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聖女ルーベニー



 「ケルライン、貴様は言われねば解らんようだから言ってやるが、盾の扱いこそ重要なのだぞ」


 ケルラインは瞼を思い切り腫れ上がらせて仰向けに倒れていた。指導者である騎士に重りのついた訓練用の盾で思い切り殴られたのだ

 訓練場に生えた野花が朝露に輝いている。もうずっと昔、十五年以上前の思い出だった。ケルラインがまだ少年の頃の


 「返事は!」

 「サー!」


 息は完全に上がっていたが騎士は容赦しない。厳しく、恐ろしく、強い。手加減の無い人物だ


 「貴様の盾は貴様の身を守る物ではない。貴様の隣で戦列を成す仲間を守る物だ。我々の戦いは元々が守り。信仰と正義、国土と臣民、そしてハルカンドラ王を御守する為に戦う」

 「サー!」

 「つまり真の騎士は攻めより守りに優れている物だ。よいか、剣より盾だ。勘違いするなよ、俺は心構えを説いている」

 「サー!」


 ケルラインは胸倉を掴まれ、無理矢理引き起こされる。頭は痛打から立ち直っておらず視界は揺れていたが、ケルラインは既に闘志を取り戻していた

 騎士はより指導する意欲を持ったようだった。この時騎士は嬉しそうだった


 「盾が下手な者は叙任など受けられん。ケルライン、貴様はゴブリン二匹と出くわせば直ぐに死ぬだろう。一匹が正面からお前の剣を抑える内に、もう一匹が背後からお前の首を食い千切る。ならばどうする?」

 「は……、即座に一匹を斬ります!」

 「その考えは盾の使えん奴がするのだ! 一人で戦うな、仲間がお前を護る。お前の背後を取ろうとするゴブリンを誰かが抑える」


 ケルラインは騎士に打ち掛かった。木剣は盾に弾き返されるが、ケルラインも即座に盾を突き出して体当たりに切り替える


 騎士はそれすら容易く押し返す。ケルラインは必死だった。盾を引き寄せて露出する体面積を減らし、顎を引き目は注意深く上目使い、呼吸を極限まで抑えて体を動かす瞬間を悟られないようにする


 騎士は平然としている。ケルラインが打ち掛かってくるのを待っているのだ。二人は睨み合う


 「一人では到底戦えんのだ。だが二人居れば背後を護れる。三人いれば脇を護れるし、四人いれば陣が組めよう。そして護りには盾が必要だ」


 ケルラインがジリジリと距離を詰める。今度は木剣を頼みにするのではなく、盾でもって慎重に身を護る


 「それは盾を使っているとは言わん! へっぴり腰め!」


 騎士は軽やかに蹴りを放った。全身を硬直させて盾を構えていたケルラインは容易く尻餅をついてしまう


 「盾に隠れているだけだ! 敵の攻撃の力を受け流すか、勢いが乗り切る前に弾き返せ!」


 ケルラインは跳ね起きた。騎士が大股で近寄り木剣を振りかぶっている

 即座に盾を頭上に掲げて体当たりした。体格差を考えて騎士の肘を打つのに丁度よい高さであった。ケルラインは振り下ろされる前に木剣を弾き返す


 騎士はその動きに喜びを露わにする


 「そうだ! そうだ良いぞ!」


 褒め言葉と同時に騎士は木剣と訓練用の盾を下していた。ケルラインもそれに習い、荒い呼吸を落ち着かせようと必死になる


 「貴様一人の力など知れた物だ。注意深く、謙虚になれ。貴様が仲間を助ける心を持っていれば仲間は当然貴様を助けるだろう。貴様は戦いに関して優れた才能を持っている訳では無いが、強い意志を備えている」


