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銅錆の色に似た霧のようなものが澱み漂う。
星月はその碧の濃淡にまだらに隠され、夜闇は他より一層濃く、重い。その下に沈殿したように静かに、平らかな泥沼が見渡す限り広がっていた。
「こりゃあ、ひどいな」
膝まで沼に浸かった足を、ようやっと抜き出して一歩を進めた男が、たまらずといった様子でそうこぼした。
小麦色の旅慣れた帽子を被り、くたびれた夕日色の襟巻きで口元を覆い、擦り切れかけた外套を体に巻きつけるように羽織る。二十代半ばほどの青年だ。
「新しく現れた沼か……。しかし、いつにもまして臭いがひどい」
このあたりは、日の経った肉や卵が発するような、吐き気を誘う腐敗臭に満ちている。
男は鼻をひとこすりすると、吸い付くようにまとわりつく泥から先ほどと同じように難儀そうに足を引き抜き、また一歩を踏み出した。
男が足を抜いた場所には、まるで口を開け呼吸するような穴ができた。そこからもわっと濃い錆色の空気が立ち上った。そして、ここらに漂う霧のようなものと同化する。銅錆色のものは、この泥から生まれていた。歩を進めるたびに周囲の匂いが一層きつくなる。うねった泥が、ねっとりと心地悪く、揺れるランタンの明かりに、これ見よがしに照かった。
ふと、男は何か思い出したかのような顔をすると、腰帯に挟んであった丸めた布切れのようなものを取り出し、軽妙な手さばきで掌の上で転がし開いた。羊の皮で作られた紙だ。そこには黒インクで道や土地、町や村の名が記されている。矢印が引かれ、その先には小さな文字がぎっしりと書き込まれてもいる。自作の物らしい、このあたりの地図だった。
その薄茶色の地図の表面を男の指は滑り、辿った。そうして目線を空に上げ、微かに確認できる星や山の連なりとの位置を丹念に確認して、呟いた。
「旅人からの情報は正しかったようだ。すでに『事』は済んだらしいな……。ここらにあったはずの村がそっくり無くなっている」
男の目に映るのは見渡す限りのむせるような腐臭漂う泥沼。弾力のあるくすみきった灰緑色が腐臭に霞みながら、どこまでも平べったく広がる。今、男が立つ場所に、かつて村があったなどとは思えないほどの静寂を保っている。
「この沼で生まれた『忌まわしき奴ら』は徒党を組み、蛇行しながら北に進んでいると聞く。そこには小さな国があるはずだが、はてさて……今も『ある』と言える状態なのだろうか……」
沈黙し、地図をまた元の場所に収めると、少しの感慨も見せずに男はまた歩を進めた。
泥沼は旅人の足を何度も取るが、男は上手い力加減で沈んだ足を抜き、次の歩を踏み出す。この腐沼を歩きなれている者の動きだ。履いている靴も、泥が入り込まない太ももの中程までもあるぴったりとした長靴、それにその履き口は布でしっかりと巻かれて泥が入り込まないようにされている。準備も整っている。
男が沼の中心地とおぼしきあたりへと辿り着いたのは、天の星の配置が先程よりも、いくらか西に傾いた頃だった。そこには、元は丘だったのだろうか、島のように比較的まともな硬さの地面が顔を出していた。そしてその上には、予期せず、見知らぬ同胞がいた。
小柄な人間だ。たった一人で虚空を眺め、立ち尽くしている。そのように男には見えた。
見えた、というのは、その人間が分厚い外套のフードを目深に被ってしまっていたからだ。本当はどこを見ているのか正確には分からなかったが、おそらく泥沼ではないことだけは間違いが無さそうだった。僅かに露出する華奢な顎から連想するに、体つきはあまり筋肉質ではなさそうだ。身の丈も、男よりずっと小さい。
かろうじて星月の明りがあるとはいえ、ランタンも無しに闇の中に潜むその様子は、こうして同じようにひとり、沼を散策する青年にとってすらも訝しく眉を捻るものだった。それに、なにより――その小さな人の身なりが、とてもみすぼらしく、汚らしかったのだ。
泥がついているから、とかではない。外套が泥にまみれているのは男の方も同じだ。その人間のは裾がぼろぼろにちぎれて溶けたように無くなっていた。色合いといい、破れた輪郭といい、まるで廃墟に取り残された窓布のようだった。浮浪者だ、と青年は正直思った。
とは言っても、こんな場所に、とりあえずは同じ形の手足をした生き物がいることが、心を和ませる。
「君は? こんな沼に一人で来るなんて僕くらいなものかと思ってたけど」
青年がそう声をかけると、その分厚い外套の人間は、正対していたその身を斜めにそむけた。関わりを拒んでいるようだった。そのせいで、かえって男は陽気な声を上げた。
「怯えることはない。僕ぁ官吏じゃあない。君を捕まえたりはしないよ」
男がそう言ったのは、この地方では衛生上の理由から乞食は官吏が捕らえ、奴隷か死刑にされるからだ。
返答の無いまま沼のどこかで、こぽっという音が立つ。また腐臭が生まれたらしかった。目の前の小さい人はその間中、まるでここの住人かのように落ち着き払っている。
発する空気で、歓迎されていないのは青年にもよく分かった。しかし、ねとねとと泥の音を立てながら沼を上がったかと思うと、小さい人の傍に遠慮なくどかりと座り込んだ。
「ちょうどいい。話し相手が欲しいと思っていたところだったんだ」
青年は楽しげに顔をほころばせた。邪険にされて逆に、この乞食のような者に興味が湧いてしまった。
小さい人はその行動に少し驚いたのか僅かに身を揺らしたが、それ以上どうしようともはしなかった。相変わらず、顔はすっかりとフードで隠されていた為、表情どころか視線すら伺う事はできなかったが、それでもどうやら新しい隣人をしげしげと見つめているらしかった。
みすぼらしいこの沼好きの同類が身動きしないのをいいことに、男は爽やかな笑みを浮かべて話し始める。
「僕はねえ、この島大陸を回って、こんな腐沼のことを調べているんだ。実は、行く先々で、みんなには『学者さん』なんて呼ばれてるんだけどね」
照れたような言い方をしたくせに、男はまんざらでもなさそうに眉を上げる。
「君も多分知っての通り、こんな腐った沼が各所に現れ始めたのは四年程前のことだ。以来数は増え続け、今じゃ腐沼の話を聞かない日は無い。『サ・ディ』……大陸の古西方語で澱んだ水。どっかの偉い魔術師様がこの沼々のことを、そう名づけたらしいね」
小さい人が石の置物のように反応の無い前で、男は深いため息を吐く。
「何故サ・ディは生まれたのだろう。何故今も生まれ続けるのだろう。それにサ・ディの忌まわしき息子たち……」
そこで青年の言葉は不意に途切れた。代わりに目つきを鋭くして、左右に眼光を放つ。
「噂をすればなんとやら、かもしれない」