黒い竜
我等は払暁の先駆け
我等は乗り越えし者
我等は雄叫び
我等は土と水
我等は巡り戻る理
我等は墓守
我等は、我等は、我等は
我等は
「竜狩り騎士! 外を! 空を!」
王直属の騎士ニコールが、天地が引っ繰り返ったかのように大騒ぎして部屋に飛び込んできたのには相応の理由があった
ケルラインが大急ぎで城壁上に駆ければ空には黒い雲が掛かっている
太陽を覆い隠す黒い翼の群れ。ぎぃぎぃと不快感を引き起こさせる、石をすり合わせる様な鳴き声が其処彼処で上がり、縦に割れた炎の如き赤い目がケルライン達を威嚇する
凄まじい数の飛竜だった。大きさはあの黒竜とは比べようもない程小さい、精々が子牛、あっても馬程度の大きさだが、その危険度は大力と残忍さでもって人々を脅かすオーガと遜色ない
火を噴き、空を飛ぶ。紛れもなく竜である
「百……二百……まだいるか」
「奴等はしきりに上空を旋回しています!」
「騎士ニコール、君は竜との戦いの経験は?」
ケルラインは歯を食いしばり、城壁の凹窓の端を握り締めながら聞いた
取る物を取る間も無く飛び出してきたケルラインと違いニコールは完全装備だ。盾を突き出し、剣を構え、ニコールは堂々と言った
「ありません!」
「だろうな」
「しかし、御指示に従います!」
城壁から要塞内部を見渡せば戦士達が皆一様に盾で以って身構えているのが解る。命令を待たず、勝手に矢を射かけよう等と言う者は一人としていない
魔法戦士シャンタルが睨みを聞かせて戦士達を抑えているのが見えた。正しい判断だ
気付けばビオが舞っていた。ビオは一声鳴くと飛竜の群れの中を我が物顔で飛び回り、適当に2、3匹風をまとった体当たりで吹き飛ばしてからケルラインの元に降りてくる
『やられたな。黒竜め、これらを従える事が出来るらしい。今は大人しいが……直ぐに黒竜と合流し、一気呵成に襲い掛かってくるぞ』
「ビオ、これを知っていたのか?」
『解っていたら教えていた。昔は、奴はこんな真似はしなかった。常に一匹で、それだけで脅威だった。確実に力を増している』
ケルラインは怒声を上げる
無駄なのは解り切っているが何もせずにはいられない
「戦闘準備! 矢ァ!」
ニコールが復唱した
「戦闘準備! 弓隊、竜を打ち落とせ!!」
命令が発せられたとき、既に準備は終わっていた。号令後即座に矢が放たれる
ビオの加護を受けたそれらは確かに飛竜の群れに打撃を与えた。放たれた矢は見た限りでは五十矢程度。たったそれだけで四頭もの飛竜を撃墜した
仮にも硬き鱗と他に類を見ない生命力を持つ竜を相手取ったにしては破格の戦果である。だが、たった四頭減った程度では、雲は晴れはしなかった
「二射! 構え……いや、よし!」
ニコールが次なる命令を発しようとした所に、ケルラインは掌を突き出した。ニコールは攻撃の号令を呑みこむ
矢による攻撃を受けた飛竜の群れは、ぎぃぎぃと不快な鳴き声のみを残してあっと言う間に飛び去っていったのだ
空の彼方へと真直ぐ、一塊になって飛んでいく。あの先に黒竜が居るのだろう
「ケルライン、より困難な戦いとなったな」
「インラ・ヴォア。……望む所だ。兵達を集めてくれ」
舌なめずりしながらインラ・ヴォアは現れた。強敵と更なる苦難を目の当たりにし、恐れよりも闘志を奮い立たせている
ケルラインはその姿を頼もしく感じた。この先待ち受ける戦いに置いて彼女の勇姿は多くの戦士達を勇気付けるだろう
あの黒い雲をしかと目にした者は、深く考えなければいけないからだ
黒竜だけでも、戦士達は全滅の覚悟をしなければならなかった。そもそも全滅し、この要塞に集う全ての者の魂を代償にしたとて、あの黒竜を討ち果たせる保障は無い。其処に来てあの竜の群れ
城壁から見える戦士達の顔は、一様に強張っている
死は恐れない。だが彼等はただ死ねば良い訳ではないのだ
勝利せねばならない。そうでなくては意味が無い
愛する者達と別れ
恐怖を飲み込み
果てしない道程を超え
今此処に集ったのは何故か
勝利する為だ。クラウグスを守り抜くために、全ての戦士達はあらゆる苦境に耐え忍び、また更なる窮地に飛び込もうとしている
ただでは死ねない
「弓手を選りすぐり、二十名程私に任せてもらう。良いな」
「何か考えがあるのだな?」
「そうだ。だが今は説明する時間が惜しい。まずは援兵の要請を」
「よし、では弓手の事はインラ・ヴォアに任せる。ビオ、俺の頼みを聞いてくれるか」
ビオは羽ばたき、再び遥か上空へと昇った。赤いが羽一枚ひらひらと舞い落ちる
「南西へ! 我が軍の拠点がある筈だ!」
『君の頼みだ。聞こうじゃないか』
ビオは赤い光の尾を引いて凄まじい速さで空を駆けていく。ビオは風を支配する。その速さは黒竜に匹敵し得るだろう
「魔物達の掃討のためにガモンスク将軍がいらっしゃる筈。……ですが間に合うでしょうか」
「……無理だろうな」
インラ・ヴォア、取り掛かろう。小さく声を発する。インラ・ヴォアはその言葉を待っていた
ケルラインが強烈な力を宿して光る金の瞳を見遣れば、彼女は勇ましく鼻を鳴らし、踵を返して城壁から下へと続く階段を降りていく
戦士達が集う要塞練兵場にて荒くれ共の尻を蹴り上げ叱咤激励したかと思うと、たちまち二十名の弓手を揃え、その他にも全ての者達が練兵場、或いは城壁の上に集まるよう手配した
ケルラインはその様子を見ながら自室へと向かう。装備を整える必要がある
背後に従うニコールは意気顕揚と言った風だった。ケルラインは一つ命令した
「ニコール、十名程連れて要塞の周囲を見て回れ」
「マヌズアルのことを懸念していらっしゃるので?」
「そうだ。ロスタルカ殿が奴を追い詰めている筈だが、油断は出来ん。異常があれば直ぐに戻れ。絶対に自分達のみで戦おうとはするな」
「御指示に」
ニコールは自身の胸に拳を打ち付けて走り出す。それを見送り、ケルラインは自室へと入って装備を整えた
祝福された斧槍。クラウグスの王に継承される炎の宝剣
古の竜狩りの鎧。エルフの勇者の盾
謎多き漆黒のマント。……そして、インラ・ヴォアの銀髪で刺繍の施されたスカーフ
最後になるだろう。思えば短くも濃密な戦いだった。酷く長い時の中、戦っているような気さえした
黒竜が現れたその瞬間から、安眠は無かった。インラ・ヴォアが導くままに駆け出し、竜狩りとしての戦いを再開した
駆けて、戦い、駆けて、戦い
戦友達の意志と遺志を束ね――
ケルラインは耳に痛い程の沈黙の中で、聖群青大樹騎士団の紋章旗を見詰める
