝心のリュエルにはあんまり頼りにされてないんだけど?」
「それは君がレグリス王子に似ているからだよ」
そう、あんまりはっきりとオロフが言い切るので、本来気分を害するはずのところをシアンは逆に笑ってしまった。
「やめてよ。まさかオロフ、俺が実はレグリスだなんて思ってるんじゃあないよね? 本人である俺が保障する。それは、ない。絶対に」
「本当にレグリス王子であうがなかろうが、どちらにせよそんなことは、この際関係が無いよ。ただ、その容貌がリュエルにとっては意味があるのだから」
オロフの返答はシアンの期待を、肯定にしても否定にしても、完全に裏切った。いつもは饒舌なシアンを黙らせる




