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 どこからかひんやりとした湿気が降りてくるような、そんな嫌な感触だ。先ほどの、犬に似たエヴィアとはまた音色の違う、より低く深い、底冷えするような遠吠えが、おそらくは遥か彼方より届く。

 何故かは分からないままに、青年には強い戦慄が走った。


「な、なんだ……これは……砂漠の番犬なんかじゃない……」


 もはや、あやふやな空気感だけではない。足の裏に接した地面づてに、地を駆けてやって来る何か、馬よりも相当に重い物が作り出す揺れが近づいてくる。兵団が攻め入ってくるのにも似ていたが、多分、これは単体だ。血の気が下がっていくのと同じくらいの速度で、青年のこめかみには冷めたい汗がつたった。

 振動が接近してくる方向を振り返る。その瞬間だった。


 何か塊状の物が頭上より二人の眼前に落下してきた。まるで大砲の弾がそこに被弾したかのように、衝撃音と共にあたりが激しく揺れ、周囲の泥沼が底までめくれ上がった。大量の汚泥が舞い上がる。その中心には大岩があった。


 いや――。よく見れば、岩ではない。

 雷雨の前の不吉な雲の色に染まり、質感は火山から流れ出て冷え固まったバサルトのざらつき。見た目には岩そのもののそれは、だが確実に脈打っていた。それがゆっくりと開き始め、真実の形を悟らせようとする。

 青年の本能が警告していた。危険だと。だがそれとは逆に、自分の身が恐怖に硬直するのを感じていた。


 大岩は大気を震わす咆哮を上げる。と共に、その塊は解けるように二本の足で立ち上がった。現われたのは、今までに見たこともない恐ろしい姿だった。

 絡まった筆のように房になって、天にそそり立つたてがみ、唾液を滴らせる唇を突き刺して顔を出す幾本もの不揃いの牙。岩石のように硬質の腹と背。隆々とした筋肉を持つ四足の獣の体つきでありながら、後ろ足でしっかりと地を掴み、その二本で威風堂々と立つ。身の丈は大人の人間、二人分はあろうか。横幅はそれ以上だ。肩周りが非常に発達している。どことなく獅子を思わせるその獣のような何かは、体つきにしては小さな黄濁色の目玉をぎょろりと回した。

 それが男の目と合う。悲鳴を上げる隙も無いうちに、邪魔だとでもいうようなただの片腕のなぎ払いで、その手の剣を主ともども吹き飛ばし、人形のごとく泥沼の只中に伏せさせた。泥の飛沫があたりに無機質に散る。


「か、かはっ……」


 青年が胸を押さえ、むせこんだ。跳ね飛ばされた場所が腐沼で今は幸運だった。全身が腐臭を発する泥にまみれることにはなったが、硬い地面に打ち付けられるよりは衝撃が少なかったようだ。

 無傷とは言えないが、なんとかすぐに上半身を起こす。だが膝ががくがくと揺れて、立ち上がることはできない。体の震えを止めることもだ。自らをたった今、大人の身の丈にして四、五人分もの距離を軽々吹っ飛ばした異形の生き物を、恐れ一色に染まった瞳で見つめる。


「あ、あれはエヴィアなのか? 大きさも力も、これまで出会ったものとは桁違いじゃないか……」


 黒い岩でできた獅子のようなエヴィアは、そう呟く男にはほんのこれっぽっちも見向きもしなかった。邪魔な物をどかして空いた空間から、ただ薄汚い乞食の方を見据えた。その目つきは青年を見ていた時とは違い、獲物を見るような歓喜に満ちている。


「……君っ! 危ない!」


 すっかり足をすくませてしまっていたが、かろうじて勇気を振り絞り、青年がそう叫んだのと、岩獅子が標的との間の短い距離を駆け出し始めたのは、ほぼ同時だった。その距離、獅子の歩数に換算して十歩もない。突進し、再びその太い腕を先ほどのように振り上げる。

 やられる。直視できず、青年は手で目をほとんど覆った。

 しかしエヴィアの振りきった太い腕には乞食の体ではなく、その纏っていた汚らしい外套が残像のようにひらめくだけだった。


「えっ!?」


 青年はあちこちを見回す。その時、岩獅子はすでに標的を見つけ、宙を見上げていた。気づいて青年もその視線を追った。


 碧の濃淡に星々霞む闇空に、流星が流れている。青年は一瞬、そう思った。だがそうではないのも、同時にわかっていた。

 それは小柄な少女だった。その白金色の長い髪が、流星の尾のように艶やかになびいていたのだ。

 手放され転がった男のランタンに照らされた肌は瑞々しい。年は十六、七というところだろうか。細く華奢に見えるが、その身のこなしからして、ある程度の筋力も持ち合わせているようだ。弱々しくはない。


 少女は空中で身を回転させ音も無く着地すると、青年をかばうように背を向け、勇ましく獅子との前に立ちふさがった。

 顔を伺えるほどの斜め後ろだから青年にはよく分かる。瞳が、どこかほの光るような灰紫色をしているのが。髪と同じ色の睫毛が長いことが。


「まるで、白金に飾られた灰紫のフローライトのようじゃないか……」


 学者のようなことをしているくせに、ずいぶん詩的なことを言う。この少女が先ほどまで話していた乞食同然の人間なのは、信じたくないが明らかだ。この場には、エヴィア以外は二人しかいなかったのだから。




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