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シアンが完全に席を離れるのを見届けてから、リュエルは呟いた。
「でも……似ているんですよね……」
シアンの背中まで、リュエルの記憶の中の人と綺麗に重なる。それがなんだか悔しくて、リュエルはコップに注がれていた液体をぐいと飲み干した。それはただの果実ジュースでアルコールのようには酔わせてはくれない。
けれどもよく似た背中を睨むうちに、リュエルの思考はだんだんと時間を遡って、その人との最後の場面へと落ちていく。いつものように、視界を幻が奪う。
(ああ……)
現われ出たのは、深紅。それは死との狭間で見た、星空を激しい熱で揺らめかせた火炎の舞踏の色だ。戦慄が走るほどの残虐な美しさに輝く。
それは自らがイメージした実体無い炎。だが、まるでその中に本当に降り立ってしまったかのようにリュエルの身は焼かれて痛んだ。喉に乾ききった熱風が入り込んだように、息も苦しい。それを経験した時と全く同じに。
同じ事をあの時、確かに経験した。だがもう過去の事だ。
そう分かっているのにリュエルは幻の中に立ち尽くす。
普段なら気を紛らわせてくれるトゥキも、今は目の前のご馳走以外見えていない。思考を超え、気持ちまでも段々とそこに戻っていくのが、リュエル本人にでもはっきりわかった。あの時の炎が、リュエルの現実を凌駕して視界どころか心をも埋めようとしている。
しかし計らずも、それをすんでで止めたものがあった。柄の悪い声がする。
「ざけんじゃねえぞ!」
リュエルははっと正気を取り戻し、醒めたばかりの目を瞬かせて声の方を探り当てる。見れば、リュエルの右隣、通路向うの二つ並びの大机の客たちが睨み合っていた。その数、合わせて十余名。どの男も衣服に筋肉の輪郭を浮かび上がらせた屈強な体つきで、その体躯に良く似合う大型のボウガンや曲刀を脇に置いている。きっとシアンのように、エヴィアや獣と縁の深い仕事に従事する者たちなのだろう。
その男たちのすでに半分が、椅子から腰を浮かせて拳を硬く握っていた。そんな男たちがいざこざを起こせば、互いに無傷で終わるという事はない。無関係の者たちにだって被害が及ぶかもしれない。周りの客たちはすでに怯えて輪を作るように距離を空け、睨みあう一団を見つめていた。
「てめえらこそ、ざけんな!」
「あぁん!?」
互いのグループの頭格らしい男同士が威嚇し合う。どちらも縦にも横にも迫力のある大男だ。その傍に、店の者がよたよたとおぼつかなく近づき、か細い震え声で制止を試みる。
「や、やめてください……他のお客様にご迷惑が……」
握り締める伝票がよれて破けそうになっている。決死の行動だったに違いないが、熱くなった大男たちの耳に蚊が鳴くようなそんな声が入るはずもなく、怒声はますます激しくなる。
「やんのか、ごるぁ!」
「上等じゃあ!!」
と同時に、「がしゃーん!」という耳を塞ぎたくなるけたたましい音が鳴り響いた。口先での争いに痺れを切らした男が、相手方を拳で激しく殴ったせいだ。よろけてぶつかったかなにかで近くのテーブルがひっくり返り、乗っていた料理も皿も全て床にぶちまけられたのだろう。割れた陶器の破片がリュエルの足元にまでいくつも滑ってくる。
それが合図となって、ついにハンター風の男たちの全員がそれぞれを殴り合い始めた。
今や男たち以外の物音は皆無で、居合わせた者たちは、関わり合いにならないように必至に息を潜めている。
その騒動に一番近い場所に居たのはリュエルなのだが、ちらとその争いを見ただけで自分のテーブルに向き直り、再び野菜の煮込みをけだるくつついた。
発端はどうせ腕が触れたとか足がぶつかったとか、そんな程度のものに違いない、益が無い、とでも言いたげな顔を作ってはいたが、内心はあまり余裕があったわけではなかった。何かをしていないと、まだあの炎の幻に囚われる。
現にこの騒ぎですらも、リュエルの心を完全には現実に留まらせることができずにいた。男たちの口汚い罵りや騒音は、リュエルにとってはそう迷惑なものではなかった。
ふと、持ち上げたフォーク越しに、向かいの席に置き去りにされたシアンの弓が目に入る。森で見せられたものだ。改めて見ると、彫られた文様は迷路のようで、抽象的なものを題材にしているらしいような気が唐突にした。
(シアンはどうしただろう)
こんな時彼はどうするのか、会ったばかりのリュエルには分からなかったが、隠れて震えている性格でもないような気がして、悪ければ、もしかしたら飛び込んでいってしまうのではないかと少し心配になってきて、また喧嘩を振り返った。その時だった。
「知ってるぞ! おめえらラクィーズ人だろ! 腐った沼だらけのくっせえお家に早く帰りやがれ!」
初めに怒声を上げた男がそう言った。それを合図に、男たちの下品な笑い声がどっとあがる。くせえ、くせえと手で扇ぎながら、鼻をつまみだす者もいる。相手方はなぜだか言い返せずに、悔しそうに歯軋りをした。
そこで途端、リュエルはがたりと音を鳴らして立ち上がった。それまで顔をしかめもしていなかったというのに。
男たちの喧騒でけたたましかったのだが、誰も関わり合いになろうとしなかった店内で、その行動は目立った。にわかに静まり返る。男たちも争う手を一旦止めてリュエルを見た。
怖い顔をしたリュエルは、低温度の平坦な声を響かせた。




