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 その時、静寂を乗り越えて、どこからか細い遠吠えが響いた。狼のような声色だが、どこかしわがれている。先程まで朗らかだった青年の顔が、一瞬で強張ったものに変わった。


「――っ! ……今夜は運が悪い。サ・ディが生んだ沼の番犬かもしれないな……」


 警戒が男の声を低く、くぐもらせていた。その言葉が終わる前に、すらりと腰にあった剣が引き抜かれた。長さは男の腕ほど。剣幅はあまり広くはないが、割には重めに造られた両刃の剣だ。それがランタンの強い明かりに二、三度煌めく。


 体勢が整ってすぐだった。鳴き声も無しに、三匹の犬のような四足の生き物が、派手に泥をはねらせ、いきなりどこかから眼前に走り込んできた。即座に剣を構えた男の判断は正しい。

 来客は口の端を飛び出すほどの長い牙を剥き出しにして喉の奥で唸っている。その姿は犬に似ているが、決して犬ではなかった。毛並みはそれよりもずっと硬く荒く、不揃いで、爪ももっと長く鋭い。狼ですらない。それよりなにより、鼻の頭や腹の辺りに固い鱗の群れが点在し、とても空は飛べないだろう小さな翼が頭と背に合わせて六つほど生えている。その奇妙な生き物たちの目は鋭く爛々と光り、青年と乞食を捉えていた。


「エヴィアめ」


 青年はそう獣たちを呼んで、汚らしいものでも見るような蔑んだ目を送る。


「サ・ディと同じように、古西方語でエヴは『命』、ウィアは『寄せ木細工』。エヴィア、つまり『命の寄せ木細工』とは、名づけた魔術師は中々センスがいいじゃないか」


 エヴィアと呼ばれた獣たちは、鱗の位置や小さな羽根の枚数など、多少の差異を持ち合わせながらも、揃って数種の生き物を混合したような見た目を持っていた。その姿は、ありえないものを見た時の嫌悪感と共に、腐沼同様に胸を悪くさせる。


「さっきの問いの続きだ。何故サ・ディ(腐沼)はエヴィアを生むのか。そして……こいつらは犬型だが、それは、揃って異形の姿をしているのか」


 その言葉が憤怒させたように、現れた命の寄せ木細工エヴィアたちが順々に地を蹴った。そして人の顔の高さにまで飛び上がり、いびつに尖った爪を光らせる。

 それに合わせて、弧を描くように振り上げられた男の剣が、素早く下ろされた。


「キャウン!」


 色水のような鮮血が飛沫となって飛び散る。犬に似た鳴き声を上げて今まさに襲いかからんとしていたエヴィアが一匹、ただれた地に転がった。深く斬りつけられた首元から流れ出続けるものが泥沼に流れ込み、そこらをくぼませて溜まる。異形といえど体を流れる液体の色は、普通の生き物と同様らしい。


「そして、こんな獣程度の知能しかないというのに……、何故エヴィアたちは、ひとつの目的を持っているかのように行動するのか」


 三体の犬のようなものを全て、苦も無く斬り伏せ終えて青年は、下げた切っ先から血を滴らせてそう呟いた。


「エヴィアたちに滅ぼされた街や村、それに国は数え切れない。軍隊が出動して鎮圧にあたることも珍しくない。このまま沼が生まれ続けるなら、いずれこの島大陸はすべてがその下に沈んでしまうだろう。……だから、この謎は一刻も早く解くべきだと思わないかい?」


 乞食を見た青年の表情はすっかり先ほどまでとは違っていた。今、学者だ、と名乗れば、先程とはまた印象が変わるだろう。だがやはり、乞食は外套の端すら揺らさなかった。

 青年は「残念だ」とでも言いたかったように肩をすくめた後、天を見上げた。


「これは傲慢で愚かな人間への天地の裁きなのかもしれないね……」


 すると、かたくななまでに沈黙を保っていた小さい人が、はっきりと一度、「ふっ」と噴出し笑った。


「なぜ笑うんだい?」


 男の口が不機嫌にひん曲がる。その問いに乞食は答えず、ただ東の方を指差した。

 ここは沼から出れば一面の砂漠が広がる地域なのだが、外套からようやく覗けたその手は、そこの灼熱の太陽を浴びていないかのように白い。土地の者では無いようだ。それが指し示すのは、潅木の影がいくつか遠く霞んで見える、沼の終わりらしいあたりだった。

 小さい人は沼から出ろ、とでも言っているのだろうか。馬鹿にされたと感じて、男は顔を上気させ、鼻息を荒くした。


「じゃあこの現象は、この島大陸の中央付近にあった滅びた王国の呪いだとでも言うのかい? あの、初めて腐沼とエヴィアに沈んだ王都の」


 親しげに、対等の者として近づきながらも、男には初めからどこかに、乞食風情が、という優越感を身の内に潜めていた。今はそれが顕わになっている。目つきが冷ややかなものに変わっていた。


「悪いが僕ぁ、このあたりの沼のことは全部調べさせてもらったんだ。規模、被害を受けた近隣の集落の数、現れたエヴィアたちの外観から察する種類、それが周辺に散った現在の様子なんかも。北東から大陸中央を越えて、南の海岸近いここまでずっと、三年かけてね。君もこんな時間にこんなとこにいるあたり、無知ではないんだろうけど、僕の方がずっと腐沼には詳しいつもりだ」


 そう言って男は先ほど開いていた地図を乱暴に取り出すと、乞食に見せ付けるように開いた。小さな文字で書き込まれていたのは、男がこれまで調べあげてきた情報の数々だ。それに男の腰帯にはまだいく枚かの羊皮紙が挟まれている。全て腐沼に関することが書かれているのに違いない。「学者さん」と呼ばれている、とどこか自慢げに言うということは、元は学者ではなかったのだろうが、今は十分にそうだと言える。


 目の前で広げられた物に乞食も、フードのごしからの推察ではあるが、一旦は目を奪われたらしかった。が、やがて静かに顔をそらした。やはり得るものが無かったらしい。学者が悔しそうに歯を食いしばって何かを言おうとする。

 そんなぴりぴりとした沈黙が終わらないうちのことだった。再び、にわかにあたりが奇妙な気配に満ち始めた。




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