竜狩りケルライン
月も雲に翳る闇夜の空は無数の遠吠えに支配されていた。遠吠えはおぞましくも美しく響く。笛の値のようにも聞こえた
針金のような体毛に白く濁った斑の浮いた金の目。四足で走り、二足で立つ狼。マヌズアルの使役するワーウルフの群れだ。強烈な獣臭を発する恐ろしい人狼の軍団は、今正にクラウグス王城へと攻めかかろうとしている
城壁の上には夜目の魔法を頼りにそれを迎え撃とうとする戦士達が集結している。ワーウルフと言えば魔物の中でも頭一つ抜けて危険とされる強敵だが、それを相手に少しも怯まない勇士達ばかりが揃っている
しかし彼等は連戦に次ぐ連戦によって疲弊していた。守勢に徹する彼等の損害自体は極めて軽微であったが、装備などの必要物資までそうは行かない
少しずつ足元を崩されていくような焦燥を誰もが感じていた。死神が這い寄る冷たい足音を聞いている
だが、まだ戦う
「クラァァーウグスゥゥー!!」
祖国の名を叫ぶ戦士。闇に閃く白刃
ぎりぎりと音を立てる弓。誰かの呻き
心臓の鼓動。身じろぎの音。吐息と汗、つまりは人いきれ
それらは熱を持ってうねる。苦難に直面してこそ輝くのがクラウグスの戦士だ
彼等の命はまだ燃えていた
「戦い抜け、兵どもォ!! 陛下の御名の下! 戦って戦って戦って、そして我等、等しく死を賜らん!」
「賜らん!」
「名誉ある死を、賜らん!!」
夜の空を滑空してくる者達がある。ほぼ無音のまま闇に紛れて襲い来る無数の暗殺者達
古木の樹皮のようながさついた肌。非常に薄い翼を忙しなくばたつかせる異形の大蝙蝠
ジャイアントバットだ。大の男と比べて勝る巨体を戦慄かせ、城壁上の弓手達に襲い掛かろうとしている
これまで戦線を支えてきた兵達が気付かぬ訳もない。即座に弓手と、主神より光の御業を預かる神官達の増員が成される
篭城戦が始まる。角笛のような雄叫びが其処彼処で上がる。戦士達のぶつかり合う音、悲鳴、こすれあう鎧の音、魔術が空を引き裂く音
戦いの歌の中でケルラインは目覚めた。王城地下、水没した薄暗い祭祀場の中心に風が巻いていた
――
「彼はとても戦える身体ではない! あれほど傷付いた者に戦いを強いるのか?!」
プレートアーマーを忙しなく鳴らすブリーズナンの言い分をインラ・ヴォアは少しも聞き入れなかった
王城地下、パシャスの祭壇に向かいながら銀の髪の女傑は怒鳴り返す
「戦士は力ある限り戦い続けなければならない!」
「半死半生の者を死地に送り出す程我等はおちぶれておらん!」
王城地下を流れる水脈は慈愛と復讐の女神パシャスの力を帯びている。普段使用される事は無いが祭壇も設置され、パシャスの信徒達が修行を積んでいる
そして今其処にはケルラインが匿われ、パシャスの信徒達から治療を施されている筈だった。インラ・ヴォアとブリーズナンの口論の理由はそのケルラインにある
タジャロの決戦でケルラインは致命的な傷を負った。胸には目を背けたくなるほどの火傷を負い、腹部は引き裂かれ、右腕と左太腿には穿痕があった。インラ・ヴォアの手当てと加護が無ければ王城に帰還する事も叶わず死んでいただろう
そしてそれ程の傷が容易く癒える筈も無い。血と泥で汚れた金髪を拭いながらブリーズナンは尚も言い募る
「古代の人間がどうかは知らんが、今の世の人間は傷を負えば死ぬのだ! 騎士ケルラインを死なせる気か!」
インラ・ヴォアは足を止めてくるりとブリーズナンに向き直る
爛々と光る金の瞳に猛獣のような迫力があった。ブリーズナンを黙らせるのには十分だった。そしてインラ・ヴォアはぎりぎりと歯を噛み締めたまま再び踵を返し、地下水脈の祭壇へと通じる扉を開け放つ
「彼をお前達の基準で語ってはならない。彼は私と同じく戦士の中の戦士だ。戦い、勝利するために生まれてきたのだ」
薄暗闇の中、松明が僅かに二本灯っているだけだった。その中にケルラインは居た
冷たい水の中で膝立ちになり、胸を押さえている。肌は赤らみ、肩は短い間隔で上下に動く。荒い息を吐いていた。ブリーズナンは唖然となる
「幾らパシャスの癒しを与えられたとて……僅か七日で起き上がるとは……」
「ケルライン、兄弟よ!」
褐色の肌に闇色のショールを纏った女が進み出る。パシャスの信徒の中でも特にその寵愛を受ける聖女だ
パシャスの聖女はインラ・ヴォアの歩みを押し留め、力なく首を振った
「今しばらくお待ちを」
ブリーズナンがそれ見たことかと口を挟む
「起き上がったのは全く驚異的だが彼を戦わせてはならない。今は休ませるべきだ」
「傷は問題ではありません」
「……何?」
水音を立ててケルラインが立ち上がる。ふらつく身体をパシャスの信徒達が支えた。ケルラインは地の底から響くような呻き声と共に天を仰ぐ
暗闇に閉ざされた天井を突き抜け、その視界は夜天を睨んでいる
「インラ・ヴォア、何故俺を生かす」
ケルラインの一言
インラ・ヴォアは歯噛みした。ケルラインがポツリと吐き出した苦悩はよく理解できた
タジャロの決戦では、彼の号令一つで何百もの命が失われた。そして最後にはその屍を置き去りに落ち延びたのである
それほどの決断を迷いなく行える者など早々居ない。クラウグスの戦士達は平然と命を投げ出して見せるが、決して心持たぬ兵器ではない。日々泣き笑い、成功と失敗を繰り返し、幾日も幾年も歴史を積み重ねてきた
それらの喪失の責任を躊躇なく受け止められる者など
インラ・ヴォアは迷い無く応えた
「お前の痛み、苦しみ、解るぞケルライン。我等は竜狩り、全て分かち合おう」
「主神とお前は! 彼等の魂に報いてくれるか?!」
誰かに縋り付きたいケルラインの気持ちがよく解る一言だった
ケルラインは誰にも依存できない。主神の加護を願いつつも、最後の最後まで救いその物を求める事が出来ない不器用な男だ
そしてその心情を理解したとき、インラ・ヴォアはもう一つ気付いた。己の心に
「俺は……戦えと言われれば戦って見せる。死ねと言われれば死のう。だが……彼等に報いる自信が無い」
「……全ての者達に覚悟はあった」
「俺は彼等に死を強要した。竜を倒すためだ。……俺を逃がす為に捨石になれとは一言も命じていない!」
「全ての者達はお前の盾となる覚悟があった!」
ケルライン、と怒鳴りつける。インラ・ヴォアは胸が潰れそうだった
だが、吐き出す言葉は厳しい
「彼等を憐れむなら私はそれを許さない。彼等は全てを受け入れて必要な戦いをした。正しい事を。……彼等に必要なのはお前の自己満足から出る慰めではない。栄光と、竜の首だ」
ケルラインはパシャスの信徒達をやんわりと離れさせる。戦場の風と音は地下水脈の祭壇まで確実に届いている
敵と味方、双方の雄叫びがケルラインを呼んでいた。じわりと痛む身体に青い燐光がよりそい、ケルラインに活力を与えていく
「この光が俺に戦えと囁く。死した戦士達の魂が……。団の同胞、ユーナー、ルーベニー、アンヴィケ、俺の知っている者だけではない。遠く地と空を隔てた、このクラウグスの何処か遠くで死んだ者達の魂ですら、俺を頼りに舞い戻る。顔も知らない筈の俺を信じて」
インラ・ヴォアはパシャスの聖女を突き飛ばしてケルラインに詰め寄った
強引に顔を向けさせると遮二無二抱きつく。噛み付くような荒々しさで
「だから……俺は……、全ての戦士達が、無駄死にでなかった証の為に」
「そうだ。ケルライン、お前の身体は熱く疼き、鼓動は力に満ちている」
「次の時代の為に、次の子らの為に」
「その力を全ての戦士達に分け与えてくれ。皆、お前の戦い振りを知っている。誰もがお前に希望を見出している」
「……インラ・ヴォア、闘志を与えてくれ。お前は常に俺を導いてくれた。もう一度戦う心を、最後の力を与えてくれ……」
「私が導いていたのではない。私は……お前に導かれていたのだ。今漸く解った。お前と共に万全を期して戦えば必ず勝てる確信があった。私はお前を信じきる事で不安から逃れたのだ。お前の理解者の心算だったのに、それはただの思い上がりだった」
だが、とインラ・ヴォアは続けた
「その上で言おう。お前は確実に勝利する。私が何としてもお前を助ける。……もう一度言う。お前は成し遂げる。絶対にだ」
ケルラインは大きく息を吸い込んで、力強く頷いた。事態を黙って見守っていたブリーズナンはケルラインの発する不思議な力に魅入られていた
人間だ。ブリーズナンから見たケルラインは。だが英雄の中の英雄だった。誰もが彼の向かう先に光を見出す。彼の勝利を心底から願うだろう
同胞の死に苦悩し、しかしそれを背負って立つ姿を見せ付けられて、それでも奮い立たぬ者はクラウグス人ではない