縦に割れた瞳の紋章はぎろりとケルラインを睨みつけている。恐ろしげな竜眼こそが竜狩り騎士の旗印
「皆、もうすぐ俺も逝くぞ……。だがその前に今一度、力を貸してくれ」
ケルラインは紋章旗を斧槍に装着する。その頼り甲斐のある重厚な鉄の塊が、強く脈打ったような気がした
握り締める掌がじわりと熱くなる。何時だってそうだった
戦士達の魂は熱く燃え、勇気を与えてくれた
ケルラインは主神と英霊と竜狩りの旗に祈りを奉げ、部屋を出た
――
抑えきれない戦士達のざわめき。不安の声
たっぷり蓄えた焦げ茶色の髭と、鈍く光る大振りな両刃斧の柄、両方を扱いてドワーフの戦士は苦しい言葉を吐いた
「黒竜とは戦う心算で来たが、蜥蜴の群れとは予定外じゃ。拙い事になったわ」
レイヒノムに祈りを奉げていた戦士が立ち上がり、強張った身体を解す
「怖くなったか、ご老体」
「若造が、お前達は竜を知らんのだろう。奴等は子牛程度の大きさしかなくとも相当に手強いぞ。……それと俺はまだ60だ」
誰もが先程の光景を思い出す。小さな飛竜達が空を埋め尽くすかのように飛び回り、赤い目を向けてくるあのおぞましい瞬間を
ふん、と誰かが鼻を鳴らした。赤髪の女騎士が自慢の長剣の輝きを確かめながら獰猛に笑う
「……ここには四百の精鋭が居るわ。蜥蜴如き幾ら集まっても、打ち破るのみよ」
ドワーフの戦士は苦い表情で「敵を侮るな」と言った。誰にとも無く……周囲の者達全てに向けていった言葉だった
「…………すげぇ数だったな。出来れば戦いたくはない相手だ」
「そのように弱気でどうする。あれだけでなく、寧ろ我等は黒竜をこそ討ち果たさなければならんのだぞ」
「精神論を侮る訳じゃないが……気合だけで勝てはしない。それならばとっくの昔にケルライン・アバヌークが勝利を掴んでいる」
義勇兵として参加した名うての傭兵が難しい顔でぼそりと呟く
過剰に反応したのは若い兵士だ。故郷に宛てての羊皮紙を認めていた。自分の死後の様々な事を事細かに記していた
人間の坩堝は、結局の所恐怖に慄いていた
自分達が相手取る存在の強大さの片鱗を、先程の飛竜の群れに感じ取ったのだ。小型とはいえあれほどの数の竜を使役するなど慮外の事であった
戦う為の算段はあった。ビオの風の加護を受けた弓手達が黒竜を痛め付け、そしてビオが黒竜を大地へと引き摺り下ろす
後は一気呵成に襲い掛かる。単純な作戦だが、それしかない
そこに二百の飛竜の群れが降って沸いた。もう何がどうなるのか誰にも解りはしない
「危険な相手だ」
「援軍は?」
「王陛下はなんと」
「風精ビオの力とは、竜に及ぶ程か?」
「あの数の飛竜にどうやって立ち向かえと」
「神よ、どうかご加護を」
「一度退いて体勢を立て直すべきでは?」
「我等全てが勇者にはなれぬ」
「この弓じゃ無理だ。もっと硬くて強いのを」
「おぉ、クラウグス、祖国よ」
「勝てるのか我々は。無駄死にだけは絶対に嫌だ」
そして
その、戦士達のざわめきを、ケルラインは城壁の上で聞いていた。背後で風に揺れる青い垂れ幕には、クラウグス王家の紋章が描かれている。羊に似た姿をした聖獣レファメだ
クアンティンはケルラインの懇願を受けて王都に居るが、その代わりに王家の紋章を飾ることを命令した
王家とはクラウグスそのものである。今ケルラインはその紋章を背負って戦士達の前に立っており、そしてそれが飾られた要塞に集う戦士達もまた、クラウグスそのものであった
ケルラインは目を閉じ、長く息を吸い込んだ。風は少しだけ冷たかったが、身体の火照りは少しも収まらない
斧槍を天高く掲げた後、石突を城壁の足場に叩き付ける
ごん、と鈍い音がして光が瞬いた
「――クラァァァーウグスッ!!!!」
ケルラインは目を開き吼えた
「――クラァァァーウグゥゥースッ!!!!」
ケルラインはもう一度吼えた。戦士達が顔を上げ、青白い燐光、死せる者達の魂を身に纏わせながら、高らかに祖国の名を叫ぶケルラインを見詰める
「……く、……クラウグス」
誰かが呟く。祖国の名を
「クラァァァーウゥゥ!!! グゥゥゥースゥゥッ!!!」
ケルラインは繰り返す。より強く、より高らかに
叫びはたった一語のみであったが、万感の物が詰まっていた。この場に集う全ての者達の、戦う理由の全てがその一語の中にあった
クラウグス
故郷と、思い出と、愛する者達と
次の子ら、その次の子ら、次の時代、その次の時代
クラウグス、受け継がれてきた、それの為に
一人の騎士が剣を抜いて掲げた。腹の中に渦巻いていた怯えの事を恥じた
「クラウグス!」
ドワーフが斧を振り上げる。喜びに満ちた笑顔を浮かべている。満身に巡る勇気を証明できる喜びに
「クラウグスゥ! ハッハッハ!!」
隻眼の勇士と、胸に裂傷のある古強者
どれほど痛め付けられても、この時の為に立ち上がってきた
「クラウグスに!」
「クラァーウグスッ!!」
全ての者達は叫び始める
「クラウグス!」
「おぉ、クラウグス!」
「我が祖国!」
「名誉ある国家!」
「クラウグス万歳!」
ケルラインは更に吼えた
「クラウグスッ!! 我等が祖国! 我等が誇り! 我等が父母!」
「応!」
「兄弟よ! 同胞よ! 王の意のままに! 主神の導くままに!」
「応!」
「強敵へ挑み、死んでいく! 俺には聞える! 旗が震える! 俺より先に肉体を失った戦友達が只管に叫ぶ!」
紋章旗が風に靡く。青白い光りを撒き散らし、空すらも青く染めていく
遥か東の空が翳る。黒い雲だ。目のいい者はそれに気付く
「見ろ! 竜だ!」
「東の空を!」
ケルラインは雲に斧槍の刃を向けた。遥か彼方にまで轟け咆哮
誰も彼もが、恐れて尚も戦っている。負けられる筈が無い
「“戦え!” “戦え!” “戦え!”」
「Woo! Woo!」
「誰ぞ答えよ! 戦いの意味を!」
Woo! 若い騎士がその最も重要な武装たる盾を掲げた
――黒竜討つべし! 無辜の民草を救い、祖霊の墳墓を護る為! 奴を打ち倒し、その屍の上にクラウグスの怒りを示さん!
「そうだ! 強敵を前に恐れ戦くのはクラウグスの戦士にあらず! 奴を滅ぼし数多の無念を晴らす!」
Woo! 弓を抱きしめた少女が足を踏み鳴らした
――例え傷付き倒れようと、全ての同胞達の為に冥府の壁をも越え立ち上がらん!
「そうだ! 俺は誓う! 例え戦いの中で力尽きようと、魂は青き光へと変じ神々と共に兄弟達を助けよう!」
Woo! 白髪の戦士が剣と盾を打ち鳴らす
――クラウグスに栄光を! クアンティン陛下の御名の下、我等は一つ!
