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「ねぇ、ねぇ。ところでさ。この弓見てよ」
「はい?」
急にそう言って男は、不機嫌そうな様子のリュエルにも関わらず、自分の弓をぐいと押し付けてきた。変わった文様の入った、しっかりとした造りの弓だった。リュエルは無理して平静を装う。軽薄な男自体、好きな分類ではないが、そこに自分の期待が入って余計に嫌悪が増幅されていることを、頭では分かっていたからだ。
「これが何か?」
この男はいきなりおかしなことをいう。色々そぐわないので、あまり関わりたくない、そうも思い始めていた。男の返事を聞かずにリュエルは立ち上がる。
「とにかく、無事で何よりです。ではこれで私たちは失礼しますね。あなたも早く町に戻った方がいいですよ」
たち、と言われて、髪の間から誇らしげにトゥキが鼻先を突き出した。話を切り上げたいリュエルはそれをまた中に押し込んで、街道の方に足を向けた。急すぎて男が面食らっている。
「えっ……んな、唐突な……。あ、せっかくだから一緒に街まで行こうよ。またエヴィアが現われるかもしれないし。君は凄いけど、二人ならより安心でしょ?」
だがリュエルは提案を無視して、さっさと元来た薮に入っていこうとする。
「あー! 待って、待って!」
慌てて男が走って追いかけてきて、リュエルの外套の裾をつまんで引き止めた。仕方がないので、リュエルは眉をひそめながら、あと数分、という気持ちで付き合うことにする。
「……まだ何か御用ですか? エヴィアなら多分、今晩はもう群れては現われないと思いますよ」
あれだけの数を殲滅したのだから。
明らかに歓迎しない空気をかもし出すリュエルとの間を少しでも埋めたいのか、男は手を落ち着きなくばたつかせながら言葉を急ぐ。
「えーと、えーと……そうだ! 助けてもらったお礼に飯でもおごるよ! どうせこの先のサハタの町に行くんだろ? 俺、うまい店知ってるんだ!」
一本道の街道だ。進んできた方向を見なくても、こんな夜更け、この時間ここらをうろついているとなれば、最寄の町に向かう途中なのは容易に想像ができる。それと、思いついたように言うということは、引きとめた端からの明確な用ではないらしい。
そのせいではないのだが、リュエルは首を振った。いつだか腐沼で学者と話していた時の様に、いつもの調子で淡々と告げる。
「お礼なんて要りませんよ。通りかかっただけですから」
西から来て、東に突き当たっての折り返しの道だ。実際は、路銀は残り少なく、こんな男からだったとしても申し出は有り難い。
けれど、リュエルにはいつでもエヴィアがつきまとう。エヴィアを殲滅しても、セレヴィアが、今、この時もリュエルを闇の中から見つめているかもしれない。部外者を危険に巻き込むわけにはいかない。それに、エヴィアと戦うことは、リュエルには息を吸うのと同じくらい当たり前のことだ。だからリュエルはそう答えて、とりあえず微笑んだ。
ところが男は大きく首を振った。
「いやいや、そうでもない! いくら森の中とはいえ、定期的に警備もされてる街道のそばで、いきなりあんな大量のエヴィアが湧くなんておかしいと思わなかった?」
言われてリュエルの元々大きな目が、さらにぱちくりと開いた。考え込んで、そういえばそうだと、口元に指を寄せる。エヴィアはリュエルを狙って群れとなって襲ってくる事はよくあったが、ここに元々いたのはこの男一人だけだ。なんの利益があるのだろう。喰うにしたって、こんな細身の男をあの数でなんて、利益が少なすぎる。いつでも大量のエヴィアと戦っているリュエルは、そのせいで逆に鈍感になっていたらしい。
「……確かにそうですね。おかしいですね……」
返答に満足したのか、笑顔になった男は、得意げに親指で自分の胸を指した。
「実はあれ、俺が呼んだの」
「えっ!? どうしてそんな!」
リュエルでも大声にならないはずがない。もしリュエルが通りかからなければ、もう少し遅ければ、男はきっと今頃エヴィアに引き裂かれて動かなくなっていただろう。腕に覚えのある屈強な男を十人、いや二十人揃えても、あの場を乗り切れたかどうかは分からなかったほどの窮地だった。
男だってそれは分かっているはずだ。それなのなぜかにやつきながら嬉しそうに続ける。
「俺、ハンターだって言ったよね? ハンターってさ、どんな仕事ー?」