インラ・ヴォアに励まされ立ち上がった竜狩りの騎士はブリーズナンの目には神々しくすら見えた。強い自信が生まれる。その、傷を負っていながらも雄々しき背に付き従って戦えば、如何なる敵も打ち破れると
青き燐光を従えた静かな勇姿。何もしていなくとも、震える程の存在感だった。ブリーズナンは恭しく跪く
「……傷を負ってもなお勇者よ。私の認識が間違っていた。紋章旗をお持ちしよう。……私はブリーズナン、今は亡きロスタルカ殿の職責を引き継いでいる」
「……彼女は死んだか」
「そうだ、マヌズアルめを後一歩の所まで追い詰め、タジャロにて奪われていた火の宝剣を命と引き換えに奪還した。彼女の魂に名誉あれ。我等の戦いに栄光あれ。……竜狩り騎士よ、我等を導いてくれ。旗を掲げる貴公を先頭に、我等は地獄の底にだって踏み込もう」
ケルラインは腹の底に力を溜めて吠え立てた
「ブリーズナン! ならば戦いだ!」
「Woo!!」
「我が背を追え! 旗に続け!」
――
白む空。朝日が昇ろうとしていた。山脈から顔を覗かせる日輪の光が草原を舐り、闇を払う
夜間、夜目の魔法が合っても人間と魔獣でははっきりと優劣が現れる。暗闇が取り払われれば状況は好転すると思われた
必死に防戦続ける戦士達は太陽に雄叫びを上げた。勝利を求め更に士気を高める
そしてその場に狼は現れた
「正門! 敵首魁を見たり!!」
城壁上で指揮を執るガモンスクは鬼の形相で怒鳴り上げる。戦士達は血相を変えて身構えた。クラウグス王城正門前に一際大きなワーウルフとその取り巻きが現れたのだ
金の輪を首と腕に巻きつけた黒い毛並みの人狼だ。ただでさえ手強い魔獣の軍団が更に意気揚々となり、激しく吠え立て攻めかかって来る
「ガモンスク殿! 我等親衛隊が抑えましょう!」
「頼む! さぁ兵ども、粘れよォ!」
「むっ」
クラウグスの精鋭中の精鋭の投入をワーウルフ達は待たなかった
黒いワーウルフが跳躍して城壁に張り付く。そこからはあっと言う間だ。他のワーウルフにも無い驚異的な身体能力を生かし、大した凹凸も無い城壁を凄まじい勢いで上り詰める
ワーウルフの取り巻き達もそれに続いた。弓手隊は一瞬で蹴散らされ、陣を乱されたままそれらに対抗せねばならないガモンスク達は血の気も失せる心持だった
「獣風情が精鋭気取りか、洒落臭いわ!」
ガモンスクは無理に笑って剣を抜いて見せた。むしゃぶりつく様に襲い来る黒いワーウルフ。ガモンスクを護るため前に出た兵士が二名、瞬きの間に首を食い千切られる
「いざ敵将!!」
「将軍、お止めを!!!」
切り結ばんとするガモンスクとワーウルフ。ガモンスクは裂帛の気合をもって相対したが、残念なことに戦闘能力では圧倒的に劣勢だった。誰もがガモンスクの死を予想した
其処に割り込んだのはブリーズナンだった。乱戦の中邪魔する者を皆跳ね飛ばして横合いから黒いワーウルフに体当たりを仕掛ける
敵を押し退け睨みあう。油断無く盾を構え、ブリーズナンは怒鳴り散らした
「馬鹿者ども! 敵を前に怯むとは恥を知れ!」
「ブリーズナン、助かった」
「将軍もご自重下さい」
ずしん、と雄大に歩む者が居た
長大な斧槍に竜狩りの旗を閃かせ、具足手甲のみを身に纏い、胸の大火傷を風に晒す屈強の戦士
ケルラインは城壁上でがっぷりと押し合いへし合う兵士達の背後から現れ、何でもないかのようにするするとその隙間をすり抜けていく
「あ……? け、ケルライン・アバヌーク……か……?」
どよめきが起こり、漣のように広がっていく。唖然とする兵士達。旗が風に靡く
縦に割れた瞳の紋章の下、勝利はある。ケルラインは力強い足取りでとうとう最前線へと立った。歓呼の声が無数に上がった。戦場は更に白熱し始める
「ほら、彼が」
ケルラインは走り出した。彼の喉首を食い千切ろうと何体ものワーウルフが襲い掛かる
横合いから雷の矢がそれらを打ちすえた。インラ・ヴォアは高らかに宣言した
「さぁ行けケルライン! 私がついている!!」
朝の光が強く照らし始める中を、ケルラインは牙と爪を潜り抜けるようにして走った。捨て身となって戦士達がそれに続く。鋭利な爪と牙を閃かせる、強力な魔獣に挑みかかっていく
「勇者に続け! あの雄叫びに続け!」
幾人もの戦士達が勇を振るってケルラインを追う。ケルラインは己が肉体を捻り上げるようにして身を撓らせ、縦横無尽に斧槍を操った
擦り抜けて右手側の人狼の足を叩き折り、身を捩って左手側の人狼の腹を叩き割る。ガモンスクが驚きの声を上げる間に、ケルラインは黒いワーウルフに肉薄していた
「クラァァァーウグスッ!!!!」
雄叫びと共に繰り出された斧槍がワーウルフの首魁の右肩に食い込む。首魁は身を捩るもケルラインは更に踏み込み、喰らい付いて離れない
たたらを踏むワーウルフ。ケルラインは鼻面に頭突きを叩き込んだ。ワーウルフは怯んだ
もう、逃れる術は無かった。ケルラインは勢い良く斧槍の刃を引き抜き、円を描くようにして閃かせ、横殴りにその腹部へと叩き付けた
人狼は激痛から絶叫を上げた。その慟哭こそ、クラウグスの戦士達が求める敵の悲鳴に他ならなかった
「鎧もないまま、しかも一瞬か、あれ程の強敵を……!」
「ケルラインだ! 矢張り生きていた! 俺の言ったとおりだ!」
首魁の敗北にワーウルフの群れは一斉に崩れた。ガモンスクは追撃させず、兵達を留める
ケルラインは静かにワーウルフの首魁を見下ろす。背から倒れ伏して尚じたばたと足掻く首魁だったが、致命傷だ
容赦なく、その頭蓋に斧槍を叩き付けた。頭部を粉砕されたワーウルフの首魁は一度大きく痙攣し、動かなくなった
永遠にだ
「鍛え抜かれた彼の戦いの技の前には、悪鬼魔獣も抗えぬ!」
誰かが叫ぶ。Woo、と追従の声が上がる。誰もが武器と盾を天空へと突き上げて勇士を讃える
ガモンスクは汗を拭いながらケルラインに歩み寄った。男臭い笑みを浮かべていた
「矢張り、竜の炎如きで死ぬ男では無かったな」
「将軍、戦いを。……決着をつけましょう」
「あぁ、解っているとも。……だが、今は」
ガモンスクはケルラインの手を取って高く掲げさせた
「勝ち鬨上げよ! マヌズアル如き卑怯者に我等は負けん! 王国万歳! 陛下に! 神々に!」
「万歳! 全ての戦士達に!」
「我等の英雄に! ケルラインに!」
兵士達は狂ったように雄叫びを上げた。太陽が闇を払うように、ケルラインが敵を打ち払う
兵士達は確かにそれを見た。マヌズアル何する者ぞ、黒竜何する者ぞ
彼等には力が満ちていた。追い詰められ、そうやって熱狂するしかなかったのだ
逃げる事も諦める事も出来ず、健気だった。ケルラインの心臓の鼓動が強くなる
――
己が玉座を傲然と冷たい視線で見下ろしながらクアンティンは議論を戦わせる臣下達の声を聞いていた
竜やマヌズアルへの対策を喧々囂々と怒鳴りあっているが、右の耳から入る音がそのまま左から抜けていく。クアンティンは滑らかな手触りの赤い布が敷かれた玉座に触れる
この玉座に何時まで拘らねばならぬのか。クアンティンの怒りの源だった。常に物静かな少年王の双肩が、微かに震えていた
「者ども、控えよ」
厳かに告げれば群臣は皆慄き跪く。忠誠を示す彼等も、今や竜やマヌズアルの攻撃により多くが死んでいる
特に嘆くべきは重臣アッズアの死。タジャロの決戦に戦士達が敗北した後、竜はこれまでの静かさが嘘のようにクラウグスを荒らしまわった。そしてそれはこの王城も例外ではなかったのである
アッズアは焼かれて死に、今はその重責をボロフィンが引き継いでいる。若く、経験不足を懸念する声も在ったが、他に選択肢は無かった。それほど人材が死んでいた
苦痛で、惨めであった。悲鳴を上げたくなるほど多くの臣民を失って尚も、玉座にしがみ付いている事しか出来ない己が
だからクアンティンは決めていた
「勇者は目覚めた。我等に残された最後の戦力は窮地を切り抜けた。最後の機会を得たのだ」
ごくり、と誰かが唾を飲む
「……陛下、即座には無理です。王城の防備を整えねば」
「それには及ばぬ。この荒れ果てた城を欲しがる愚か者が居たら、面白い、くれてやれ」
「お戯れを」
ボロフィンが進み出た。蒼褪め、歯の根がカチカチと音を立てている。元々胆力のある女では無い
「陛下、それは……。クラウグス史上、この王城が奪われたことはありません。ここは主神より王権を賜りし地。何時如何なるときも、クラウグス人はこの霊地を守り抜いてきました」
「この城が、壁、門、魔方陣の守護が、あの黒竜を相手にどれ程の意味を持つ? 王権の威儀が竜を縛れるか? そも、この城の喪失が王権の喪失になろうか。王とは我、クアンティン。王権とは我、クアンティンである」
理解は出来る。納得は出来ぬ
