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すっかりあたりは濃紺に染まっていた。
今宵の月は朧だ。時折気まぐれに清らかな月光が降り注いだりもするが、いつもより夜道を照らす明るさに足りない。薄い雲がびっしりと、空一面を覆うように流れて行く。
こんな夜にはどこかでエヴィアと鉢合わせするのが定石だ。奴らはこんな妖しい夜が大好きだからだ。
比較的安心できる東西を横断する大街道を行くとはいえ、油断は禁物。そう遠くなく辿り着くはずの次の町を目指すリュエルの足は、ペースを失わない程度に速くなっていた。
「日没までにはと思っていたのですが、予定よりずいぶん遅くなってしまいました。急ぎましょう」
闇の中を行くリュエルは、肩の上のトゥキの存在を確認するように、その尾に触れる。
遅れたのは途中、エヴィアの群れの襲来を受けたからだ。人々を巻き込むのを避けて、多少街道を外れた。戻ってきた時には日が少し傾いてしまっていた。
目の前の道は、ふちを丸い石で整備されてやや左に傾きながら続いている。その先の方は、急角度で折れ曲がり街道を取り囲むように茂った影色の木々に隠されている。どんなものが潜んでいてもおかしくは無い。エヴィアではなくとも、夜行性の獰猛な獣も目を爛々と輝かす時間だ。葉ずれの音が、不穏な何かを知らせるように断続的に鳴る。
その中を進むリュエルの手には明かりは無かった。闇は深いが、リュエルには漏れる薄ぼやけた月明かりだけで十分だった。なぜか昔から飛びぬけて夜目が利くからだ。旅慣れてもいる。肩にはさらにそうだろう賢い相棒もいる。
それにリュエルの足運びはまるで裸足のようになめらかで、足音はほとんど鳴っていない。好んで履いている、ぴったりと密着する柔らかめの靴底の履物のせいもあるし、無駄な戦闘を避けるため、旅の間に自然と身につけた技術でもある。今では訓練された密偵の足取りにもそう劣らない。
そんな旅人たちにとっては、明かりは逆にエヴィアや獣たちに、ここにいると知らせるだけのものだ。二人には、暗闇は恐れるに値しないものだった。
するすると夜闇を渡っていた、その白金の髪と白い肌が、ふと急に鈍った。
進行方向から物音がしたせいだった。
リュエルの眉間がきゅっと寄せられ、暗闇の先の街道を、眼差しが丹念に探る。
しかしそこには人の影も獣の影も無い。だが、頬のそばに出てきたトゥキが半透明の髭を上下させながら、鼻をひくつかせている。トゥキは小動物ゆえに警戒心はとても強く、それに当然、人間のリュエルよりも感覚が何倍も鋭い。リュエルに感じられるものが無かったとしても、何かがあるかもしれないと警戒してかかった方が良さそうだ。
となれば、もしかしたら物音はもう少し先まで進んだ街道の脇、ここからは見えない、木々の中から聞こえてくるのかもしれない。それが何の音なのかはっきりとは分からないが、こんな時間にこんな場所で聞こえるのだから、物騒なものに違いない。
リュエルは一層顔つきを険しくして耳を澄まし、辺りを睨む。夜の闇にリュエルの不思議な色の瞳が、フローライトのごとく淡く発光して浮かぶ。
再び同じ物音がした。今度は神経を研ぎ澄ましていたおかげで、よく分かった。それは弓を射る音だった。街道を外れた森の中で誰かが戦闘を行っている。それもきっと大量の何かを相手に。音は絶え間ない。
「……トゥキ、行きましょう!」
言うが早いか、躊躇い無くリュエルは街道の縁石を飛び越え、森の中に駆け込んでいた。その弓矢を放つ音が剣撃の音に変わったからだ。その間隔が急速に狭まり、乱れていく。音の主の窮地を知らせている。
木々の間には底知れない闇が広がる。垂れ下がった幾つもの枝葉の下には人の背丈を越えるほどの薮が生い茂る。到底こんな時間に誰かが入り込むような場所には思えないが、音は確かにこの先から聞こえている。
小柄で華奢な体は、森を行く仔鹿並に軽くしなやかで、落ちた枝に足を取られることも夜露に重心を狂わすこともなく、刃物のように茂る葉の間を滑り込んで行く。垣根のように茂る大藪と大藪の隙間も抜けた――。
そこで唐突に森が開けた。物騒な物音の現場が明らかになる。
尋常ではない数の獣の輪郭が影絵となって、壁のように密集して生える木々の際に浮かび上がっていた。地面に転がるランタンがそれを作っていた。その影絵の中にひとつ、恐らく、その明かりの主だろう、人間のものが混じっていた。
リュエルはその本体をすぐに見つける。リュエルと獣たちの間に後姿で立っていた。
色褪せ裾が擦り切れた厚めの外套を纏い、背には矢筒、腰には剣鞘を下げていた。剥き出しにされている腕は、太くは無いが筋肉質で、それにリュエルよりもずっと背が高そうなことから、すぐに男性だと分かった。髪色は逆光で消されてよくわからないが、多分色素の薄い人種だろう。
その人物が振り下ろす剣の刀身が、明かりに反射してぎらりと鋭利に煌めいた。両刃のようだが造りが軽いらしい。獣のようなものに向う剣の初動には重さがなく、さらに斬って返す動きで一度に数体を仕留める。その足元には先ほどの音の元だろう、よくしなりそうな長弓と、眉間を正確に射抜かれた沢山のエヴィアの骸が転がっていた。
こんな暗闇忍び寄る時刻に、こんな森の奥にまで入り込んでいることといい、どれもよく使い込まれた獲物といい、どうやらこの男、単なる腕の立つ旅行者というわけではなさそうだ。ならば男が剣を挟んで向かい合っているものは、闇に紛れてはいるがただの獣ではなくて、当然あれだ。異形の獣たち。命の寄せ木細工に違いない。
しかし、男もいくら腕が立つだろうとはいえ、これ以上はまかないきれる数ではなさそうだ。自然にできた森の空き地に、見渡す視界の端から端まで、遠慮無しにエヴィアたちが並び、ひしめいている。湧くものと決まっている蛆の方が、よほど自然に感じられるくらいに。
まだエヴィアたちに背後に回られるのをなんとか阻止してはいるが、それも時間の問題のようだった。後ろからでも分かるほど、速く浅い呼吸の動きで身に纏った物が揺れ、後ろ足がじりじりとにじり下がっている。退却の間合いを計っているのに違いなかった。男の様子が、如実にそれを物語る。襟足の長い髪から伝った汗で、外套の首周りが濃い色に濡れていた。