「そうだ! それこそ最大の力! 結束よ勝利となれ! 勝利よ歴史となれ! 歴史よ栄光となれ!」
無数の叫びがドラゴンアイの紋章旗の下に集まっていく。旗は呼応するように輝き、震え、熱を持つ
黒い雲は次第に輪郭をはっきりとさせる。凄まじい速度で要塞へと接近しているのだ
ケルラインは僅かな頭痛と共に果て無き天空を睥睨する視界を得た。脳裏に遥か高みから大地を見下ろす光景が過ぎったのだ
それは地平線よりも尚遠き距離を突破し、古ぼけた要塞を、そしてその城壁で斧槍を掲げ、自分を指し示す男を見た
それはケルラインだ。間違いなく、竜と視界を共有したのだ
お前が俺を求めるように、俺もお前を求めているぞ、竜よ
ケルラインは半身を引き、盾を構える
「戦闘態勢!」
「勝利を!」
「勝利を得ん!」
「クラウグスに!」
「陛下に! 同胞に!」
ケルラインの号令に、戦士達は駆け出した
城壁上で弓を構え、或いは得物を扱いて気勢を吐き、或いは盾を構えて飛竜の襲来に備える
全ての者達は恐れを飲み込み、勇気で武装した。最後の最後に頼るべきは、心の奥から湧き出る勇気、ただそれのみだ
戦う意思が、挑戦する意志だけが、人間を進ませる。圧倒的な絶望を前に希望を見出す
諦めは去れ。強敵よ来たれ。例え死すとも、前のめりだ
「竜狩りの勇者を信じる!」
「死に損なった魔法戦士団全ての命運を預ける!」
「クラウグスに栄光あれ! 王陛下万歳! 聖群青大樹騎士ケルライン万歳!」
誰かの叫びに思わずケルラインは振り返った
バルマンセが剣を突き上げ義勇兵達を鼓舞し、シャンタルが城壁上で弓を引き絞りながら天空を睨む。ニコールは武者震いしながら軍旗を掲げていた
ケルラインは真摯に祈った。力を振り絞り、命を振り絞る。己の全てを奉げる。何にか、は、この期に及んで何故かあやふやになってしまう
王か、神々か、同胞か、祖国か、故郷か
どれだろう
「おぉぉぉおおおーーッ!!!」
兎に角、吼えた
「陛下に!」
「Woo!」
「神々に!」
「Woo!」
「同胞に!」
「Woo!」
「歴史に!」
「Woo!」
「大地に!」
「Woo!」
ぞわりと背筋が震える。空の彼方にはっきりと感じる
飛竜達の中心で、燃える真紅の瞳をこちらに向ける、黒き岩の肌、溶岩の血潮の主
恐れるな
強敵よ来たれ
「クラァァウグスにィィッ!!」
天空が爆発した。そのように錯覚した
ぼおお、と言う洞穴を烈風が討つような奇怪な咆哮。竜の吼え声が天地を纏めて震わせたのだ
本来であれば怯えを呼ぶその咆哮が、勇気を奪うその咆哮が
しかし更なる闘志を湧き立たせるのだ
「勝利あれッ!!」
――
「だからレイヒノムと私は彼を選んだ」
城壁上にて弓を引き絞り、インラ・ヴォアは穏やかに笑った
背後には二十名の弓の名手が続く。同様に弓を構え、空の向うから襲い来る飛竜達を睨みつけている
「ただ雄叫びで戦士達の心を揺り動かす。気高く、真摯で、誠実で、彼の言葉には力が宿る
不思議な力だ。何故か彼を信じたくなる。彼の号令で死ぬ事を名誉だと
お前と共に戦えて光栄だ、ケルライン。お前と勝利を分かち合い、生死を分かち合おう」
インラ・ヴォアの美しい微笑みを見た者は居なかった。次の瞬間には、彼女は勇ましく眉を吊り上げて、天空に向けて怒号を放つ
竜は既に弓の射程内にまで迫っている。インラ・ヴォアの構える弓に雷光が迸る
「弓の勇者ども! 私を信じるがいい! 運命の歌が、我等を導く!」
雷の矢、レイヒノムより賜ったインラ・ヴォア最強の技
それが二十名の弓手達にも宿る。インラ・ヴォアの背に習い、インラ・ヴォアの言葉を信じた弓の勇者達
その弓に、鏃に、雷光が迸る
「王国万歳! 我等の魂は必ずやここへ還る!」
「Woo!」
二十一の雷の矢が空へと昇り黒い雲を打ち払い始める
歓声が上がる。インラ・ヴォア率いる弓手達の攻撃に戦士達は沸き立った
しかし竜は竜だ。易々押し留められる物ではない。黒い雲は雷の矢に撃たれながらも直ぐに要塞上空を埋め尽くし、戦士達に襲い掛かり始めた
多くの弓手達が応戦する。そしてそれらを護る者達の先頭にバルマンセが居た
「赤銅の牡鹿義勇軍! 兄弟を護れ! 同胞を護れ!」
バルマンセは不快な鳴き声を上げながら滑空してきた飛竜に飛び掛った。その醜悪な顔面目掛けて盾を叩きつけ、身体ごとぶつかって地面に引き摺り下ろす
盾を放り捨てて剣を両手で握り締め、頭部を正確に突き刺した。若くはあったがバルマンセもまた、熟練の戦士であった
「そら見ろ、やれるぞ! 一人が一匹切り抜いて、誰かを護って死ね!」
義勇兵達はダニカス方面の戦いで多くの犠牲を払いながらも苦境を切り抜けてきた。戦えぬ者達を護る為にだ
今更背後の同胞達の為に命を捨てる事を躊躇したりしない
義勇兵はそれぞれが捨て身になって竜に飛び掛り、或いは迎え撃つ
「脇目も振るな! 撃ち続けろ! 魔法戦士隊、凍て付く風を呼べ!」
弓手の一隊と魔法戦士団を指揮しながら魔法戦士団長“湧水”のシャンタルは周囲を見渡した
兵達は皆勇敢で、竜達を相手に微塵の恐れも見せていない
しかし状況はやや劣勢であった。矢玉で痛烈に打ち据え、近付く竜は正確に迎撃しているというのにだ
一人、また一人、竜に喉首を食い破られ、或いは空中に引き上げられ放り出され、死んでいく
戦士達は良く耐えたが即座には竜を打ち崩せず、長い長い時間を掛けて二匹程撃ち落せたかと思えば同時にこちらは三人やられている。シャンタルは気を吐いた
竜を相手に良く凌ぐ、と評価すべきか
「構え! 狙いは俺に合わせろ!」
シャンタルは城壁東に目を向ける。飛竜達の最も圧力の強い場所ではケルラインが獅子奮迅の戦い振りを見せている
右に斧槍、左に宝剣。襲い来る飛竜達を只管に受け止め、切り払い、周囲の兵達を鼓舞する
その戦いぶりとドラゴンアイの紋章旗に引き寄せられるようにして飛竜達が集まっているのだ。シャンタルは迷わず凍て付く風の纏わり付く右手をそちらへ向けた
「竜狩りの勇者を援護する!」
「こちら側は?!」
「我等は死ぬときは死ねばよい!」
「はっはっは! ご命令どおりに!」
呵呵大笑する部下に、シャンタルは胸中で詫びた。言葉にする訳にはいかなかった
「さぁビオ、風精の加護とやらを頼んだぞ」
黒い外套の戦士隊から放たれた凍て付く風は空中で一塊になり、多くの飛竜達を巻き込みながら東の空、ケルラインの居る城壁の上空を舐って消えた
その風に巻き込まれた飛竜達は動きを鈍らせ、弱弱しく鳴いたかと思うと墜落する。辛うじて生き延びた固体もすぐさま弓手達の攻撃により止めを刺された
魔法の威力はここに来て格段に向上していた。風精とやらは本物だな、と思いながらシャンタルは冷静に次の一手を模索した
ケルラインは要塞の状況を正確に把握していた。城壁上での最激戦区。最も困難な戦況の中で飛竜達を打ち倒しながら、しかしケルラインの視野は狭まる事は無かった