「どんなって……詳しくは知りませんが……依頼所なんかからエヴィアや獣退治の仕事を請け負って、報酬をいただく仕事でしょうか?」
リュエルの回答に、口笛を鳴らして大げさに男が拍手する。この男、ハンターより道化を名乗った方が自然かもしれない。
「そう! 大正解! 退治だけじゃなくて、捕縛したりさ。面白い形のエヴィアは見世物屋が買ってくれたりもするし。今回は依頼所を通した、町からの定期的なエヴィア駆除依頼だったんだけど」
突然の馴染みのないハンター仕事の情報の多さに、リュエルが少し戸惑って首を傾げた。それに、そのことがこの話題にどれほど意味があるのかいまいち掴めない。様子でリュエルの考えていることが分かったらしい男は笑った。
「つーまーりー。たくさん倒せば、たくさん報酬を貰えるってコトで、鳥の血を撒いてたくさん呼び寄せてみました!」
「なっ……」
ようやく事情を飲み込めたリュエルは、まるで「褒めてください!」とでも言うかのように胸を張る男を、先ほどまでとは違う意味で穴の開くほど見つめた。要は金銭のために、自らの限界を見誤って命を落としかけたということだ。ハンターを名乗る者が、だ。
呆れたリュエルはそのままの形で、しばらく言葉を忘れた。男は上機嫌で続ける。
「そ。だからエヴィアの頭蓋は残しておいて欲しかったなー。報酬は歩合でさ、あれが残ってないと証明になんないからさー」
到着前にすでに男によって絶命させられていたエヴィアも何もかも全て、とうに跡形もなくリュエルの術で砕けて吹き流されてしまった。それを聞いてますます冷ややかになる目の前の少女の反応にもひるまず、男がお気楽な笑い声を立て始める。
「なんてね! 助けてもらっておいて、それは贅沢だよね。でも、俺も結構頑張ったんだよ? 五十はやったと思うなー。このまま行けば金貨がどっさり……ま、でも正直、いつもよりたくさん来すぎて、ちょっとびびってたんだけどね! あははは」
「ちょっ……! あはははって……笑い事じゃありませんよ! 死にかけたんですよ!? 私が通りかからなかったら……」
あまりに危機感のない男に、リュエルは最後には怒ってしまっていたが、途中ではっとして口を手で覆った。気が付いたのだ。この男はやはり悪くない、と。
(……私?)
リュエルには常にエヴィアが付き纏う。追い払っても追い払っても、腐沼を離れても、どこからかやって来てリュエルを取囲む。あの『獰猛なる爪』と名乗る強靭なエヴィア、セレヴィアですらそうだ。魔術的なものなのか、意思を持ってなのか、どういう仕組みでそうなっているのかはマティアスにでも聞かなければ正確なことは分からないが、その差し金や姦計であることは間違いないとリュエルは思っていた。
それに男はさっき、「いつもより」と言った。普段から自らエヴィアをおびき寄せていたのだろう。つまり、リュエルがここを通りかかってしまった為に、「いつもとは違って」予想を超えた数のエヴィアが集まってしまった、意図してではもちろんないが、リュエルのおかげで死にかけた、ということだ。
やはりリュエルが原因なのだ。
普段から気をつけていたはずだった。エヴィアを引きつけてしまうらしいと分かってからは、防護された場所以外では極力人との接触を避けていた。腐沼で会ったあの学者風の青年とも、もう少し情報を共有した方が良かったのかもしれないが、あえてやめた。この目の前の男のような、リュエルの予測を超えるようなことはしばしばあるだろう。それでも、もっと注意深く行動しなければならないのかもしれない。
口元を押さえたまま、少し引きつったリュエルは、難しい顔をしてその場に固まった。
「どしたの?」
何も知らずに、男が不思議そうに顔を覗いてくる。この男はむしろ被害者だ。そう思うとリュエルはこの男への態度を改めずにはいられなかった。
「……いえ、あの……やはり、私はお礼なんて受けるべきではありません。失礼します。あなたも早く町にお帰りください」
告げるべきことだけ告げるとリュエルは駆け出した。今度は男が止める間もなく、来たときと同じようにあっという間にその場から消え去る。男の身の安全を案じるなら、一刻も早く離れた方が親切というものだからだ。ここに男一人が立っていても、エヴィアたちや、まして獰猛な爪は、何の変哲もないハンター一人をわざわざ襲うことなどないだろう。
「え、ちょっと! おーい……」
男の戸惑う呼び声が追いかけたが、とっくにリュエルの姿は森の闇に溶けて消えてしまっていた。