そういった者は多い。故郷の為に命を賭そうとする者達が、いざその故郷、その歴史を捨てろと言われて易々納得は出来ない
だが、させねばならぬ。クアンティンは右手を掲げる
「扉を開けよ。我が騎士が参った」
扉を護る衛兵は困惑しきりだったが、それでも王の命令に忠実に従った
扉が開かれると通路の向こう側に複数の人影がある。先頭は不揃いな銀髪を揺らし肩で風を切って歩くインラ・ヴォア
彼女は足音高く玉座の間に入り、人狼の首級を二つ転がして見せた
「王城を狙うワーウルフの群れ三つ。内二つの群れの長を仕留めて来た。……だが矢張り一番手柄は」
インラ・ヴォアは背後の男に道を譲る。ケルラインだ
傷だらけの竜狩り騎士は、黒い人狼の首を投げ捨ててみせる。どよめく群臣
「ケルライン、そなたを待っていた」
「陛下、全ての責は私にあります。タジャロに集いし戦士達は私の命令に完璧に服従しました」
「余はタジャロの戦いの仔細を知っている。そなた等を責める気持ちは少しも無い」
跪くケルライン
面を上げよとクアンティンが命ずれば、ケルラインは凄まじい目つきでクアンティンを見上げた。鬼気迫る物が表情にあった
「タジャロの決戦の後、黒竜とその下僕達は正に縦横無尽に暴れまわった。四つの要塞、七つの街、そして無数の村落が焼き滅ぼされ、それはこの王城も例外ではなく、城下の民を避難させるので精一杯だった。……黒竜はタジャロに戻り、疲れを癒していると聞く。ケルライン、今やクラウグス人はその数を半減させている。冗談でも、比喩でもなく、二人に一人が死んでいる」
人口の半減は、国家がその態を成していないことを意味している。今やクラウグスは滅ぼうとしているのだ
ケルラインは歯を食い縛る。そうしなければ奥歯を鳴らしてしまいそうだった。竜が現れるまでは心のどこかで永久不滅の国家であると信じていたクラウグス。永遠の物など存在しないのに己が祖国だけはそうではないと思っていた
最早死に態である。そしてそこまで行けば捨て身にもなれようと言う物だ。諦観が無いかと言われれば否定できない。だがクラウグスに残された最後の一線を守り抜くため、ケルラインは戦い続ける覚悟を決めていた
「ケルライン、この城をどう見る? 栄光の日々は過ぎ去り、幾度もの襲撃によって荒れ果てた姿は、今正に滅ばんとするクラウグスの体現だ」
「まだ陛下が居られます」
「……そうだ。余ある限りそなた等を不名誉な屈辱に塗れさせはしない」
「クラウグスは滅びませぬ。何度でも立ち上がりましょう。陛下ある限り」
「よくぞ言った」
クアンティンは剣を引き抜いて玉座に突き立てた。ここには戻らぬと言う決意表明だ
城でも玉座でも断じてない。我こそクアンティン、我こそクラウグス
栄光の残骸に縋りつくことだけは決してしない。クアンティンは王冠を脱いで玉座へと放り投げた
「余は未だ王であるか?!」
「は!」
「そなた等の忠誠を受けるに相応しい男か?!」
「は!」
「ならば」
大喝
「者ども! 余を荒れ果てた城にしがみ付くだけの情けない男にするな! 余こそクアンティン! 余こそクラウグス! 我が魂は祖国と同化し、これと生き、これと死ぬ! 如何に?!」
「陛下の!」
ガモンスクが後押しするように声を上げた。アッズア亡き今、ハルカンドラの時代より重責を担う老いた忠臣の言葉には、王城の礎石よりも重い物がある
「御心のままに……」
ずしん、と腹に響くような声。跪く姿は流石、堂に入っている
インラ・ヴォアが喚いてみせる。握り拳を作り、力瘤を作る。永き時を越えた古の戦士の笑みは、この場のだれよりも大胆不敵だ
「命を奉げん! 未来を開かん!」
思い思いに右手を掲げる騎士達。クラウグスに残された最後の戦力。老いも若いも無く、その全てを戦いに奉げる覚悟を決めた者達。
「ご命令を!」
「栄光あるクアンティン王よ!」
「陛下の御為に! 死を、お命じ下さい!」
クアンティンが右手を上げて合図した。侍従が火の宝剣を奉げ持って現れ、ケルラインは呼吸も止まる思いだった
火の宝剣はタジャロに置き去りにされマヌズアルに奪われた。ロスタルカが命と引き換えにマヌズアルの右手を斬り落とし、宝剣を奪還したと聞く
「再び我が剣を持ち、全ての戦士達の魁となるが良い、ケルライン」
最敬礼を行う。全身が熱を持っていた。クアンティンは今尚ケルラインを信じていて、ケルラインにもそれが伝わってきた
否やは無かった。ケルラインは宝剣を受け取る。これでよい。クアンティンは目を閉じ、そして染み渡るような声で言った
「行くぞ。――反撃だ」
怒号は王城を揺らした。伝播するそれは兵士達からも雄叫びを引き出し、王都は熱狂に揺れた
何処かで誰かが叫んでいて、その叫び声は勇気を奮い立たせるものだ
戦いに向かう狂乱の叫びだった
――
整然と列を成し城門を潜る戦士達を見送る。戦いの為の物資は整えられており、夕焼けを見る前には準備が完了した
旗を携え、戦いに赴く一人一人の顔を見遣りながら、ケルラインは城門の脇に立ち続けた。するとインラ・ヴォアがケルラインを呼びに来る
インラ・ヴォアは玉座の間にて見せた気炎を完全に押さえ込み、目を伏せながらケルラインに要求した
「ビオを看取ってやって欲しい」
ケルラインは凍りついた。インラ・ヴォアはビオの死をケルラインに伝えに来たのだ
最後にビオを見た記憶はタジャロの上空にて黒竜に果敢に攻めかかる姿だ。目覚めた後は、ビオは黒竜の後を追いその力を殺ぐ事に注力していると教えられ、不安を感じつつも深く詮索はしなかった
戦いの準備に忙殺されていたのだ。ケルラインはその事を酷く歯痒く思った
「……ビオは……死ぬのか」
「死ぬ。我等に比べて永き時を生きるが、奴も死すべき魂の者。死ぬときは、死ぬ」
「……竜との戦いで?」
「奴はクラウグスを荒らし回る黒竜を少しでも足止めしようと必死だった。翼を焼かれ、尾を毟られて、それでも戦いを続けた」
「何故そこまで……」
風精ビオは常に皮肉げな鳥だった。神々を年ばかり食った置物、人間を進歩の無い木石と言って憚らないような所があった
それらの大半はただの軽口である事をケルラインは知っていたが、だとしてもビオが己の消滅を賭してまで人間のために献身を奉げる理由はそれほど無い
だから、言ってしまえば意外だった
インラ・ヴォアは天を見上げる。クラウグスの危機など全く関係ないとでも言いたげな爽快な晴天が広がっている
「お前が立ち上がる時間を稼ぐためだ。盟友だから、それに相応しい働きをした」
「……ビオに会おう。今何処に?」
インラ・ヴォアは無言で歩き出す。ケルラインはそれに従う
クラウグス王都を出た直ぐ先の草原。以前は青々と背の低い野草が茂っていたが、それらは焼き尽くされ、或いは魔獣に踏み躙られ、黒く変色した地面が広がっている
其処にビオは寝そべっていた。見るも無残に焦がされた醜い翼をだらりと広げて、ぴくりともせずにいた。周囲でそれを護衛する兵士達の目には諦観がある
「さぁ。……私はもう……十分に話した」
インラ・ヴォアが促す。助からないのだな、とケルラインは思った
「ビオ」
『……やぁ、ケルライン。……ふ、ふっふっふ……あの年寄り蜥蜴を、散々に突き回してやったぞ……』
「お前を……最も困難な戦いに、たった一人で送り出してしまった……」
『奴は傷付き、疲れ果てている……。君達が紋章旗の加護を得て奴に刻んだ傷は決して癒える事は無い。奴は神々の勢力に属する者に対し有害な力を備えているが、同時に奴も神々の力を恐れているんだ』
「ビオ、苦しいだろう。もう良いのだ」
ビオの煌く瞳がケルラインを見た。誰よりも激しく、長く竜と戦い続け、今死に行こうとする風精の瞳は、誰よりも輝いていた
『苦しくないぞ、ケルライン』
「ビオ、どうしてだ」
『どちらの意味だ? ……そうだな……ケルライン、ならばどうしてだ』
言葉遊びのようなビオとの問答。ビオはくっくと笑う。応える言葉も無く、ケルラインはその傍らに膝を着いてビオの首を撫でる
『タジャロで……君は僕を護ったろう。御節介な奴だ。竜の炎の息が怖くないのか?』
「あれは脅威だ。だが兄弟を護る為なら恐れる物か、何処にだって飛び込むとも。……騎士の盾はそのためにある」
『……君が僕を……兄弟と呼んでくれるのならば……、僕の答えもそれさ』
ビオの目が閉じられる。インラ・ヴォアが息を潜めてジッとビオを見詰めている
『君が……僕を護ってくれたからだ。年甲斐も無く……嬉しかったのさ。人間の方から、友情を示されるのが、久し振りで……。そうだ、……苦しくも、……恐くも無いとも』
「ビ……オ……」
『だから僕も……君を助けるのだ。その為ならば、兄弟の為のならば』