インラ・ヴォア達は凄まじい勢いで飛竜達をうちのめしているし、弓手達を護るバルマンセの戦士達は屈強でまだまだ粘りそうだ
シャンタルは巧みに周囲の兵達を操り、今もケルラインを支援してくれている
また一匹、竜が来る。ケルラインは飛竜が吐き出した火炎の弾丸を冷静に盾で受け止め、斧槍を振り上げた
「ユーナー!」
旗が輝き巨大な腕が伸びる。半透明の青白いそれは飛竜の細長い首をがっちりと握り締めた
ぬう、とケルラインは気合を込めて斧槍を振り下ろした。ユーナーの豪腕がそれに従い、飛竜を引き摺り下ろして城壁へと叩き付けた
其処に新手が襲い掛かってきた。顎をばくりと開いたその飛竜は真赤な舌から涎を滴らせ、ケルラインの首に喰らい付こうとする
ケルラインは身体を捻った。半身になって顎を捌き、飛竜が通り過ぎるその一瞬の間に胸部へと炎の宝剣を付き立てた
燃え滾る火炎を胸へと突き込まれた飛竜は、悶え苦しんだ後に身体の内側から焼き尽くされ灰になる。ケルラインは咆哮する
「さぁ強敵よ来たれ! 竜狩り騎士は此処に居るぞ!」
また一匹。ケルラインは炎を吐き出さんと開かれた顎に斧槍を突き込み、何もさせずに城壁の下へと蹴り落とした
更に一匹、いや二匹。左右から同時に喰らいついてくるその二匹を、右は斧槍で打ち払い、左は盾で受け止める
ケルラインの傍まで移動してきていたニコールとその部下がすぐさま援護に入りその二匹を突き殺す。硬い鱗を前に斬撃は余り効果が無い。斬るのならば、柔らかい腹を正確に狙わなければならなかった
「騎士ケルライン、お供します!」
「では威風堂々戦え!」
「Woo! 王宮騎士の誇りを示さん!」
長く、長く、戦い続けた。時を忘れるほどに
ケルラインは襲い来る雲を打ち払いながらその向こう側を睨み付けた
黒竜がいる。どのような技か、翼をぴくりとも動かさぬままに浮遊している
口から火炎の吐息を零しながら、初めて出会った時と全く変わらぬ真紅の瞳でケルラインとインラ・ヴォアを伺っている
全身に力が満ち満ちているのが良くわかった。動かずただ其処にいるだけだと言うのに目が吸い寄せられる
どうしようもない存在感と威圧感。黒竜は巨大で、強大であった
「ビオ! 何故奴は動かない!」
『良い案がある。奴に直接聞いてみるのはどうだ?』
「ビオ!」
『好都合じゃないか。奴が動かないでいる間に、この図々しい蜥蜴どもを追い払おう』
「ビオ、力を貸してくれ! 俺の声を全ての戦士達に!」
ビオは飛竜を弾き飛ばしながら天高く舞い上がり、仰々しく翼を広げた
風が渦巻き始め、高高度を飛行する飛竜達を巻き込んでいく
ケルラインはすかさず号令を掛ける。要塞中から応答の吼え声が上がる
「押せぇッ!」
『Woo!』
味方を励ますその号令に、戦士達はより発奮して竜へと挑みかかった。ドワーフが鍛造した数々の武器が閃き、雷と矢と凍て付く魔法が飛び交う
「そうだ、押せぇッ!」
『Woo!』
ケルラインに続くようにインラ・ヴォアが吠え立てる。己の血と竜の血を握り締める弓に滴らせながら、決して射撃の手を緩めない
弓手達も必死になって天を射た。無数の飛竜達は当然ながら時に護衛を突破して弓手達を襲う。既に多くの者が犠牲になっている
しかし一人とて怖気付いたりはしない。彼等はどれほど無理な攻撃命令を下されたとしても、それに従う心算で居た
『勝てるぞ人間達。竜なんかに負けてはいない』
ビオは風を操りながら縦横無尽に飛び回り、手当たり次第に飛竜を跳ね飛ばしていく
ビオはただ一体のみながら、既に無数の竜を叩き落している。ケルラインはその美しき赤い羽を見送りながら斧槍と宝剣を振り続ける
その時、黒竜が吼えた。ぼおお、と言う腹の底まで握りつぶされるような重たい咆哮だった
一瞬、ビオの操る風の加護が絶たれる。天地震わすそれがビオの力を掻き消したのだ
咆哮に応えるかのように十程の飛竜が黒竜の周囲を旋回する。他の飛竜と比べて一回りも大きい固体達で、動きも力強く、より機敏であった
もう一度黒竜が吼える。黒竜の周囲に集った十のより大きな飛竜達は、一斉にケルラインへと向けて襲い掛かった。ケルラインは今も複数の竜と相対し、対応する事が出来ない
「いけない! 狙いは貴方だ!」
ニコールが叫ぶ。彼はケルラインの背を護るため竜達が襲い来る最中に飛び出した
「ニコール! 止せ!」
「御下がりを、ケルライン!」
ニコールは掛かる一体の突撃を盾で受け止めた。そしてその威力を受け止めきれず、城壁の階段まで吹き飛ばされる
ニコール配下の騎士達はニコールに習うことを選んだ。即ち襲い来る暴虐の牙の前に身を晒したのである
一人、城壁上から叩き落されて落下し、一人、押し倒されて大きな顎で頭に喰らいつかれ、首の骨が折れるまで振り回される。助ける間は無かった
「け、ケルライン! 貴方を護る!」
「ニコール!」
ニコールは鼻血を滴らせながら立ち上がる
ケルラインにも竜は襲い掛かる。今まで相対していた三匹を漸く仕留めたケルラインは、他よりも明らかに大きな身体でもって突撃してくる竜達を冷静に捌こうと試みた
青白い光がケルラインに力を与えた。元より持つ竜狩り騎士の大力に更に加護が与えられ、ケルラインは竜二体の突撃を盾に隠れるようにして真正面から受け止め、弾き返す
もう一体竜が来る。ケルラインは大顎を開く竜の凶相に唸り声を上げながら斧槍を構えた
「(この竜、更に大きい)」
一回り大きな飛竜達の中でも更に大きい。ケルラインの身の丈を遥かに上回る大きさの竜。その鋭い牙持つ顎を斧槍の柄で食い止める。ぎぃぎぃ鳴く竜とがっぷり組み合い、そしてその隙を突かんと新たな竜が迫る
ニコールが絶叫と共に其処に飛び込んできた。左右の掌が上下逆になるようにして剣の柄を握り込み、左肘を前に突き出して突撃する。そして血を吐くような気合と共に鋭くぶつかった。紋章旗から滲み出る光がニコールの攻撃を後押しした
ニコールの一撃は竜の腹を抉っていた。そして竜の牙も、ニコールの首筋を引き裂いていた
背後で上がる血飛沫。ケルラインは眼前の竜に頭突きを叩き込み、即座に宝剣を腹に捻じ込んで無茶苦茶に掻き回す。傷口から黄金色の火炎が迸ったかと思うと、直ぐにそれが竜の全身に広がり、鱗の一欠けらまで燃やし尽くす
振り返れば臓腑を貫かれて悶え苦しむ竜の前に、ニコールが膝を着く所だった。傷だらけの装甲に包まれた手が首から溢れる血を止めようとしていたが、最早無意味な行動だった
「あ、…………ケル…………」
ニコールは振り向いてにっこり笑った
「……あぁ、光栄で……」
その目が
ケルラインの事を完全に信じきった、全く曇りの無い
恐れも後悔も無い、輝く目が
「……竜狩り騎士! まだ我等がお供する!!」
ニコール配下の若い騎士達が、指揮官を失って尚ケルラインを主軸に円陣を敷いた。ニコールが重症を負わせた竜に即座に止めを刺し、戦いを継続する
ニコールの身体は倒れ伏す。ケルラインは大きく息を吐いて天を睨んだ
