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哀の千年闇士  作者: ふぇんねる
一章 砂漠の町
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「ごめんなさい。またこんなところを見せてしまいましたね……」


 椰子の木陰にリュエルは腰を下ろしていた。地中深くから湧き出る冷たく透明なオアシスの湖面が見つめる先で揺れ、日の光を反射して輝いている。指先だけで、いつもの定位置に乗っている相棒を探って、その背の固い毛並みを撫でる。

 焦げ茶色の毛は撫で付けても撫で付けても、何度でも初めと同じように立ち上がった。だがそれを獣は心地良さげに目を伏して、じっと小さな胸を膨らませたり萎めたりして黙っている。


「トゥキ」


 リュエルはその小さな生き物を優しい声でそう呼んだ。それがその生き物の名前だった。

 トゥキと呼ばれたあまり見かけられない獣は、見た目はイタチに最も近いが、時折する愛くるしい仕草は飼われた猫にどこか似ているし、賢そうな薄い茶色の瞳は犬のようでもある。

 別に特別な生き物というわけではない。生息域がごく限られているだけで、数としてはかなり多い。ピニークと呼ばれる雑食種の小動物で、基本的に気性は激しいが、とても人に馴れやすい。その土地の者には珍しくもない。

 だだ気まぐれな面もあるピニークは、家族の一員として暮らすことは普通でも、旅の友になることは稀だった。猫のように人より家につくのも、その理由のひとつだ。だからトゥキは見た目ではなく、本来はリュエルとの関係性に稀有なものがある。


「トゥキ、人には醜さがある……けれど、本質は美しいものだと私は信じているんです」


 耳を傾ける小獣はひくひくと鼻を動かし髭を上下に揺らした。


「それは私が穏やかな人々の間で優しく見守られて育ったから、そう思うのでしょうか」


 オアシスの水辺で戯れ遊ぶ子供たちの声が、奇妙なもののようにリュエルの耳には届く。無邪気で朗らかな声は、リュエルの思考とは今はかけ離れすぎている。

 不意にその頬が濡れたざらざらのもので撫でられた。


「!?」


 驚いて目を開くと、そこにはトゥキの細長い顔がある。小さな口からは、まだ半分赤い舌が覗けている。どうやら舐められたらしい。

 寄りかかっていた可愛らしい前足をリュエルの鎖骨のあたりから外すと、今度は、また撫でろと言わんばかりに膝の上で丸くなって背を見せた。ややしばらく、呆然とそれを見ていたリュエルだったが、微笑むと、再びその手を動かし始めた。


「そうですね。……そんな話をしていたって、仕方がありませんね」


 自嘲気味にそう言ったリュエルを見ることもなく、ただ毛の生えた小さな耳をくるくるとしきりに半回転させた。どこかそれは返事のようで、人間の友人のように気遣いをしてくれているような気さえした。リュエルはその背をまた撫でる。


「トゥキ。幼い時からずっと、私の傍にいつもいてくれてありがとう」


 リュエルはトゥキに愛着がかなりある。だが、だからといってトゥキを無理に連れ回そうとしたことは無い。この旅に出る時もそうだった。けれど、どんな時でもトゥキは必ず、最後にはリュエルの傍に寄り添った。

 リュエルはトゥキの両脇に手を入れ、抱き上げる。腹に生えたふさふさの柔らかな黒い毛が大小いくつも三角に立ち上がる。おとなしくしている愛らしい相棒の鼻先に、リュエルは軽くキスをした。


「お腹空きましたね。食べましょう」


 そう言ってリュエルは小さな鞄から、良い香りのする葉に包まれた食物を取り出し始めた。先ほど、オアシスの水辺に並ぶそこらの屋台で調達した物だ。それは、ラザ麦という乾燥に強い穀物を粉して練り、それを薄くして焼いた皮に、味付けして火を通した漬け肉と緑や赤の鮮やかな野菜を包んで詰めた物で、パハダと呼ばれるここでは日常的なものだ。リュエルたちはあの人売りの一件のせいでまだ昼食を済ましていなかったのだ。人当たり良い店の婆が、昼食過ぎた午後のこんな時間、おやつがわりに食べられる事も多いと教えてくれた。

 ふたつのパハダがくるまっていた包み葉の、一番外側の一枚を地面に敷き、ひとつをそこに置くと、待っていたとばかりにトゥキが飛びついた。早速漬け肉だけを引っ張り出してむさぼりつく。ピニークは雑食だが、トゥキに限っては明らかに肉の方が好みらしかった。


 素早く小さな腹を満たしたトゥキは、「遊びに行ってらっしゃい」という主人の言葉に促されたかのように、さっさと水際に走っていって、飛沫をはねらかしながら自分の尻尾と戯れた。

 リュエルは食みながら、目を細め、トゥキが揺らす光遊ぶ湖面をしばし眺める。そこにあるのは見目良いだけで、本当にただの旅の娘の姿で、大国のお抱えとなっても良いほどの卓越した魔術士だなどと今は誰も思わない。


「それにしても、北西ですか……」


 先ほど人売りまがいの男から聞いた話だ。

 リュエルの心の目はオアシスの街の外塀を越えた遥か先へと飛んでいった。訪ね人は、砂漠を越え、森を越え……きっといくつもの谷山を越えた、方角的に、ここからだと大陸の正反対の場所にいる可能性の方が高かった。あやふやな話ではあったが、最低でも、ここではない。

 この町に辿り着くのも楽ではない道のりだった。それを思うとリュエルのため息は重かった。けれど頭を振って気を取り直すことにする。


「たとえ噂話だったとしても、今度はそこに向かうしかないかもしれませんね。ここは海に張り出した、大陸の最西端の半島。東も南北も、これ以上は行き止まりです」


 リュエルはやっと帰ってきた水浸しの小さな伴侶を迎え入れて手を伸ばす。しかしトゥキはその内には入らずに、少し手前で体を振るわせて水気を振り飛ばした。リュエルはかがんでその低い視線に自らの視線を合わせた。


「トゥキ。ひと月、この町で他の情報を探して何も得られなかったら、一度、御師様の下に帰りましょうか。あそこは大陸の西側ですし、あの噂を追うなら通る道です。それに私たちが旅に出てから一年以上経っています。御師様の方でもなにかマティアスの情報が得られたかもしれません」


 今度こそ主人の胸に飛び込む小獣を受け止め切れず、リュエルはその勢いで倒れ込んだ。


「トゥキったら」


 転がりながらふざけ戯れていると、ふと視界に入った建物の日陰の隅に、リュエルは荷を解く旅の画商の姿を見つける。その壁に立て掛けられたいくつもの絵のうちのひとつが目に入る。



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