ビオの体が青白い光が溢れ出す。魂の輝きだ。濁流の如く放出され、風が渦を巻くように天を駆け巡る
『……ちっとも苦しくないし……何も恐くないよ……』
それは一頻り空を舞い、十分に風を味わい尽くした後、ケルラインの持つ紋章旗へと吸い込まれていった
旗が脈打つように感じた。仄かな暖かさが伝わり、ケルラインは天を仰いだ
最後にもう一度だけビオの声が聞こえた。それは音では無いのにケルラインの胸に確かに届いた。旗が震えて、ケルラインに語りかけたのだった
盟友よ
ビオが空を舞うことはもう二度とない
「ビオが死んだ。旗は力を増したろう」
「インラ・ヴォア……。俺は切ない。お前はもっと、そうなのだろうな……」
「……大丈夫だ。戦っているのだから、死にもする。だが無用な死は受け入れられない。同胞達を救うために旗を掲げるのに、同胞達が死ぬほど旗が力を増していくのは……何とも、苦しいな」
「ビオは俺と共にいる。旗からビオの鼓動を感じる」
「天晴れ見事、と言う他無い。ビオは正に我等の盟友であった。利害を超えた、互いに命を奉げて惜しくないと思えるほどの真の友であった。ビオ、ドラゴンアイを通して見ているが良い」
インラ・ヴォアは顎をつんと上げて宣言した
「お前の戦いを決して無駄にはしない」
――
「あの混乱の中で尚も軍馬の面倒を見ていた者達には褒美を与えねばならぬな」
クアンティンは荒廃したクラウグスを引き裂かれたようだと評した。王の率いる軍勢は、その引き裂かれた大地を声も無く進んだ
焼き滅ぼされた村々を越え、魔獣の気配の満ちた荒野を越えた。途中、クラウグス王国を縦断するように流れるフィネス大河に掛けられた大橋が落とされている事が判明し、仕方なく急ごしらえに架橋して突破した
二度ほど魔物の襲撃があった。ゴブリンとジャイアントバットを主体とし、時折粗雑な作りの大斧を持ったオーガが雑じる混成軍だ。生命をかなぐり捨て黒竜への復讐のみを糧に前進する戦士達は一息にこれを撃破した。彼等は自身ですら驚くほどの強さを発揮していた
黒竜が待ち受けるタジャロ要塞まで後一日掛からない程度の距離まで到達した時、北の丘陵を越えて人間の軍勢が現れた。先頭を走る騎馬はケルラインと共に戦ったこともあるティタン。彼等は黒竜の攻撃により大打撃を受け、今や崩壊しつつあるアッズワース要塞が、最後の余力を振り絞って差し向けた援軍であった
クアンティンは当然ティタンらを歓迎した
「よくぞ駆け付けた。褒め置こう」
「それはどうも」
気も漫ろな言葉をティタンは返した。ぎらり、とその視線がケルラインに注がれていた。以前初めてアッズワースで出会った時の、何処か冷めたような視線とは明らかに違う
クアンティンは馬上からティタンの様子をよく観察する。無礼を咎める心算はクアンティンには無かった
「ケルライン、彼はそなたを知っているようだが」
「アッズワースへ赴いたとき、共に戦いました。彼の戦士としての力量は私を含め多くの者を凌駕しております。頼りになりましょう」
「良い。心強い味方を得た。ケルライン、彼等の配置はそなたが」
行軍は再開される
ケルラインと轡を並べたティタンは静かな様な佇まいを見せている。じっと前を睨みつけながら、ぽつりと言う
「騎士ケルライン、タジャロには赤銅の牡鹿達も居たと聞いた」
「その通りだ。バルマンセと言う若者が、かの義勇兵達を強力に統率していた」
「どんな戦い振りだった?」
「言うまでも無い事だが、勇猛だった。雲の如く空を覆う飛竜達に対しまるで恐れを知らず、嘶く牡鹿の紋章が描かれた盾を持つ者達は首を食い千切られても最後の最後まで弓手達を守り抜いた」
「そうか……。騎士ケルライン、俺はアメデューと出会うまでは牡鹿団にいた。その時はロンブエルも健在で、傭兵働きをしていた。バルマンセとも苦楽を分かち合った。奴等ならばアンタの号令で誇り高く戦い抜くことが出来たと信じている。……心の底から感謝する」
ケルラインは重々しく頷いた。赤銅の牡鹿戦士団は以前から他の傭兵組織とは一線を画す存在として知られていた。強さ、行動の迅速さで他を凌駕しており、大陸西部の魔物の領域に近い地方では彼等を讃える歌が幾つかあった
団員の強さと意識の水準は高く、彼等の一員となるには大変な苦労をすると聞く。だがティタン程の男ならば牡鹿団に在籍していたとしても全く不思議では無い
「ティタン、バルマンセ達は俺の盾となって死んだ。燃え盛るタジャロ要塞に、敗北必至の状況となって尚も、黒竜を足止めするため踏み止まった」
ケルラインの告白にティタンは少しだけ口元を綻ばせた
「牡鹿は嘶いた。それだけだ。……奴等がもういないのなら、俺にとって大切な事は何も残っちゃいないって訳だ。アンタの命令で死のう、ケルライン」
気の無い様子でそっと告げてティタンはケルラインの背後に着く。冷え冷えとした恐るべき戦意をティタンから感じる。何をどうしても竜を殺すという気迫だ
ケルラインはティタンを横目で見送って視線を正面に向けた。ティタンの言葉の意味は深く考えずともよく解った
竜は差別しない。貴も賤も無い。等しく破壊し、焼き滅ぼす
誰の愛する人であっても、だ
――
時刻は昼過ぎ。曇天。タジャロへと続く平原は暗い瘴気に満ちていた。焦げた地面、遠方から響く魔獣の遠吠え、およそクラウグスとは思えぬ光景だった
小高い丘からタジャロを伺う。あの決戦から十日以上も経つのに、未だに黒い煙が俄かに立ち上っていた。完全に砕かれた東の城壁は竜の仕業であろうか
そして要塞の前に集結し、クアンティンの軍勢を待ち受ける魔物の群れ
ゴブリン、オーガ、ワーウルフ。空には少なくない数のジャイアントバット。マヌズアルが好んで使役する魔物達だ。最も脅威と思われるワーウルフの数が特に多い
「平野決戦か」
馬上にてクアンティン。後ろを振り返れば整列した兵士達の視線とぶつかる
このような地形で真正面からぶつかりあうとなれば被害が大きくなるのは目に見えている。それに付け加え、彼等は既に死の覚悟を決めている。行け、と一度命令すれば、勝利を得るか命を失うまで止まらないだろう
「ケルライン、出来ればそなたや彼等の負担を減らしてやりたかった」
「陛下、有難きお言葉」
ケルラインがクアンティンよりも前に馬を進ませた
「馬はどうすべきだ? 一度黒竜が咆哮すれば馬は役に立つまい。落馬する者が続出しよう」
「いえ、このままで。例え奴が吼えたとしても……我等で」
斧槍に括り付けられた紋章旗を示してケルラインは言った。ケルラインの雄叫びと旗に宿る者達で、如何な妨害も押さえ込む
クアンティンは納得した。そして彼にとって産まれて初めてとなる軍勢のぶつかり合いに、ぶるりと武者震いした
兵士を動かしたことが無いでも無いが、攻めかかると言うのは始めての経験だ。ケルラインがそれを見て嬉しそうに笑った
「陛下、ご命令を」
「……」
すぅ、と大きく息を吸い込んで
Woooooo!!
クアンティンは吼えた。少年の甲高い雄叫びは平原中を揺らした
大喝の魔法だ。増幅された王の声に戦士達は震えた
「時は来た! 兵ども! 唸れよ、我が声に!」
Woo!!
「我が名の下にそなた等は戦い! 我が名の下にそなた等は死ぬ! 死してそなた等は我となり、未来永劫クラウグスと同化する! ……我は決して忘れぬ! そなた等が如何にして戦い、如何にして死んだかを!! さぁ我が運命の戦士達……!」
全ての者達が刃を天へと突き上げた
「戦え!」
「Woo!」
「戦え!」
「Woo!」
「戦え!」
「Woo!」
「ケルラァァイィィン!! 旗ァッ、掲げぇい!!」
「クラァァウグスッ!!」
「突撃せよ! 地獄の底まで!!」
ケルラインの騎馬が真先に飛び出す。気炎を上げる騎士達がその背後を猛追し、徒歩の戦士達が更に続く
ケルラインは旗を掲げた。竜眼の紋章旗がタジャロ平原を睥睨し、青い光りを放った
今までの淡い燐光とは全く違う、力強い光りだ。光りは戦士達を取り巻いて、その四肢に力を漲らせる
「傍に居ろ。インラ・ヴォア!」
「勝利を掴むぞ、ケルライン!」
ケルラインの向かう先で影がうごめく。魔物の群れがケルライン達の雄叫びに触発されたように唸り声を上げ、前進を始めた
ケルラインはマントを翻らせて疾走する
思い切り伸ばした腕。地面と水平になるまで持ち上げられた斧槍
騎馬の背を締める逞しい太腿の筋肉がミチミチと鳴る。顔は僅かに俯いているが、視線は真直ぐ前を睨みすえている
風に揺れる紋章旗。青い光りに包まれて、それを追う戦士達
「戦士よ! 勇猛果敢! 神速果断! 幾多の同胞の骸を越え、傷付き、疲れ果て、尚も使命に殉ずる高潔な魂達よ!
さぁ旗を追え! 我が背に続けぇ!!」
――クラウグス!!