振り向くことは許されない。これはケルラインだけではない、全ての者達に、死者を悼む余裕は無い
「竜め! 図体ばかりが取り得の腰抜け蜥蜴め! どうした! 勇あるならば竜狩りの旗に挑め!」
ケルラインは旗を天高く突き上げる。もう何度目になるだろうか。旗は震え、輝き、熱を放ち、要塞中へと青白い光を撒き散らして、全ての戦士達に活力を与えた
ケルラインの視線の先には黒竜が居る。燃える瞳で恋焦がれるようにケルラインを見ている
誰も彼も呼吸を荒げていた。激しい戦闘に、間断なく襲い来る竜達に息をつく間も無く
足取りは乱れ、指先は震え、ともすれば倒れこみたくなる
要塞門の直ぐ近くで矢を射る女。城壁上で盾を構え竜とぶつかるドワーフ。凶悪な顎を押さえ込み生臭い腹に剣を突き入れる壮年の騎士
余裕のある者など一人としていない
しかし光が
戦友達の魂の輝きが
戦え、戦え、と
ケルラインも息は完全に上がっていた。しかしその鋼の肉体を練り上げたこれまでの鍛錬と、強靭な精神を養ってきたこれまでの実戦が、戦いの継続を可能にしている
戦士達と合力し、竜の突撃を受け止め、斧槍で叩き潰し、宝剣で焼き切る
頭上から飛来した顎をかわし、ユーナーの豪腕で持って首を圧し折る。更に来る竜に組み付きながら身体を半回転させ、転がるようにして引き倒し、口腔へと短剣を突き込んだ
どうした、来い
ケルラインは血塗れになりながら立ち上がる
どうした、来い。こんな物ではあるまい
「俺と戦え! 黒竜よ!」
どれ程神々の加護があろうと、英霊達の後押しがあろうと
ただの人間の身で圧倒的強者である竜を相手に、こうまで言える者が他に居ようか
竜は矢張り、ぼおおと吼えた。天高らかに歓喜の吼え声を撒き散らし、己の威を示すかのごとく、天空へと熱線を吐き出す
光の帯であった。ケルラインは目を剥いた
竜の吐き出したそのブレスはケルラインを狙って居なかった。インラ・ヴォアでも、他の戦士達でも、要塞その物を狙った訳でもなかった
ただ天空を突き抜けていった。しかしその熱線の大きさと射程は筆舌に尽くし難い規模であった
まるで太陽が爆ぜたかのような、ケルラインはそんな錯覚すらした
「ぐ……う……?!」
その時、ケルラインの胸を鈍痛が襲った。息を詰まらせ、思わず膝を着く彼を護る為、周囲の騎士達が円陣を狭める
「竜狩り騎士、どうされた?!」
「鼓動が……この痛みは……」
ケルラインは胸を押さえた。痛みは胸だけでなく腹にもあった。インラ・ヴォアによって完全に消し去られた筈の、腹の破れ傷が疼く
鼓動は重く、強く、激しくなる。黒竜はジッとケルラインを見つめている
目が、合った。黒竜は身を捩る
ケルラインには解る。かの竜の魂に近付いている彼の感覚、彼のその心は、竜の欲求を正確に把握していた
「(己の内で荒れ狂う力に悶えるのか。戦いを求めてやまず、暴力を解き放ちたくて仕方が無いのか)」
恐ろしい、とケルラインは思った。決して恐れるな、怯むなと叫んできた旗手が
この竜だけは何と引き換えにしても殺さねばならぬ
ケルラインは旗を掲げた。己の内から溢れる、己も知らない何かに突き動かされるように
旗を一振り。ドラゴンアイが風圧に撓み、揺れる
叫んだ
「紋章旗よ!」
――
その声はビオの風に乗り、戦いを続ける戦士達に届いた。傷付き膝を折った者が唸り声と共に立ち上がり、血を失い倒れ伏した者が絶叫と共に立ち上がる
そして戦いに敗れた戦士達の遺骸にも異変は起こる。要塞のあちこちで瞬く青白い光が遺骸へと寄り添ったかと思うと、ぼんやりとした輪郭を持った人影が現れたのだ
「立ち上がれ! もう一度!」
ケルラインの要求は単純明快だった
立ち上がれ。立って戦え
そして戦士達の魂は忠実にその声に応えたのである
バルマンセは目を疑った。背後に立ち上がった青い人影。それはバルマンセよりもずっと大柄で、鬣とでも評すべき見事な髪を風に靡かせ、並みの膂力では振るえないだろう大斧を構えていた
ぼんやりと輪郭が透けていて顔は判別できない。だがバルマンセには解る
「……父さん」
ダニカスにて戦死した赤銅の牡鹿戦士団の長、金の鬣のロンブエルに違いなかった
そしてそれに付き従い、立ち上がる影達。今日この日、要塞で戦死した者達も含め、先日ダニカス方面にてバルマンセが看取った戦友達
「お前達……」
大柄な戦士の影、ロンブエルは、バルマンセの隣をゆったりとした歩みで通り抜け、迫り来る飛竜へと斧を向けた
『牡鹿は嘶く』
勇ましい声がバルマンセの鼓膜を震わせた。バルマンセは重く、不快な兜を脱ぎ捨てて、ロンブエル達の背を追う
「……待て! ……どうしてだ! 父さん! ずっと聞きたかった!」
吐き出したのは泣き声だった
「どうしてあの時……! 俺の事なんて知らないと言ってたじゃないか! 俺の事なんて助けないと! ずっと言ってたじゃないか! アンタに教えられた通りに今までだってやってきた! 自分の力で切り抜けられたんだ!」
バルマンセはロンブエルの死の瞬間を思い出す
厳しい、厳し過ぎる父だった。何かにつけてバルマンセを叱り、常に鍛えるよう言っていた。どんな時でも甘えを許さず、自分の事は自分で救えと何時も言っていた。バルマンセは酷く苦しい少年時代を過ごした。全てロンブエルのせいだ
なのに、最後の最後で父は
「アンタは嘘吐きだ! ……どうして俺なんて助けたんだ……!」
『……お前を見守っている』
ロンブエルの影は振り返り、ちょっとだけ笑った。ような気がした。バルマンセは言葉を詰まらせ、天を仰いだ
シャンタルの視界に突如として飛び込んできた幾つもの青い影
竜に追い詰められている自分と配下の者達を護るように戦闘を開始した青い影達。名乗られずとも、誰かは解っている
シャンタルは闇を纏った魔力の塊を飛竜に投げ付けながら、影達に悪態を吐いた
「……どうした貴様等! ウルルスンが怖くて逃げてきたのか?! それとも!」
シャンタルを襲う一体の竜。彼は長剣を引き抜いて竜の頭部にそれを叩き付けた
しかし押し留めきれず、激しく転倒する。シャンタルを庇うようにして影が割り込み、凍て付く風の魔術で以って竜を打ち倒した
「恨み言が言い足りなかったか!」
膝を折り、額を城壁の凹窓に擦り付けたような体勢のままで、怒鳴りつけるシャンタル
マヌズアルとの死闘によって散ったシャンタル配下の魔法戦士達
はっきりとした輪郭をもたない彼等の表情はとても窺い知る事が出来ない
だが彼等からはシャンタルを信じ、彼を守り抜こうとする意志が感じられた。シャンタルは目頭が熱くなり、とても堪らなかった
『全ての魔法戦士は“湧水”に従う』
汚れ仕事を何でもやってきた。無辜の民を不幸に追い込んだり、仲間の粗を探し回ったりもした
全ては王の意のままに。クラウグスの国益の為に
誰からも尊敬されないし、感謝されない仕事だ。薄汚れた鼠の仕事だ。シャンタル自身、王の影としての魔法戦士となった事を幾度と無く悔いた