 ケルラインは何と言ったらいいか解らなかった。人を褒めると言う事を余りしない騎士だったから、突然こんな事を言われて困惑した

 ケルラインを鍛えた騎士達は皆優れており、高潔だった。彼等に認められるのはケルラインのみならず、少年たちの喜びだった


 「その力強さを失わぬまま……立派に育ったな、ケルライン」


 ケルラインは自分の体に起こった変調に気付く

 背は伸び、細かった手足は太く柔軟に、子供らしい瑞々しさのあった肌には傷が刻まれ、それは正に慣れ親しんだ自分の体だった。戦歴を積んだ“今の”ケルラインの体だ


 無性に切なくなった。ケルラインを含め多くの見習いを育て上げた指導員達は、今は殆どが英霊の座に上っている

 それを思い出した


 「さぁ来たぞ。だが安心しろ。貴様がクラウグスを護るように、俺も貴様を護ろう」


 気付けば騎士は左隣で盾を構えている。目の前には毎夜夢に現れケルラインを苦しめる四肢をもった闇が居た

 ケルラインは己が鋼鉄の剣とカイトシールドを持っている事に気付いた。ケルラインは慌ててカイトシールドを左隣に居る騎士と分け合うように構え、その頭部分に剣の腹を載せる


 心を細く。注意深く。武装は出来うる限り体に引き寄せ、敵を見よ


 「おうケルライン。矢張り俺の予想通りだな」


 右を見れば何時の間にかユーナーが居た。太い顎を突き出して、ケルライン同様にカイトシールドで持ってケルラインを護り、剣の切先を闇に向けている


 何時の間にか戦列が伸びていく。巨大な闇を前にして、青い燐光の軌跡を描きながら幾人もの騎士達が剣と盾を持って現れ、戦友を護ろうとする

 異形の敵を前に一片の恐れなく、敢然と立ち向かうその姿


 誰も彼も見覚えがあった。多くの者がその背を追い、その行いを手本とした高潔な騎士達であった


 「盾ぇぇぇぇーー!!」


 隣の騎士が咆える。触発されたように闇が身を沈ませ、こちらに飛び掛かる構えを見せた


 闇は我慢などしなかった。即座に力を解き放ち、ケルライン達の戦列に飛び込んでくる


 「押せぇぇぇ!!」


 ケルラインは盾を突き出して全力で押した。隣でユーナーが咆えている。酷く心強かった

 戦列は真正面から闇とぶつかり合った。一人では成す術なく一蹴されていただろう。しかし鍛え込まれた騎士達が力を結集すれば互角の戦いが可能になる。

 そうだ。一人では戦えないのだ。ケルラインは呟く。戦列の何処かで誰かが祈りの言葉を怒鳴りあげている


 闇は唸り声を上げて身を捩る。隣の騎士が再び叫ぶ


 「押せぇぇぇい!!」


 更にケルラインは盾で押した。身体は激しく揺れたが、それでも剣の切先は揺らさなかった

 次の号令は直ぐだった


 「突けぇぇい!!」


 戦列を成していた騎士達が踏込を揃え、闇の両前脚に剣を突き立てる

 ユーナーがどうだと言わんばかりに咆哮を上げた。闇の悲鳴よりも大きな咆哮


 それを聞きながらケルラインは左を見る。騎士は満足気な笑みを浮かべていた



 そこで、目覚めた



――



 クラウグス王城は浮足立っているようにケルラインには思えた

 王城に詰める者はどのような役職の者であろうと選び抜かれた一握りの精鋭達だ。騎士も兵士も、下男下女だろうがコックだろうが馬番だろうが同じだ。高い意識を持って日頃から職務に取り組んでいる


 そのいつもの謹厳さが失われていた。其処彼処で足を止め、眉根を寄せて話し合っている者達の姿が目立った



 理由は直ぐに知れた。王に拝謁を求めたがクアンティンは現れず、重心であるアッズアが鳶色の目をぐるぐると動かしながら言ったのである


 「陛下は御自らドワーフの山脈へと向かわれた。彼等とは長く冷え切った関係であったため、素早く対黒竜の戦いへと参加させるためには積極的な交渉が必要だと判断なさったのだ」