そして、戦士達は魔物と突撃した。入念に調練され臆病さを捨て去った軍馬とそれを操る騎士達。熱狂のままに成された突撃は、ゴブリンだろうがオーガだろうが問答無用で踏み躙った
兎に角勢いがあった。決死の兵とは恐るべき物で、彼等は致命傷を負おうとも決して前進を止めようとはしなかった
その先頭に立つケルラインとインラ・ヴォア。特にケルラインは羅刹の如き戦い振りだった。踏み躙った魔物の壁が物言わぬ肉塊となって漸くその突撃を押し留めるも、ケルラインは手当たり次第に斧槍を叩き付ける
数で押し潰そうとする魔物達をインラ・ヴォアが防いだ。無二の弓の腕を誇る彼女は剣の扱いも巧みで、ケルラインの脇をよく護る
騎士達の突撃によって完全に崩壊した魔物の戦線に、二陣としてティタンを先頭に徒歩の者達が襲い掛かる
ティタンの剣は出鱈目に鋭い。一呼吸の間に鋭く二振りし、その度に魔物が倒れ伏す。それは相手がオーガやワーウルフであっても変わらない。ティタンの一戦士としての実力は他とは隔絶した物だった
「ガモンスク! 前へ出る!」
「御意! ブリーズナン、陛下をお守りしろ!」
「心得た!」
クアンティンと彼を護る最精鋭達がじわりと前へ出る。ガモンスクは更にそれより外れ、選抜された一隊を率いて横撃を試みた
ケルライン達が暴れまわる戦線を大回りに抜けて、ぐちゃぐちゃになった魔物の群れを横合いから殴りつける
戦場は混沌を極めた。前に、前に、ただ只管に前に。戦士達はそれだけを唱え、敵を押した
ケルラインの隣で騎士が一人気を吐いた。ワーウルフの牙によって首を傷つけられており、既に危険な程失血している
「貴公さえ……タジャロに辿り着けば……、貴公……さえ……、うお、おぉぉ!!」
裂帛の気合で以て敵に切りかかり、前のめりに死んで行く。誰も彼もが死んでいく
男も女も無い。強いも弱いも無い。それが予定調和のように、予め定められた事の様に
運命だと言わんばかりに、誰も彼もが死んで行く
ケルラインを前に進ませる為にだ。タジャロ要塞で全ての者達がケルラインの為に黒竜への血路を切り開いた
それと全く同じだ
「行け! 行け! 主神と英霊達の加護ぞある!」
「例え死しても我等は一つ! 例え死しても、我等はケルラインの旗の元に舞い戻る! 我等の絆は永遠だ!」
「さぁ行け! 行け! ケルライン! インラ・ヴォア! 行け! 行けぇ!」
ケルラインは斧槍を振った。放たれる青き光りがどんどん強さを増していく。インラ・ヴォアだって負けてはいない
行け、行け、と、その言葉通りに
戦士達の究極の犠牲に報いる為に
ケルラインの騎馬がとうとう倒れた。ケルラインは即座に身を起こして尚も敵を叩く。それを見たインラ・ヴォアも騎馬を捨て、右手に剣を、左手に銀の短剣を握り締めた
押して、打って、切り裂いて、激しい戦いは続いた。多くの血が流され、タジャロ平原は敵味方の死体で埋め尽くされた。それらを乗り越えて息ある物が敵に向かう。ただ雄叫びと共に敵に打ち掛かる
その地獄の光景を見てガモンスクはがは、と笑った。目の前には一際大きなワーウルフ。その胸をガモンスクの剣が貫き、その爪はガモンスクの首を切り裂いていた
心臓の鼓動に合わせて断続的に噴出す己の血飛沫にガモンスクはもう一度笑う
「カカカ……戦って死ぬは……本懐である」
「将軍! 将軍、御気を確かに!」
部下の呼び掛けも虚しくガモンスクは膝を着いた。心臓の鼓動は止まっていた
そして兵士達の動揺に気付けぬクアンティンではない
「ガモンスク……!」
豪放で気持ちの良い男だった。クアンティンは書物からは得られぬ物をガモンスクから学んだ
ガモンスクを好ましく思っていた。覚悟はしていた。だが、それでもクアンティンは叫んだ
「ガモンスク! 青き光となれ! 余の戦いを見届けろ! 行くぞブリーズナン!」
「近衛隊! 精鋭中の精鋭よ! ガモンスク将軍の仇を討つぞ!」
遮二無二ぶつかり合うケルラインと魔獣達。横合いからその塊を攻撃していたガモンスクの隊。半包囲の形であり、それで互角だった。魔獣は凶暴で殺戮を行う時は非常に俊敏だ。強力であった
ガモンスクの死によって崩れかけた半包囲が即座に統制を取り戻す。クアンティンの眼の元に全ての戦士は名誉ある死を望む
死を求める。不思議なことではない。竜に家族も故郷も何もかも焼かれ、生きる理由を持たぬ者は多い
だからせめて名誉と、自らの死を礎として蘇るクラウグスを夢見た。偉大なる王者の眼前で最後の最後まで戦い抜く忠勇の烈士たらんとした
彼等の気持ちをクアンティンは知っていた
「余が死ねと命じたら…………」
そなた等は、死んでしまうのだな。クアンティンは己を護る騎士達の血を浴びて絶叫した
「…………行け! 突破せよ! 勝利のために、そなた等の命をくれ!!」
「おぉぉ! クラァァウグスゥゥッ!!」
「光栄であります、王陛下!!」
王直々の号令は部隊を大きく撓ませた。そう、人の群れが大きく撓んだ。そして、途端に大きな攻撃力を発揮したのだ
まるで魔法のような言葉だった。クアンティンの言葉に魅了されたかのように戦士達はぶつかって行く
そしてとうとうケルラインが魔獣の群れを突破した。如何な武器も、牙も、怖気の走るような残虐性も、濁流の如き悪意も、ケルラインを止められはしなかった
ぜいぜいと荒い息を吐くケルラインは当然の如く血と泥と傷に塗れてぐちゃぐちゃだった。その見開かれた両の目は魔獣よりも魔獣らしい
生死の境、戦いに次ぐ戦い。ケルラインは戦いの本能のままに斧槍を振るった。綺麗な有様ではなかったが戦いの場においてこれ程味方を勇気付ける勇者はいない筈だ
ケルラインと同じくぐちゃぐちゃになったインラ・ヴォアが振り返り叫ぶ
「兵ども、敵を皆殺しにしろ! 奴等の血が死した者達への慰めになるだろう!」
吼え猛る戦士達は魔獣の群れを突き崩していく。更に敵の一角を破ってティタンが躍り出てきた。矢張り血と泥に塗れており、目に凍えるような殺意を宿らせて周囲を睨みすえている
インラ・ヴォアはこれ幸いとばかりにティタンを呼んだ
「アッズワースの勇者ティタン! 我等に続け! タジャロに向かうぞ!」
「良いだろう! 竜を殺す!」
ケルラインは天を掻き混ぜる様に大きく旗を振った。風に靡く旗と青い輝きに魅せられて、魔獣の群れを突破した戦士達が続々とケルラインの下へと集い始める
激しい戦闘が続く中、ケルラインは僅かの間周囲を見渡して状況判断に勤めた
そしてクアンティンが威風堂々兵士達を叱咤激励しているのを見ると、即座に覚悟を決めた
「この中で既に家族の亡き者、その中でも帰るべき故郷や、戦いの後に戻るべき営みすらも破壊された者のみ、此処に残れ! 後の者は陛下の下知に! ……良いか、戦士の宣誓の下虚偽は許さん!」
ケルラインの直近に居た戦士が悲鳴を上げて懇願する
「馬鹿な! ここまで来てそれは無いだろう! 竜狩りよ、共に栄光を追い求めさせてくれ!」
「これより先、この苦境をも超える困難が訪れる! 餓える民は帰る場所もなく、クラウグスを狙う外敵に怯え続けねばならない! 戦いはまだ続くのだ! 彼等を護る者が必要だ!」
ケルラインと共に戦う事を望む者は一人二人では効かなかった
「俺には故郷が残っているが妻も子ももう居ない。妻子の居ない家に帰って何になる? この上は、仲間と共に死ぬ事だけが望みなのだ!」
「竜狩りよ、竜を討つのに一兵でも惜しい筈だ」
「部下達に、俺の事は死んだ物と思えと言い残してきた! 俺に恥を掻かせようと言うのか?!」
「此処で貴公等を見送るは余りに耐え難きこと。貴公ならば解ってくれよう!」
くどい、とケルラインは怒鳴りつけた
「服従せよ! 俺は既に命令した!」
ケルラインの意思を覆せないと理解した戦士達は一様に押し黙り、肩を落とした
その内の一人、最も若手である青年が眦に涙を光らせながら言った
「ケルライン殿、貴方は残酷な方だ……。これより、陛下の下へ向かいます。……貴方に勝利があらんことを」
そして敬礼。ケルラインに背を向けると、直ぐ傍に居た同年代の騎士と別れの抱擁を交わす
「あぁ羨ましいな、友よ。君の名誉と栄光が永遠の物でありますように」
「さらばだ。叶うならば共に騎士ケルラインの背を追い続けたかったが、その彼の命令とあっては仕方あるまい。……必ずや陛下を御守りし、我等が戦いを後世へと語り継いでくれ」
「約束する」
それを皮切りに、戦士達はケルラインへと敬礼を行い、その指揮下を離れていく。最終的に六十名ほどが残り、ケルラインは彼等の顔を見渡した
満足しきったような、あるいは不敵なふてぶてしい顔をしていた。一片の憂いもなく、これから己を待ち受ける運命のことを理解している