その上、配下達をその鼠の仕事に駆り立てなければならなかった。止める訳には行かなかった。止められる物ならば、寧ろ端から始まってなど居ない。魔法戦士団は必要だから存在する
そして最後は無謀な攻撃命令の為に全滅した
恨まれていると、思っていた。だが違ったのだ
“湧水”のシャンタルは立ち上がる。立って戦う
彼の指揮の下、クラウグス歴戦の精鋭達と冥府より舞い戻ったクラウグスの闇を掌る戦士達が、竜の迎撃を再開する
「我等は影の影! 闇の闇! クラァァウグスッ! それある限り!!」
彼等は竜を押し返し始める。シャンタルはもう、嘆かない
インラ・ヴォアは膝を着いてそれらを見ていた。死して尚祖国や同胞に尽くそうとする戦士達が、青白い影となって蘇るのを
生者と死者が肩を並べ、強大な敵に立ち向かう。歴史書の内に収まらない戦いが此処に生まれた
伝説が生まれたのだ
インラ・ヴォアは整わない呼吸を無理に抑える。レイヒノムより与えられし力を戦士達に分け与えながら戦い続けたインラ・ヴォアの肉体は限界に達しようとしていた
だが矢張り、聞えるのだ。レイヒノムと誓約を交わし、長き眠りにつく前
多くの強大な竜、圧倒的な絶望に立ち向かう為、力を合わせた戦友達の声が
『戦え、インラ・ヴォア』
『お前の苦しみは我等の苦しみ』
『お前の敵は我等の敵』
『我等がついている。苦境にあっては、我等の声を思い出せ』
『インラ・ヴォア、我等の中で最も勇ましく、最も純粋な戦士よ』
『さぁ、戦え。ロロワナの戦士として、己が運命を生き抜け』
インラ・ヴォアは立ち上がり、不敵に笑う
「下らない。この程度の蜥蜴を相手に何を必死になる物か。我等は通常、これの五倍、六倍以上大きい竜と戦って来たではないか」
膝から力が抜けるのを必死に踏ん張って耐えた。たたらを踏むインラ・ヴォアを周囲の兵が手助けしようとする
インラ・ヴォアは強情を張ってそれを拒絶した
自分は勇者だと言う自負があった。私は肩を借りる側ではなく、貸す側なのだと
インラ・ヴォアは再び弓を引き絞る。幾ら息を吸い込んでも胸は苦しいままだったが、腹の底から力を振り絞る
青白い光がインラ・ヴォアの周囲を飛び交った。それらは弓に力を込めるインラ・ヴォアに吸い込まれていき、その身体に活力を与えた
十分の十の力を使い果たしたインラ・ヴォアの身体に新たな力が漲る。手が痺れ、視線は定まらず、足はまとも動かないのに
弓を引き絞るその力だけは、失われない
何時しか要塞に声が満ちる。雄叫びと悲鳴の中に突如として生まれ、それは段々と大きくなる
戦え、戦え、と
叫んでいる
死せる魂を束ねに束ね、ケルラインは光の渦の中に居た。己を取り巻く光に手で触れ、その暖かさを感じる
それを見た黒竜は待ち侘びたとばかりに首を振り回した。ビオの風の力を掻き乱す咆哮が再び放たれる
来る、とケルラインは思った
そしてその通り黒竜は来た。誰も彼も限界だった。黒竜の我慢も
「奴が動いたぁ! 騎士ケルラインが黒竜と戦うぞ!!」
「力を振り絞れ! 彼だけを行かせるな!」
黒竜が動いたのを見た戦士達も黙ってはいなかった。状況は極めて悪い、と評する他無かったが、彼等は戦列が崩れるのも構わずにケルラインの元へと駆け出していく
黒い雲を吹き飛ばすように黒竜は戦場へと飛び込んだ。燃える瞳はケルラインを捉えて離さず、彼が待つ要塞城壁上へと舞い降りる
口を開いた。咽の奥で太陽が燃えていた
そうだ。口の中に太陽があるのだ、とケルラインは馬鹿なことを考えた
太陽は天空に唯一つ。竜がそれを飲み干せる訳が無いのに
「俺の後ろに回れ!!」
ケルラインは叫ぶ。盾を前に突き出し、その影に隠れるように身を縮める
近くに居た数少ない生き残り達はケルラインの命令に従って彼の背後へと回った
黒竜が口から太陽を吐き出したのはその直後だ
先程のブレスとは違う、光の帯ではない、人間よりも大きな、白く燃え上がる球状の炎
飛竜達が吐き出す火炎弾など黒竜のそれと比べたら焚火を消した後の残り火のような物だ。その球状の炎は真直ぐとケルラインに向かい、彼の構えるエルフの勇者の盾に激突した
青い光が瞬いた。英霊達は確かにケルラインに力を貸し与え、また主神の加護は火炎弾の凄まじい熱を遠ざけた
しかしケルラインは無事ではなかった。盾で太陽を受け止めたと思った瞬間、ケルラインは空を飛んでいた
「う、お」
逆様になった視界の中で騎士達が絶叫している。激しい耳鳴りと共に激痛が全身を襲い、肺が引っ繰り返ったかのように呼吸を封じられる
炎弾の爆発はケルラインを空中へと叩き出したのだ。城壁上に穿たれた直径六メートルのクレーターがその威力を教えてくれる
ケルラインはもがいた。しかし翼持たぬ人の身ではどうしようもない
ビオが素早く滑空してくる。ケルラインの肩を鍵爪で掴み、地面へと導こうとした所に、一匹の飛竜が炎弾を吐き掛けた
ビオの翼に直撃し弾ける炎。ビオは甲高く鳴く
「ビ、オ!」
激しい耳鳴り、狂った三半規管。失神しそうな状態でケルラインは叫ぶ
ビオは苦しげに鳴いて、それでも何とかケルラインを地面へと降ろす。戦闘を続けていた戦士達がすぐさま周囲を囲み、飛竜達からケルライン達を護った
「ビ……オぉ、……ぶ、無事か?」
『僕に構うな……早く立つんだ。奴が……』
黒竜は吼える。もう一度、己の力を誇示するように天空を光の帯にて焼き焦がし、城壁を越えて悠々と飛行した
要塞各所で戦う戦士達を、まるで下らぬ物とでも言いたげに睥睨し、ゆったり飛んだかと思うとケルラインの眼前へと降り立つ
そして首を振り上げる。恐ろしき顎からは、光が幾筋にも分かれ、洩れ出ている
「逃げろお前達!!」
要塞門の直上部からインラ・ヴォアが顔を出した。雷光の迸る弓を引き絞り、彼女は黒竜へと怒声を叩き付ける
「この雷の痛みを思い出せ! 散々にお前の腹を破ったレイヒノムの絶技だ!」
雷が空気を引き裂く轟音。果たしてその光の矢は黒竜の首を痛烈に打ち据える
黒竜は僅かによろめく。しかし少しも応えた様子は無く、口に秘めた熱線をインラ・ヴォア目掛けて吐き出した。インラ・ヴォアは即座に身を翻す
それは城壁を舐った。舐り、溶かした。岩をも溶かす脅威のブレスは健在どころか更に威力を増している。要塞門上部にあった矢除けの屋根など、消し炭すら残っていない
黒竜は飛竜達が己のブレスに巻き込まれる事など、少しも気にしていなかった。その瞳の中には敵のみが映る
「ビオ、飛べるか」
漸く立ち上がったケルラインはビオに呼び掛ける
ビオは身を震わせた後に翼を広げた。しかし一向に飛び立とうとしない
ケルラインは腰を落として盾を構える。ビオを最後まで守り抜く心算だ
『止せ、奴のブレスを受けようなんて思うな』
「黙れ! 早く空へと逃れろ!」
ケルラインは斧槍を掲げた。ドラゴンアイの紋章旗が脈打つ
どうすれば良いかは解っていた。ケルラインは祝福された斧槍を振りぬいた
「レイヒノムよ!」