 ケルラインは思わず天を仰いだ。つまりクアンティン王陛下がカルシャの軍勢の脅威に晒されていると言う事だ

 そしてあの視界の主であった黒竜も


 「カルシャの軍勢がクアンティン陛下に迫っています。黒竜も」


 ケルラインの言葉にアッズアが度肝を抜かれるのは仕方のない事だった

 彼は常ではありえない程に取り見出しケルラインに詰め寄った。今あの極めて聡明な少年王を失えばクラウグスは瓦解すると認識していた


 「真か」

 「陛下は兵を如何程?」

 「……五百名だ。選りすぐりの精鋭だと聞いている」

 「親衛隊長ロスタルカは忠実で最後まで決して諦めない女傑です。きっと時を稼いでくれましょう。すぐさま救援の兵を」


 ケルラインはロスタルカの冷たい瞳を思い出す。聞けば十二歳の頃に見習いとして王宮に入り、以後二十年以上王家に忠実であり続ける女だ

 その職務に対する姿勢はケルラインもよく知っている。ケルライン自身は、ロスタルカには疑われているようであったが


 「すぐさま編成させよう。騎士ケルラインは?」

 「インラ・ヴォアと共に今から山脈へ向かいます」


 アンヴィケがケルラインの肘を引っ張った。強行軍で疲れ果てた顔をしている癖に、自分を置いていくなんて許さないと目が言っていた


 「アンヴィケ殿、騎士ケルラインと共に向かわれると?」

 「ケルライン様を御手伝いします。そしてそれが陛下をお助けする事になると思います」


 成程、とアッズアは頷いた。彼はアンヴィケがどのような存在なのかは知っていたが、その超常の能力を仔細漏らさず知っている訳では無い

 だからアンヴィケがそういうならそういう物なのだろうと納得するしかなかった


 むぅ、と唸って黙考する。懸念はまだあった


 「……騎士ケルライン、疑う訳では無いが余りに多勢に無勢ではないか」


 王宮に兵は少ない。正確には防衛なら問題なくとも、遠征となると即座に動ける兵が少ない。アッズアにはケルラインが今すぐにでも飛び出していきそうに見え、実際ケルラインもその心算であった。兵の編成など待たないだろう

 インラ・ヴォアはそっぽを向いている。少しの休息も取らず戦いに赴く事が当然とでも言う様な顔をしている


 ケルラインは敢えて威勢の良い事を言った。自分でも毛ほども信じていないような大言壮語だった


 「カルシャ如き邪霊の尖兵、どれ程居ようと打ち払い陛下を御助けします」

 「案ずることは無い。たったの三名だけで戦おうと言うのではない。親征の軍ともなれば死力を尽くして踏み止まるであろうし、我等には英霊達がついている。無謀な戦いなどでは決してない」

 「其処に援軍が得られればその場でカルシャの息の根を止める事も叶いましょう」


 ケルラインとインラ・ヴォアの力強い言葉にアッズアは漸く安心したようだった。彼は無駄な人死には当然好きではなかったのだ



 ケルライン達はすぐさま出発した。僅かな休息も取らないでクアンティン救援の為に馬を駆った


 険しい道だった。寒き野末の向こうには雄大な山脈が聳え立ち、そしてそこにはこの世の物ではない邪悪な気配が狼煙のように立ち上って見えていた



――



 ドワーフ山脈は緑の無い山々だ。クラウグス王都方面の山は緑が溢れているが、ある程度南東の方へ向かうと急に植物の類が少なくなる


 大地の中の鉱物が原因でそうなっているらしいが、ケルラインはそこまで詳しくない。兎にも角にもケルライン達は禿山を進んだ。馬は山岳の民から買い上げた特別な山岳騎馬だった