「タジャロに突貫する。或いは真の勇者は実力と神々の加護で以て生き延びるかも知れん。だが敢えて言おう。……俺と共に死んで貰う」
戦士達は歓喜した。そこにあるのは戦って死ねる喜びだった
純朴な人間達だ。祖国と同胞を護って死ぬ事こそ至高とし、事その場に至れば一片の気後れも見せない
ケルラインの掲げるドラゴンアイの紋章旗。石突で地面を鳴らせば青き光りが瞬き、それは今やは眩いばかりの輝きに成長している
いざ、行かん。ケルラインはタジャロへと向き直った
「…………クラァァァウグゥゥゥースッ!!!」
――ケルライン
誰かに呼ばれた気がした。振り返れば、遥か後方のクアンティンと瞳が交差した
――
タジャロの崩れかけた門にむしゃぶりつく戦士達。ケルラインは新たに沸いて出た魔獣達と押し合い圧し合いしながら門の向うの気配を感じていた
酷く弱弱しいのに凶暴。手負いの獣の如き荒々しさを感じる
そこに居るのか、竜よ。ケルラインは更に兵を叱咤する
「押せ! 押せば開く!」
攻城のための装備一つなく城門に挑むなど平素なら死んでも御免だったが、この壊れかけの門が相手なら分の良い賭けだ
戦士達の何度目かの息を揃えた体当たりに、城門が僅かに開く
馬に乗ったブリーズナンが駆け付けた。ケルラインは流石に顔色を変えた
「ブリーズナン、陛下の守護は?!」
「陛下の御命令だ! 我等も竜と戦う!」
「しかし!」
「近衛の大部分を残してある! ワーウルフが束になろうと陛下には触れさせぬさ!」
問答の時間はそれ程なかった。ケルラインの援護に駆け付けたブリーズナン達はワーウルフの群れに果敢に斬り掛かり、即座にこれを排除した
そして力を合わせて門を押す。また少し、門が開く
人一人が擦り抜けられる程度の幅だ。そしてその向うで濁った黄褐色の目をギョロつかせる黒い毛並みの獣人。突き出た鼻、鋭い牙の並ぶ口。凶相の狼
マヌズアルだった
マヌズアルは血の滲んだ包帯の巻かれた左腕を突き出す。そこから紫色の霧か、煙のような物が立ち上ったかと思うと、門を押していた兵士達が胸を押さえて悶絶した
「マヌズアル! 貴様ァ!」
毒の霧だ。ブリーズナンが咄嗟に兵士達を突き飛ばし、同時に深紅のスカーフを口元まで引き上げる
インラ・ヴォアが雷の矢を放つとマヌズアルはさっと身を翻した。ティタンが舌打ちしてその後を追い、城門を擦り抜けた
「我等も行くぞ!」
ケルラインを先頭にその後を追う。タジャロ城砦に踏み入れば、竜は居た
竜は、居た。それはそうだ。その巨体を見逃す筈がない。いやでも目に入る物だ。それにそもそも竜を追い求めてタジャロまで来た。舞い戻ってきたのだ
だがケルラインは唖然と思ってしまった。あ、居るな、等とそのような風に
「竜」
鎌首を地に伏させ、翼を折り畳み、尾は丸まっている。そこに天を駆け抜けクラウグスを地獄の底へと叩き落した恐るべき威容は無い
十日以上も前に竜に穿たれた傷は未だに溶岩の血潮を垂れ流していた。戦士達が命を代価として竜に刻んだ無数の傷、その一つ一つが、まるで涙を流すように血を流していた
特にケルラインが斧槍を叩き付けた首の傷。黒竜には何らかの治癒の力が働いているのだろう、その大きな傷を周辺の肉が盛り上がり埋めようとする。だが、まるで目に見えぬ手がそれを引き裂くように次の瞬間には傷が広がり、血を噴出している
地獄の苦しみの筈だ。しかしその苦しみに喘ぎながらもギラギラ輝く夕日が如き瞳
獣は傷を負ってからが手強い。相手は竜だ。狼に挑む何万倍もの意思を持って挑まねば鳴るまい
ケルラインには驕りも油断も恐れも無い
「竜よ、……俺とインラ・ヴォアを待っていたのだな」
竜の眼前、ワーウルフの群れを引き連れたマヌズアルがティタンと相対していた。マヌズアルはケルラインの呟きを聞き咎め、その獣相を憎しみに歪める
「貴様さえ」
しわがれた声だった。何をどうすればそのような声になるのか、目の粗く硬い布切れを力任せに引き裂くような声だ
「貴様さえ居らねば……。我等が黒き太陽が、貴様などに執着されねば、如何にクラウグスと言えど七日の内に滅ぼせた物を……」
「黒き太陽」
身を横たえた黒竜の赤き瞳がケルラインを射抜く
マヌズアルは黒竜を黒き太陽と呼んでいるらしかった。成程、と思わなくもない
太陽とは神の化身だ。昼夜を月と分け合い、天空を支配する永劫の輝き。マヌズアルが己の神、それもあれ程の炎の力を誇る竜を太陽と評したくなるのも頷ける
だが一方ティタンはマヌズアルを鼻で笑い飛ばした。マヌズアルや無数のワーウルフと睨みあい、一歩も退く気配の無い所は流石の胆力であった
「知っているぞ犬っころ。お前、近衛隊長ロスタルカに利き腕を奪われたそうだな? その調子じゃさぞかし生き辛いだろう。そこの薄汚いトカゲ共々、腹を切り裂いて楽にしてやる。……アメデュー、牡鹿団、……俺の愛した者達への餞に」
「笑わせるでない、驕ったクラウグス人よ。あの方は貴様等を焼き尽くす黒き太陽。そして私は黒き太陽の信徒。如何に偉大な戦士であろうと、太陽に敵う筈もない」
「ソイツが太陽だと? 犬、良いことを教えてやる。太陽は常に天空に一つ。ソイツはただの飯を食い過ぎたトカゲで、今から俺と騎士ケルラインに駆除される」
「おいアッズワースの。このインラ・ヴォアを忘れてもらっては困る」
殺気だったティタンが一歩踏み出した。牙をむき出しにしてマヌズアルがそれに応える
武者震いの末堪らず口を出したインラ・ヴォアがティタンに習い、ブリーズナンが剣と盾を打ち鳴らしてそれに続く
そしてケルラインは竜と見詰め合っていた
「勘違いしておるな! クラウグス人ども! どれ程傷付かれようがあの方の力は衰える物ではない! あの方は無敵! あの方は不滅! 忌々しき竜狩り騎士に刻まれた傷を癒した暁には、貴様等の国土も、歴史も、文化も! 悉くを焼き尽くして闇の底へと葬り去ってくださるのだッ!!」
そして貴様等はこのマヌズアルが殺す。そう宣言する亜人の背後で、黒い巨体がのそりと動いた
黒き巨岩の尾が撓っていた。地を握り締める竜の足。音速を超える速度で振り払われた黒竜の尾がワーウルフの群れを纏めて薙ぐ
マヌズアルは背後を振り返り驚愕した。自らの信奉する神が、自らを食らわんと大顎を開いていたからである
「なん」
一口だった。黒竜は幅広で肉厚な牙の並んだ顎の中にマヌズアルをすっぽりと収め、瞬く間に租借し飲み込んだ
ティタンは俊敏に飛び跳ねて後退する。呆然と突っ立っていればマヌズアルごと上半身を食い千切られていただろう
「ま、マヌズアルを食った?」
ブリーズナンが見れば解ることを口に出す。誰にとっても予想外の事態であるから、当然彼にとってもそうだ。ブリーズナンは俄かに動転している
ケルラインはその様をジッと見詰めている。黒竜の瞳も、ケルラインを睨み据えている
「竜は、竜。誰の思い通りにもならぬ。神すら喰らい尽くさんとするとするその力、その欲望、マヌズアル如きが理解し切れようか」
「……ふ、確かにその通り」
ケルラインが悟ったように呟けばしたり顔でインラ・ヴォアが相槌を打った
インラ・ヴォアはマヌズアルのような卑怯者は必ずや救いの無い最期を迎えると確信していた。と、言うか、自身が鉄槌を下す気でいた
それは敵わなかったが、しかし、己が神に裏切られて死ぬ。さぞや惨めな気持ちだろうな、とインラ・ヴォアは満足だった
「そして竜は……、この、強き竜は……我等が狩る」
重たく呟いて旗を持ち上げる。左足を踏み出して、ずしんと地面を踏み締める
竜が身を捩った。全身から零れ落ちる熱き血が地面に落ちてじゅうじゅう音を立てる
水平に持ち上げた旗が揺らめいて光りを放った。奇跡は起こる。大地から湧き上がるように、青き燐光を纏った者達が立ち上がる
竜は翼を広げて吼えた。洞穴を風が叩くようなぼぉぉ、と言う怪音。先程まで寝そべっていたトカゲと同じ存在とはとても思えない力強き威容
ケルラインと、インラ・ヴォア。ティタン、ブリーズナン、付き従ってきた六十名弱のクラウグス戦士。そして、今紋章旗の力によって立ち上がりし無数の英霊たち
それらは竜と向かい合った。神話の如き光景だった
否
この戦いが、神話となるのか
ケルラインは号令した
「……決戦だ! 続け! 奴を倒す!!」
「クラウグスッ!」
「おぉクラウグスーッ!!」
ケルラインが飛び出す。当然、インラ・ヴォアは雷の矢を番えて狙いを定めた。ティタンがケルラインに続き黒竜の右前足に素早く踊りかかり、ブリーズナンが兵達を纏めながら包囲を形成する
黒竜が炎弾を吐き出し、ケルラインの構えるエルフの盾はそれを天へと跳ね返した。途端に雷が閃き黒竜の首に突き刺さり、巨体が激しく身を捩る