青い光を纏った斧槍は不思議な風を巻き起こした。風、と呼ぶのが正しいのかは解らなかったが、目に見えぬ衝撃が駆け抜ける
砂埃どころか小石や瓦礫すらもが巻き上げられ、その凄まじさを伝えてくれる。余波だけで周囲の戦士達が転げ回る程の物だ
その時黒竜も首を振り下ろす所だった。口の中で煌々と燃え盛る炎弾。それが今再び解き放たれる
衝撃は炎弾を正面から受け止めた。目も開けていられない程の烈風の中で、ケルラインは吼える
竜も吼えていた。猛々しく首を撓らせ、振り上げ、またその大口の中に太陽を生み出す
『駄目だ! 奴は強い!』
「うおぉ!」
押し留められた一発目の炎弾を飲み込むように、巨大な二発目の炎弾が斧槍によって引き起こされた衝撃と風を貫いた
咄嗟に盾を突き出す。またもやケルラインは猛烈な爆発に全身の感覚を失い吹き飛ばされた
激しい耳鳴り。城壁に叩きつけられ落下するが痛みは無く、鼻の奥に違和感がある。一泊遅れて多大な量の鼻出血が始まる
そして一切の音は消え去る。平衡感覚が狂い立ち上がれず、自分を護ろうと黒竜の前に飛び出す戦士達を見送る事しか出来ない
「旗手を護れ! お前達、ここで死ね!!」
「クラウグスッ!」
「クラァーウグスゥー!!」
戦士達の雄叫びが酷く遠くに聞える。祖国の名を叫んで黒竜に立ち向かい、掛かる端から爪で引き裂かれ、尾で打ち据えられていく
「ケルライン! 立つのだ! ビオは既に逃れた!」
ビオがやっと空へと舞い上がり、入れ替わるようにインラ・ヴォアが飛び降りてくる。ケルラインが取り落とした盾を拾い上げ、両手で構えた
黒竜は嬉しそうに笑っているようにケルラインには見えた。僅かに開いた口の中に青い炎が揺れていた
黒竜は岩の如き足で地面を握り締めたかと思うと、青い炎を吐き出し、激しく尾を撓らせながら一回転した。タジャロ要塞は青い炎の海に飲み込まれる
生者、死者の区別無くそれは全てを焼き尽くした。戦士達の悲鳴がケルラインの耳を打つ
「うぅぅ……! 地獄の、最も深き谷の、青き炎……!!」
インラ・ヴォアはエルフの勇者の盾にしがみ付きながらケルラインを護った。必死だった
城壁の上でその光景を目の当たりにしたシャンタルは覚悟した
何の覚悟か、最早言うまでもない
シャンタルはフードと口元を隠したスカーフを取り払い、剣を逆手に持ち替えた
彼の指揮下の全ての戦士と英霊達はそれに習う。城壁の端に足を掛け、呼吸を整えて眼下の黒竜を睨みつける
「勇者を護って死ぬのか」
シャンタルは勇ましく笑った。クラウグスの影の影、闇の闇には到底似つかわしくない笑顔だった
「これほどよき死を迎えられるとは。生きていてよかったな」
シャンタルは雄叫びと共に先陣を切った。全ての戦士達は祖国の名を叫び、逆手に持った剣を振り上げて、城壁から飛び降りていく
「クラウグス!!」
「クラウグス、万歳!!」
「クラウゥゥグスッ!!」
「そうとも、クラウグス!!」
彼等は青き光に包まれながら、黒竜の首や、背にぶつかって行く。彼等の持つ長剣はその鱗を突破し、深々と突き刺さった
シャンタルは首と背の境目へとぶつかった。唸り声と共に剣を埋め込み、溶岩のように熱き血を浴びた。青き光がその血を弾き返すのを、シャンタルは見ていた
そして黒竜は叫び、身体を振り回す。跳ね飛ばされる戦士達。黒竜の口の中では再び青き炎が揺れていた
戦士達は立ち上がり、しかし黒竜の炎から逃れようとは考えなかった。ケルラインが立ち上がる僅かな時を稼ぐ為に、絶叫と共に駆け出す
「見事だシャンタル、そしてその配下達」
渾身の力でケルラインの肩を担いだインラ・ヴォアは、シャンタルと兵達を賞賛しながら城壁の影へと隠れた
大地と、そこを駆ける戦士達、寝そべる骸、それらを舐め取るように青い炎は這った。戦士達は苦痛から聞くに堪えない絶叫を上げながらも、地獄の炎の中を突き進んでいく
神々と英霊達の加護を頼みに、確実な死に向かって突き進んでいく。如何な加護を得ようとも黒竜の炎は防ぎきれないのに
シャンタル達の鎧と肉体は燃え付き、骨すら残らなかった。剣を構え突撃し、そして全て死んだ。青き光と化し、ドラゴンアイの紋章旗へと吸い込まれていく
「英霊……、達の……、加護ぞ、ある」
ケルラインは歯を食いしばって立ち上がった。未だに視界は揺れていたが、立たぬ訳には行かなかった
「いけるな、ケルライン」
「盾を」
「お前しかいない。お前が希望なのだ。やるのだ、お前と、私で」
インラ・ヴォアから盾を受け取り、ケルラインはふらつきながら駆け出した。タジャロ要塞の広場は炎と死で埋め尽くされている
数多の戦士達、英霊達が呼吸を揃えて黒竜に挑みかかるも、一太刀入れることすら出来ずに食い千切られ、踏み潰されていく。英霊達もこの世の物ではない青き炎には抗し切れず、少しずつ数を減らしていく
上空ではビオが必死に風を操っていた。傷を負いながらも無数の飛竜達相手に一歩も引かない
ケルラインは猛烈に発汗していた。なのに、背筋は冷たい
「ケルラインとインラ・ヴォアを護れ! 彼等と共に打ち掛かれ!」
「竜狩りの勇者達に続け! 行け! 行け! 行け!」
一匹の飛竜がケルライン向けて滑空してきた。壮年の騎士がそれに飛び掛り、刃毀れして使い物にならなくなった剣を叩きつける。最早刃物ではなく、鈍器だ
「行けぇ!」
ケルラインはその横を走り抜ける。漸く足取りが確りとし始めた
新たに飛び掛る飛竜。一人のドワーフが手斧を投擲する。熟練の技が伺える投げ斧は、正確に飛竜の頭を割った
「さぁ行けぃ!」
誰もが鍛え上げた技で、肉体で、ケルラインとインラ・ヴォアを護ろうとしていた。竜狩りの旗は既に伝説なのだ。死して尚戦う戦士達の象徴であり、それを掲げる旗手と神の雷を与えられし弓手こそ、彼等の希望なのだ
黒竜が首をそらした。縦に割れた瞳がケルラインを射抜く。ケルラインはもう何度目になるか解らない雄叫びを上げた
火炎弾。ケルラインは盾を前に突き出す。より強き加護を願った。竜の炎を防ぐのに、これ以外の術を知らなかった
『斜めに構えろ! 敵の勢いを逸らせ!』
どこか懐かしい声がした。気付けば隣を青き人影が併走していた
ケルラインはそれに従った。滑り転がるように腰を落とし、エルフの勇者の盾を腕のみでなく肩でも支え、表面を上空へ向けるようにして斜めに構える
両脇を固めるように英霊が盾を構えた。左隣の英霊が言った
『ケルライン、貴方を護る』
ニコール。ケルラインはそれに視線を振ることすらしない
振り返ることは許されない。そのような余裕は誰にも無い
炎弾が飛ぶ。ケルラインは大きく息を吸い込んで全身に力を込めた。旗は輝く。青く青く輝く
ケルラインと両隣の英霊。三人がかりで炎弾と相対した。斜めに構えた盾の表面を滑り、その弾丸は五匹の飛竜を巻き込んで空へと消える
ケルラインは即座に立ち上がり走る。竜に肉薄するために。黒竜は大地を踏み締めた。燃える瞳を更に見開き、鋭い牙を噛み合わせる