 二日道程を急げばクアンティン王の軍勢の痕跡は容易く発見できた。折れた王国旗に燃やされた輜重、そして数百の遺体

 遺体は大半が市井の民の衣服を着ていて、その中にぽつぽつと鎧を着た者が混ざっている。共通点として頭部が激しく損傷している


 熾烈な戦闘があったのは間違いない。インラ・ヴォアがケルラインに顔を寄せてくる


 「……痛みも恐れも感じない死者の群れがどれ程手強いか私も知っている。……クラウグスの戦士達の被害が、この程度とは思えない」


 忘れようもない事だ。カルシャの操る死者の軍団は頭部を破壊しない限り決して止まらない

 如何に王を守る精鋭達と言えども限度はある。倒れている戦士の数は少なすぎるのだ。そしてカルシャが遺体をどう扱うかもケルラインは知っている


 また尊厳を冒された同胞が増えた。ケルラインは吐き捨てた


 「カルシャ許すまじ。奴は戦いで我等の同胞達を殺せばそれが戦力の強化になるのだ。さぞや得意満面だろう」


 絶対に許さぬ。絶対にだ。この酷い悔しさと歯痒さは言葉には表せぬ。ケルラインの胸の奥底を焼くのは怒りと焦燥の炎だ


 「アンヴィケ、彼等は」

 「インラ・ヴォア……。はい、大丈夫。解ります。……直ぐ近くです、北……だと」

 「北?」

 「この周辺の山道は険しく、荷駄を守れない。遠回りだがより戦い易い場所へと移動したのだろう」


 アンヴィケはこの時点で既に馬の背にしがみ付く様にして無様な行軍をしていた。矢張り彼の幼い肉体には無理な強行軍であり、しかしそれをして且つ彼に頼らざるを得ないケルラインは歯噛みする


 「アンヴィケ、済まない。……だが今暫く力を貸してくれ」


 アンヴィケは無理矢理微笑んで見せる事でケルラインに応えた。ケルラインが行くのなら、ケルラインがやるのなら、自分も、自分こそ。そう言った強固な意志があった



 アンヴィケを先頭に三人は進んだ。アンヴィケは全く初見の地に置いて、山に住まう狩人のように抜け道や水場を見つけて見せた

 カルシャを憎むのは自分達だけではないとケルラインは感じる。自分だって、例え死した後でもカルシャを滅ぼす為ならばどんな事でもしただろう。闇の底から這い上がり、アンヴィケに知る事を何だって話すに違いない