隙を突いてティタンが懐に飛び込む。鋭い呼気と共にその腹を割く。宣言どおりの戦い振りだ。それに習うように武器を構えたクラウグスの戦士達が突進し、身体ごとぶつかって行く
英霊の弓手達が崩れた監視塔の瓦礫の上に陣を敷き、寸分の狂いも無い狙撃を開始する。身を捩る黒竜の爪と尾の一撃を掻い潜り、苛烈に踊りかかるのは今亡き聖群青大樹騎士団、ケルラインの僚友だった者達だ
古の竜狩りも負けては居ない。青白き光りを放つ大盾の騎士は、何と黒竜の突進を真正面から受け止め、クラウグスの戦士達を守護した
そして矢張りケルラインは、黒竜の最も近くで斧槍と火の宝剣を振り続けた
吐き出す炎を受け止め、雄叫びと共に討ちかかる。途中黒竜の足や尾にしたたかに打ち据えられる事もあったが、旗の加護を受けたケルラインは致命傷を負わず立ち上がった
激戦と言う言葉も生温かった。傷を負った黒竜は以前タジャロで相対した時よりも遥かに獰猛、遥かに凶暴であった
しかし戦士達は耐え、凌いだ。素早く避け、機敏に攻めた
だが、均衡が崩れるのは一瞬だ
黒竜は辺り一帯を埋め尽くす程の青き爆炎を吐き散らし、包囲を引き裂く。そのブレスには屈強な戦士も英霊も抗いようがなく、旗の加護、青き光りがあれど息絶えるしかなかった
そしてインラ・ヴォアへと一直線に突進する。インラ・ヴォアは身を投げてかわすが、身を起こして走り出そうとした鼻先に黒竜の尾が叩きつけられた
インラ・ヴォアは雷の矢を番えながらじり、と後退する。直ぐに崩れた城壁に行き着き、完全に追い詰められた
「インラ・ヴォア!!」
炎をやっとの思いで跳ね返したケルラインはインラ・ヴォアの危機に全速力で走り出した。だが、この短い時の中で彼我の距離は絶望的だった
「来るがいい竜め! 我はインラ・ヴォア! 流星の如き矢!」
黒竜が首を振り回し大顎がインラ・ヴォアに迫る。インラ・ヴォアは雷の矢を放ち見事その鼻面に命中させた
俄かに怯む竜だがそれでもまだ前進する。インラ・ヴォアは剣を引き抜き、そして
大顎は彼女の身体を捉えた
「インラ・ヴォア!! おのれェッ!!」
ケルラインの悲鳴も他所にインラ・ヴォアは空中へと放り投げられた。竜の牙はインラ・ヴォアの魔獣の革鎧をいとも容易く貫通し、その時点で既に重症を与えていた
血を吐きながら空中で剣を逆手に握り締めるインラ・ヴォア。その身に再び黒竜の顎が迫り、ばくり、と彼女の下半身は飲み込まれていた
絶叫が響いた。あのインラ・ヴォアが悲鳴を上げた
牙が腹と背を破って内臓を破壊し、骨を砕いていた。インラ・ヴォアは口と鼻から血を撒き散らし凄絶に咆える
「うわぁぁ、あぁぁーッ! ……ケル……ライン!」
「直ぐに助ける! 必ず、必ず!!」
黒竜に斧槍で打ち掛かるケルラインだったが、余りに焦る故に黒竜の振り回す尾を防ぐ事が出来なかった。ケルラインは弾き飛ばされ、瓦礫の中をのたうちまわる
「ケルライン、あぁぁ!!」
インラ・ヴォアは残された力を振り絞って黒竜の鼻先に剣を突き立てた。硬い鱗を貫通し溶岩を噴き上げる黒竜
ぎしぎしと黒竜が顎の力を強める。またも絶叫するインラ・ヴォア
「……は、はぁっはっはは!! わぁぁーっはっはっは!!」
インラ・ヴォアは大声で笑った。これ以上仇敵を相手に無様な悲鳴を上げてなる物かと言う意地があった
傷も、痛みも、何だと言うのだ。如何なる苦痛も、塗炭の苦しみも
きっと無念の内に死んでいった戦友達は、もっともっと苦しかったに違いないのだ
インラ・ヴォアは心のままに生きる。そして誇り高く笑うのだ
苦痛で顔をくしゃくしゃにしながらも笑うインラ・ヴォアは、最後の言葉を兄弟に送る
「ケルライン、兄弟よ! 永劫の時の果て、我等の魂が再び巡り合いし時!」
インラ・ヴォアは胸元の主神の聖印を握り締めて雷を呼んだ。彼女の身体を這い回る雷は今までの物よりも何倍も強く輝いている
「インラ・ヴォア!」
「その時こそ、また共に戦わん! 栄光と、名誉ある死を!」
解っていた。戦っているんだ。死にもする。インラ・ヴォア自身もそう言っていた
そうさ、解っていた。彼女の勇気を讃え、目に焼き付けねば
そう思うのに、ケルラインの視界は滲む。血と汗と、そして涙で
インラ・ヴォアは最後にふ、と微笑んだ
「なんだ、泣くなよ」
曇天を引き裂かんばかりの雷が天を舐った。圧倒的な光と轟音。黒竜の悲鳴
ずしゃりとインラ・ヴォアが落ちてくる。黒焦げになった彼女の上半身
暴走した主神の雷は黒竜と共にインラ・ヴォア自身をも焼き尽くした
ティタンがケルラインの横を擦り抜けていく。ブリーズナンがケルラインの肩を叩いた
「怯むな竜狩り! アンタの女は最後の最後まで戦ったのだろうが!!」
「号令を、竜狩り騎士! 我等全員、等しく死を賜らん!!」
口の中で雷を爆発させられた黒竜は苦悶に雄叫び辺りを転げまわった。その巨体だ、瓦礫を巻き上げ、建造物を破壊し、タジャロは更に破壊されていく
ケルラインは黒焦げになったインラ・ヴォアの屍に口付けて走り出す
仰向けになって喘ぐ黒竜の巌の如き体をティタンが駆け上る。腹の上で剣を振り上げ、そのまま力任せに突き込む
黒竜は更に転げまわる。ティタンは突き刺した剣にしがみ付き、これでもかとばかりに抉りまわした
黒竜の苦悶の叫びこそ彼の歓び。その殺害こそ唯一の願いだ。その為ならば何であろうと引き換えにするだろう
「……続け! 続け! 続け!」
「騎士ケルラインに!! うぉぉ!」
黒竜がとうとうティタンを振り払い、全方位に向けて尻尾を振り回す
戦士達は旗の加護を頼みに突破を試みる。半数ほどが薙ぎ払われて叩き殺され、残った半数が漸く尾を掻い潜って竜に肉薄する
ケルラインは竜の大顎目掛けて自ら飛び込んだ。黒竜は待ち構えていたかのように顎を閉じる
身を捩るケルライン。すりぬけるように顎を避け、火の宝剣を顎下から突き込む
それは竜の骨を貫通して上顎から飛び出た。逃げようとする黒竜だったが、ケルラインは追撃の斧槍を振り被って叩き付けそれを許さない
ぐちゃぐちゃに技も何もなく戦士達がぶつかっていく。一塊の肉となって竜にぶつかり、刃を突き込む。英霊達もそれに続く
その時、竜の傷から吹き出す溶岩の血が霧状になった。ケルラインは以前それを見た事がある。それもタジャロの決戦で
爆発だ。ケルラインは盾を構えて踏ん張った
そしてその予想通り空気が爆ぜた。大爆発を起こした血の霧に多くの戦士も英霊も逃れる術なく倒される
無事だったのはケルラインの背後にいたブリーズナンと、偶々瓦礫の影に落下していたティタンぐらいの物だ。完全に防御したケルラインですら尻餅を着く
竜が体を反らし無理矢理顎を開いて吠えたてた。顎から火の宝剣が抜け落ちる。ケルラインは旗で指示し、号令した
「ユーナー!」
ケルラインの背後から青い影が飛び出す。それは軽やかに空中で火の宝剣を握り締め、着地の勢いそのままに黒竜の右後ろ足を宝剣で突き刺し、大地に縫い止めた
「ビオッ!」
突き出した斧槍を地面を叩くように振り下す。途端に上空から常軌を逸した風が吹き付け、黒竜の身体を束縛する
天空を一羽の鳥が飛んでいく。その霊体の鳥は気高く鳴いた
しかし黒竜も負けじと暴れた。出鱈目に前足を振り回し、ケルラインを薙ぎ払おうとする
瓦礫と死体が吹き飛び、土くれが視界を潰す。その最中を走り抜けるのはブリーズナンだ
彼の部下は皆死んだ。彼はただ一人になったが、それで恐れるようならばそもそもこの場には居なかった
ブリーズナンは転がるようにして黒竜の爪を避け切り、その左後ろ足に甲を直剣で貫いた。先程火の宝剣を振るったユーナーと同じだ。地面まで貫通させ、青き光りの助力によって地面に縫い止める
泣き叫び、大きく身体を逸らす黒竜。ティタンはひっそりとその背後に回っていた。瓦礫の上で鎧とマントを脱ぎ捨て、身一つになっていた
そして、跳んだ。黒竜の首に飛び付き、青白く輝く剣を突き刺した
好機だった。多くの者達が命がけで作り出した機だ
のた打ち回りながらも黒竜はケルラインを見ている。ケルラインも吸い寄せられるように見詰めあう
身体が勝手に走り出す。一歩、二歩、確実に地面を握り締めるように走る。黒竜との距離は当然のように縮まっていく
青白い光りが瞬いて、英霊たちが立ち上がる。ケルラインの背後を追う様に数え切れぬ青い影がひた走る
「竜」
無慈悲に、何の分別も無く、一切合財を焼き尽くした怨敵。クラウグスに1千年の時があったとして、癒えるかどうか不明の傷を刻んだ悪夢の如き存在
「我は竜狩り」
溶岩の主、黒き太陽。黒竜はその強烈なブレスを吐いてこなかった。インラ・ヴォアの爆発させた雷によって封じ込められたのだ
「お前を狩る」
苦し紛れの爪の攻撃でティタンが引き裂かれ、吹き飛ばされる。振り回された尾の端に中りブリーズナンも戦友達の屍の上を転がった