その隙間から幾筋もの光が洩れている。熱線が来ると予想された。ケルラインは立ち止まり旗を掲げる
『お前の息に大盾を。それを潜り抜ける事こそ聖群青大樹騎士の誉れであり、竜狩りの醍醐味だ』
インラ・ヴォアがケルラインの背後に寄り添った。その大きな背に手を沿え、肩を当てる
青き燐光が人型を取り、インラ・ヴォアと同じようにケルラインの背に集う
新旧の竜狩り騎士達。彼等の言葉はどこか嬉しげで、どこか重々しい
そして光線がケルラインの視界を覆った。猛烈な熱に足元の石が溶け出す
しかし前進を続ける。少しずつ、少しずつ光の中を進み続ける。光線を掻き分けて行く
ケルラインの背に集う英霊達がその為の力をくれた。インラ・ヴォアと竜狩り騎士達が背を押してくれていた
「見ろ! 如何に強き竜であろうと、竜狩り騎士団は滅ぼせぬ!」
赤髪の女騎士がマントを翻して走っていた。額から血を流し、右目は抉られ、左手は折れていた。それでも走っていた
「我等が死んでも、彼等が居る! 我等が死んでも、竜眼の紋章旗は死なぬ!」
「行くぞ、クラウグスは死なぬ! 竜などには負けぬ!」
「行け! 行け! 行け! 行け!」
「そうだ、行け!」
傷付いた戦士達が続いた。無傷の者など一人としていない
ケルラインに熱線を吐き掛ける黒竜の腹に、手足に、剣を突き立てる為に走る
邪魔しようとする飛竜達を雄叫びと共に打ち破り、そして黒竜に肉薄した
黒竜は熱線を止めた。ぼおぉ、と吼え、威嚇するように岩の尾で地面を打ち据える
ぐぐ、と満ち満ちた力を解き放つため首を曲げた。青き炎が噴出し、粉雪のように散り始める
熱線から開放されたケルラインは走りながら紋章旗を掲げる。その右手に、誰かの手が添えられた
『ケルライン様、貴方のお傍に』
優しい声だった。表情は解らないが、その英霊はたおやかに微笑んでいた
ルーベニー。ケルラインは斧槍を振り下ろす
猛烈な衝撃が駆け抜けていく
黒竜が正にその時吐き出した地獄の炎を、その衝撃は打ち据えた。祝福された斧槍、ルーベニーの加護の力は、魂まで焼き尽くすおぞましい炎と熾烈に鬩ぎ合い、とうとう打ち払った
迫る無数の刃に黒竜は堪らず逃げ出そうとした。空を飛ぼうとするその巨体を、天空から吹く風が押えつける。ビオの風だ
『逃がすか。お前は無敵ではない。お前は空に相応しくない』
戦士達は黒竜に踊りかかる。剣を、槍を腰だめに構え、刃と同化し、命を捨ててぶつかって行く
鱗を貫き、その中の肉を引き裂き、熱血を噴出させる。怒号が満ち、黒竜は悲鳴を上げた
悲鳴を上げた。啼いたのだ。散々に人や家畜、山々、家屋、墳墓を薙ぎ払い、焼き払い
クラウグスのどれ程偉大な戦士であろうと一方的に、圧倒的に勝利し、傷を負わず、当然苦悶の呻き一つ漏らす事の無かった黒竜が
ケルラインはビオの風の力を借りて跳躍した。己の身長よりも高く跳び上がり、その勢いのままに斧槍を振り抜く
黒竜は尾を振り回そうと身体を捻っていたが、その鼻面に雷が炸裂した。不敵に笑うインラ・ヴォア
今までに無い程深く、斧槍の刃が黒竜の首に減り込む。黒竜は四肢を泳がせ転倒した
そこにケルラインの背を押していた竜狩りの英霊達が飛び掛る。彼等は正確且つ強烈な一撃で竜の腹を抉りぬく
止めを、とケルラインは走った。そして、空気が爆発した
――
「ガモンスク将軍! 早く!」
「有り得ん事だ! このガモンスクが部下と義勇兵を置き去りに逃げると?! 末代までの恥だぞ!」
「さっさと行け頑固爺!!」
バルマンセがガモンスクと怒鳴りあうのを、どこか遠くの出来事であるかのように見ていた
視界がぼやけていてケルラインには何が何だか解らない。自分が両脇を抱えられ、地面を引きずられているのは何と無く解る
馬に乗せられた。手綱を握るのはインラ・ヴォアだ
「バルマンセ! お前は?!」
「……牡鹿は嘶く!」
「感謝する! お前達の魂に名誉と栄光あれ!」
竜は? ケルラインはゆっくり頭を動かす。唐突に胸から何か競りあがってきて、ケルラインはえずいた
下品な音を立てて血の塊が落ちた。馬の足を汚したそれは、黒く濁っている
「インラ・ヴォア、この血はなんだ!」
「地獄の業火を浴びた、早く神官に処置させねば拙い! ……良いから早くされよガモンスク将軍! バルマンセ達の献身を無駄にするのか!」
「おのれ、おのれ竜め! ……貴様達、仇は必ず取る! 許せ!」
どうやらケルラインはタジャロ要塞の外に居るらしかった。遠くまで広がる草原のそこかしこに炎が立ち上り、巨大な穴が開いていた
天空をビオが舞っている。ビオは機敏に飛び回り、タジャロ要塞から吹き上がる熱線を回避している
熱線。そうだ
竜は
「竜は」
「駄目だ、あぁ、ケルライン、今は喋るな。動いては駄目だ。マントの魔力がお前を救ったが、それでも邪気を完全に防ぎきれる物ではない」
今までに見た事がない程インラ・ヴォアは取り乱している。ケルラインはそれを一瞥すると、忠告を無視して首を持ち上げる
「バル……マンセ……」
血を浴びたその後姿。バルマンセは振り返らない
タジャロ要塞が爆発して、炎に包まれた何かが飛び立つ
黒竜だった。全身から炎を撒き散らし、周囲の空気を歪ませていた
「(駄目だったのか?)」
黒竜は目に見えて重症を負っていた。ケルラインの与えた首の傷からは今も断続的に血が噴出しているし、数多の戦士達が命と引き換えに刻んだ無数の傷もそうだ
だが未だ生きている。翼を少しも動かさず空を飛び、今はビオを追い回している
「(神々の加護と、英霊達の助力を受けて)」
ケルラインの視界の中で、バルマンセは剣の腹を額に当て、祈りを奉げる
「振り返るなよ」
そしてそれだけ言うと駆け出した。バルマンセの背を追って義勇兵とガモンスクの配下達が走り出す
タジャロ要塞にはまだ少し生き残りが居て、それが黒竜に矢を射掛けているようだった。しかしそれを目障りに思った黒竜は、ビオを追い掛けるのを暫しの間止め、要塞に向けて炎を吐き掛ける
それだけで、射撃は止まった。死んだのだろう
「(多くの戦士達が魂を奉げ)」
視界が動き出す。馬が駆け出したのだ
インラ・ヴォアが哀願するような声音でケルラインを励ます
「駄目だ、死ぬなケルライン。意識を保て。私の声が聞えているな?」
「騎士ケルライン! 多くの戦士達が命がけでお前を護ったのだ! お前は彼等に報いなければならん!」
そういうガモンスクは泣き出しそうだった。義勇兵と己の部下を置き去りに、自分は逃げているのだ。断腸の思いだろう
「(それでも、勝てないのか)」
ケルラインは怒った。自分は誓った筈だ
「戻れ……。決めた筈だ、あそこで死ぬと……」
「無駄死には許さん。勝利と引き換えならば喜んで死のう。だが、そうでないなら駄目だ」
「戻れ……! インラ……ヴォア……!!」
ケルラインは身を捩った。落馬は覚悟の上だ
インラ・ヴォアはケルラインを殴った。顎先を正確に打ちぬかれたケルラインは失神した
――