 心強い助けであった。彼等の仇を取らねばならぬとケルラインは改めて感じた



 禿山を進む内にインラ・ヴォアはしきりに周囲を伺うようになっていた。カルシャの軍勢や山野の魔物を警戒しているのとは違うようだった


 どうした、と問う前にインラ・ヴォアは言った。手はとうの昔に弓を握り締めており、視界の端に怪しい物が映れば次の瞬間には射抜いてしまうだろう


 「何かが我々を……。ケルライン、感じるだろう」


 ケルラインは頷いた。燃え盛る炉の傍に立った時のような酷い熱を首筋に感じていた


 その時、何かの鳴き声が聞こえた。異様な声が天空から叩き付けられたのだ


 山肌に視線を這わせればそれは見つかった。焦げ茶色のぬめった山脈に置いて深紅のクロークで全身を覆ったその姿は異様に目立つ

 何故今の今まで気付かなかったのか疑問に思う程だ。水晶のように青く輝く青天に震える両手を突き上げながら、その人影は叫んでいた


 意味のある言葉とは思えなかった。何かの呪文のようであった


 「奴は?」


 叫ぶ人影の両手は異様な形をしていた。肘の骨があり得ない程に角ばっており、伸びて弛んだ皮膚がそれに引っ張られてまるで魚の鰭のようになっている

 遠目であるため細部までは解らないが、指は三本ずつしかない。そして毛むくじゃらで、血に塗れた包帯を巻き付けていた


 ケルラインは赤いクロークの人物の気配に覚えがあった。悪夢の中で己を苦しめるあの闇だ


 「奴は……あ」


 唐突に赤い人影は姿を消した。瞬きの間に影も形も無い。まるでインラ・ヴォアのような消え方だとケルラインは思った


 「クラウグスの者ではないな。恐らくは亜人か……。高みから我等を見下ろしていい気になっていれば良い」


 インラ・ヴォアが挑戦的な笑みを浮かべて言う。ケルラインはインラ・ヴォアの言葉を聞いて、山脈の頂きを見詰めながら暫し黙考した


 この場に限って言えば頂は非常に近い位置にある。禿げた山肌には障害物も無く、傾斜もそれほどきつくは無い


 「そうか、高みか。……アンヴィケ、陛下の軍は近いのだな?」


 アンヴィケが頷くのを確認して、ケルラインは速足で山を登り始めた。インラ・ヴォアが後ろに続き、アンヴィケが最後尾を必死についていく


 頂に到着したケルラインは目を凝らした。大半は焦げ茶の禿げた山肌だが麓には僅かに森林部があり、川の流れがうかがえる


 遠かったが、其処に動きを感じた。大勢の人間の気配だった


 「あそこか」

 「カルシャと出会う前に味方と合流出来そうで良かった」

 「だと良いが」


 ケルラインは蒼天を見上げる。懸念はカルシャの軍勢のみではない。この空のどこかを竜が舞っているのだ

 早くクアンティン王陛下を安全な場所へとお連れせねば。ケルラインは腰の革筒を握り締める。ドラゴンアイの紋章旗から誰かの声がした



――



 前にもまして足を早め、川の畔を目指していると、アンヴィケが頭を抱えて唸り出した


 ケルラインは即座に馬を止めアンヴィケを下す。アンヴィケは蒼褪め、地に足を着けた途端に嘔吐した。長旅の泥や埃などの汚れに胃液を加えながらアンヴィケはのたうつ


 「アンヴィケ!」


 げぇげぇとえずきながらそれでもアンヴィケは必死に山影の一点を指差した

 ケルラインは咄嗟に剣を抜いた。炎の宝剣が赤熱し空気を焦がす


 「なんだ、何かいるのか」

 「ケルライン様、邪悪な者が」

 「カルシャか」


 ケルラインにも漸く気付けた。アンヴィケが指差す山影から幾つもの影が湧き出てきた

 遠目故に仔細は解らない。しかしそれらは非常に大群で、まるで途切れる事なく次々と山影から姿を現す


 死霊の軍団である。遠目に見てもおぞましい彼等は、多くは元クラウグスの民草であった者達だ

 インラ・ヴォアが手綱を強く引いて馬を嘶かせる


 「大丈夫、です、行けます」


 ケルラインは強がるアンヴィケを抱え上げて馬に跨った。アンヴィケの乗馬は捨てていく。インラ・ヴォアが先導する。カルシャの手勢が直ぐ近くに居ないなど、誰も保証できない