だが、その時にはもう、ケルラインと英霊たちは黒竜に肉薄していた
振り上げた斧槍、ドラゴンアイの紋章旗に英霊たちが吸い込まれていく
斧槍は眩い光に包まれ輝く。それはケルラインの全身に伝播し、ケルラインは猛烈な熱を感じる
死した者達の声。その鼓動
ケルラインはそれに突き動かされ、斧槍を振り下ろした
絶叫を上げているのはケルラインだった。満身の力を込めて振り下ろされた斧槍は黒竜の胸元へと深々と食い込む
ケルラインはそこから更に力を込めて、斧槍をより奥まで食い込ませた。更にはそれで飽き足らず、今度は水平方向に突き入れる
鱗を食い破り、筋肉、熱い血、硬き骨を物ともせず、斧槍は紋章旗ごと竜の身体の中へと埋まった
「うおおおおぉぉぉッ!!」
咆え声に応える様に、斧槍が震えた。蒼き光が渦を巻く
全身の傷口から青い炎を噴出させ、黒竜は首を伸ばして天を仰いだ
黒い鱗が蒼き光に焼き尽くされ、灰になって消えていく。赤き目からは濁流の如く血が噴き出し、それすらも蒼き光によって瞬く間に蒸発していく
ケルラインと黒竜は光の渦の中で矢張り見詰め合っていた。黒竜はぼぉぉと咆えた。力が失われ、生命力が漏れていた
「け、ケルライン!」
ブリーズナンが立ち上がり呼び掛けてくる。ケルラインは見遣る事すらしない。黒竜の身体が崩れていくのと同時に、ケルラインも強すぎる蒼き光に焼かれて燃えていく
「あぁ、何だこれは……!」
「ブリーズナン、陛下を頼む。クラウグスを、頼む」
「ケルライン、貴公はどうなるのだ! 一体どこへ行くのだ!!」
蒼い光の中でケルラインは微笑んだ。強い風が吹き付けると同時に英霊達の姿が浮き彫りになる
ケルラインの背後に寄り添い、或いは背を支え、或いは共に斧槍の柄を握り締めている
「ロロワナの戦士達、大樹騎士団の同胞達、物言わぬクラウグスの戦士達」
それだけでない。今までケルラインを支え、助け、ここまで到達させた者達
「ユーナー、ルーベニー、アンヴィケ」
タジャロにてケルラインを助けた戦士達
「ニコール、シャンタル、バルマンセ」
そして種族の垣根を越えて友情を示した者
「ビオ」
ケルラインは黒竜から視線を外し、天を仰ぐ
「お前も主神の御許で見守ってくれているのだろう、インラ・ヴォア」
――
蒼き光の渦が立ち上るタジャロを、クアンティンは唖然と見詰めた
あの崩れかけた要塞で怒号と炎と雷が立ち上る中、必死に魔獣の群れを近づけさせぬよう奮戦していた
それが、蒼い光が爆発したように広がると魔物達は今までの猛攻が嘘であったかのように逃げ出した。完全に怯え切り、鳴き声を上げながら敗走していった
「……これは」
クアンティンの目の前で二人の英霊が跪いた
輪郭はぼんやりとしていたが、見紛う筈も無い
アッズアと、ガモンスクだ。二柱の英霊はゆっくりと敬礼し、身を起こすと、光の粒へと変じてタジャロ要塞へと飛び去っていく
魔物達が逃げ出した戦場で同じような光景が幾つも見られた。膨大な量の光がタジャロへと飛ぶ
クアンティンは目を閉じ、歯を食い縛る
「ケルライン、そなたも行ってしまうのだな」
――
「肉体を滅ぼしただけでは不足だ」
ケルラインは静かな闘志を秘めてブリーズナンに語りかけた
「黒竜の魂は、……俺と戦友達で、ウルルスンの御許まで連れて行く」
ブリーズナンは腰が抜けたようにへたり込んだ
これ程の男が行ってしまう。誰よりも高潔で、真摯で、祖国に尽くした男が
「……ケルライン、貴公と共に戦った事を……、このブリーズナン・アリューカンの生涯の誉れとする……」
嬉しい言葉だ。ケルラインは黒竜に視線を戻した
何のことは無い。多くの者が命を捧げた
自分の番が来ただけだ。漸く自分は使命を果たせたのだろう
「さぁ、次はウルルスンの名の元、魔界の悪鬼達と一戦所望するか」
黒竜が首を下げた。肉体は既に崩れかけ、その強靭であった四肢等は最早灰と化して消え去った
ケルラインの身体も既に取り返しのつかない所まで来ていた。マントも鎧も燃え落ち、鍛え上げた肉体はぶすぶすと音を立てて崩れ去る
だが、何の恐れも無い。苦痛も
周囲には彼の戦友達が居た。自分も彼等のようになるのだと思えば、何を恐れる事も無かったのだ
「今ここに、我等の魂を、永遠とする」
クラウグス。ケルラインは最後にもう一度だけ咆えた。青白き光の粒が彼の元に集まり、その渦は爆発的に広がっていく
タジャロから立ち上るその光は、大地も天空も呑みこんだ
あぁクラウグス。我等の戦いの理由。厳しく優しく、忘れ難き故郷
蒼き光よ、魂達よ。いざゆかん、冥府の底まで
我等は竜狩り、退かぬ者
今我等の戦いは永遠の神話となった
――
ティタンは引き裂かれた筈の腹を抑えて立ち上がった。タジャロの練兵場にはブリーズナンのみがいる。膝を着き、天に向けて祈りを捧げている
ブリーズナンの前には斧槍が転がっていた。縦に割れた竜の瞳、ドラゴンアイの紋章旗が括り付けられた、ケルラインの斧槍だ
彼は、何処だ? ティタンはふらつきながらブリーズナンに近寄る
「……彼は?」
「……黒竜の魂を捕えて、ウルルスンの治める領域へと」
「……死んだのか?」
「死んでなど居ない。……彼は戦い続ける事を選んだ。彼等の魂は不滅だ」
ティタンは自らの身体を見下ろした。爪に引き裂かれた筈だったが、血は流れていない。傷痕と思しき痕跡だけがあちこちに残っている
俺は死に損なったのか。そして、この騎士も
「置いて行かれたか、アメデューに。……残念だったな、互いに」
「……私には使命がある。これから先の困難に備える事、陛下を御守する事、そして……黒竜との戦いの全てを語り継ぐ事だ」
「ご苦労な事だ」
二人の視線の先、紋章旗はただそこにある。ケルラインがこれを掲げれば眩いばかりの光を放ち、戦士達に加護と力を分け与えた
今はそれが嘘のように静かだった
――
クラウグスの問題の全てが解決した訳では無い
故郷を焼け出され難民と化した者達は、寝る場所にも食う物にも困る有様だ。いずれ彼らは止むに止まれず悪事に手を染める
焼き尽くされた国土は復興の目途すら立たない状況だ。そもそも人が死に過ぎていて、今やクラウグスの支配領域がどこからどこまでなのかすらあやふやである
外敵の脅威は未だある。未開の地に住まう蛮族達は以前にも増してクラウグスを激しく攻撃する筈だ。黒竜との戦いで沈黙を守っていた隣国もこのまま黙っているとは思えない。マヌズアルの生国だ。クラウグスに害意ありと見て間違いない
クアンティンはその双肩に重圧を感じていた。彼の愛した能力ある者達は多くが死んだ。良い者も、悪い者も沢山だ。誰もクアンティンを救ってくれない
年相応に泣き喚き、全てを投げ出してしまう事が出来たらどれ程楽だろうか。決して出来ないが、ふとそう考える事もある
だが、その度に彼等の瞳を思い出す。クアンティンの事を信じ、全身全霊を掛けて外敵に立ち向かった臣下達の曇りなき眼を
クアンティンは王城のバルコニーに立った。手には長大な斧槍を携え、それをどうにかこうにか支えながらだ
眼下には多くの兵士や、民草が集う。その視線はクアンティンと、彼の持つ斧槍、それに括り付けられた紋章旗へと注がれていた
「我等は勝利した。……多くのいと貴き犠牲の果て、あまねく敵を打倒した」
クアンティンの厳かな声が大喝の魔法によって隅々にまで行き届く。誰も声を発しない。唾を飲み込む音が響きそうなほどの静寂
「誰も彼もが死んでいった。名誉の為に、栄光の為に。……そして……そなたらの未来、クラウグスの未来の為に」
涙を堪え切れず落涙する者が居た。嗚咽を堪え、肩を震わせる者が居た
「多くは語らぬ。その術を持たぬ。だが宣言しよう。我ある限り、そなたらを惑わせはせぬ」
クアンティンは青天を見上げた。青よりも蒼き空に、日輪は輝く
闇は払われたのだ。ケルライン、何処に居ようが構わぬ。見ているが良い
クアンティンは目を閉じる
「我こそクアンティン、我こそクラウグス。我は持ち得る全てを賭してクラウグスを甦らせる。我等の戦いはまだ続く。我等には未だ多くの苦しみが待ち受けている。
しかしそれを打ち破ろう。多くの者達の究極の犠牲に、その献身に報いる為に。彼等の戦い、その魂が、無駄で無かった事の証の為に
願いではない。我はクラウグスに黄金の時代を齎す。……そうだ、クラウグスよ、永遠なれ」
群衆が王を讃える言葉で大地を揺らした。風が駆け抜け、クアンティンの頬を撫ぜ、紋章旗を揺らす
戦は終わった。そして、また新たな戦いが訪れる
長く、苦しい戦いになるだろう。クアンティンは目を見開き、凛として立った。これから訪れる暗黒の時代を戦い抜く、その覚悟を決めたのだった