 川の畔ではこれまた多くの影が動き出していた。昼の陽光を跳ね返してキラキラ光るのは恐らく鎧だ。王直属の精鋭達がカルシャの軍勢に気付き、体勢を整えようとしている


 「急ぐぞケルライン!」

 「解っている!」

 「アンヴィケから目を離すな!」

 「言われるまでも無い!」


 転がり落ちるようにして斜面を駆け下りていく。途中何度も体勢を崩しそうになりながら必死に馬を操る


 屈強な山岳騎馬はケルラインとインラ・ヴォアの手綱捌きに良く耐えた。この勢いで行けば二つの軍勢がぶつかり合う前にクアンティンの軍勢へと合流出来そうだった


 しかしそれをさせまいとする者が存在した。山の頂で咆え声一つ。それは狼の物だった


 「敵意が近づいてきます!」


 アンヴィケが叫ぶ。インラ・ヴォアは気付いた

 二頭の山岳騎馬が駆け下りる後ろを猛追してくる黒い波に


 それは狼の群れだった。平野で見る物より一回り以上大きく、目は赤く、小剣程もある牙を備えている

 明らかにただの狼ではない。一度人間の喉に食らいつけばそのまま絶命させるのに一呼吸程の間も必要としないだろう


 鋭い爪を伴う蹴り足で土くれを巻き上げながらその集団は追ってくる


 そしてその中心に一際大きな体を持つ灰色の狼。またその背に跨る赤いクロークで全身を包んだ人影


 「ケルライン、横を走れ! 私の手綱を預ける!」


 インラ・ヴォアは即座に身を捻り最初の一矢を放った。手綱を放り出された馬はあらぬ方向にずれていこうとするが、ケルラインが慌ててそれを抑える

 己の騎馬を操りながらインラ・ヴォアの騎馬までも制御しなければならない。背後ではアンヴィケがまた身を震わせている


 「インラ・ヴォア! 奴は闇だ! 解るのだ! 奴は夢の中に現れて俺を食い殺そうとした! 英霊達の力を借りてそれを撃退した筈だったのだ!」


 クロークがふわりと浮きあがり、血に塗れた包帯が覗く。ケルラインは夢の情景を思い出す。戦友達と力を合わせ、闇の両前脚に痛撃を与えた

 アレはその傷だろう


 インラ・ヴォアは不敵な笑顔を鋭く尖らせて更に矢を射掛ける

 激しく揺れる馬上から俊敏に駆ける狼を狙っていると言うのに百発百中の手際であった。インラ・ヴォアが一矢放つ旅に巨大な狼達は脳天を穿たれ、一匹ずつ姿を消していく


 「夢でお前を意のままに出来ぬからこうして現れたのだろう!」


 一匹の巨狼が速度を上げた。群れの狼を盾にしてインラ・ヴォアの矢を凌ぎ、足に貯めた力を爆発させてケルラインの馬に飛び掛かる

 ケルラインは己の手綱を口で咥えて、火の宝剣を抜き放つ。狼の毛皮を貫く時に感じた感触は異様だった。まるで鎖を編んだかのような頑強さ


 ケルラインは手首を捻る。狼の傷口は激しく燃え上がり、同時に大きく広げられ、内部から損傷した臓器がボロボロと零れ落ちた。狼は絶命して地に落ち、群れの仲間たちに踏み躙られてゆく


 インラ・ヴォアの迎撃は続く。その技量は凄まじく、また挙動は素早く、ケルラインは王国に二人と居ない弓の冴えだと感嘆した

 しかし狼の数が多すぎる。一匹を射殺す間に何匹もの巨狼が涎を垂らして迫ってくるのだ


 インラ・ヴォアは意を決して大きく息を吸い込んだ。雷の矢を番える


 「臆病者にこのインラ・ヴォアを追う資格は無い!!」


 雷光が迸る。それは狼の群れの中心で赤いクロークをたなびかせる人影の側頭部を掠めた。インラ・ヴォアが狙いを外したのではない。赤いクロークの人物が身を捩ったのだ


 深紅のフードを引き千切られて人影は陽光に面構えを晒す事になる。黒い獣毛に覆われた頬。突き出た鼻と、頭頂部に並んで飛び出た耳

 狼の亜人だ。そしてケルラインはその顔に見覚えがあった


 「亜人の大使マヌズアルか! 竜に加担し俺を殺そうと言うのか!」


 ケルラインは亜人の大使が陛下に讒言し、その結果王都での竜迎撃が後手に回った事を思い出した


 汚い謀略の次は魔道で夢を操り、それすら上手く行かないと来てとうとう直接的な手段に打って出たのか


 ケルラインは怒りを爆発させ、火の宝剣を鞘に納めると馬の横腹に下げた斧槍を手に取った。最早インラ・ヴォアの手綱の面倒を見ていられなかった

 ケルラインの前に座り、亀のように身を縮こまらせたアンヴィケが絶叫した。ケルラインはその悲鳴を押し潰すように咆哮する


 「英霊達よ!」


 革筒が青い燐光を発する。それはケルラインの体を伝わり、斧槍を包み込む


 巨狼が一匹ケルラインの肩に食らいついた。その牙は容易く魔獣の革で作られた肩当てを貫通し、ケルラインの左肩の肉を深く抉る


 痛みに対しケルラインは呻き声一つ漏らさなかった。裂帛の気で持って斧槍を掲げ、小器用に背の後で一回転させ狼を打ち払う

 並みの膂力で出来る芸当ではない。ケルラインはその怪力を十全に発揮し、陽光を受け止めるようにして再度斧槍を掲げた。撒き散らされる青い光がただただ美しかった


 「見えるかマヌズアルよ! 貴様らがどのように謀ろうと、どれ程山野の獣を集めようと、我等は負けぬ! 我が戦友達は決して眠らぬ! お前達を打ち払うまで!」


 騎馬を狙って飛び掛かる一匹にケルラインは斧槍を叩き付けた。首の半ばまで埋まった刃を強引に切り替えし、再度振り上げて左側からアンヴィケを狙う一匹を穂先で突く

 二頭が血を撒き散らしながら転がり落ちて踏み躙られていく。新手は三匹。まず一匹が斧槍を振るうケルラインの右腕に食らいついてくる

 幸いにも手甲の鋼鉄部分が牙を防いだ。ケルラインは狼の鼻面に頭突きを食らわせる。巨狼はキャンと泣いて口を開き、其処をインラ・ヴォアの矢にて絶命させられた

 二匹が同時に飛び掛かってくる。一匹は馬の脚、もう一匹は手綱を取るケルラインの左腕を狙っている


 今のケルラインは狼の俊敏な動きよりも尚素早かった。最小限の動作で斧槍の穂先を突きだし、まず馬の足を狙う一匹の頭蓋を叩き割る

 そして仕留めたのを確認するかしないかと言った頃合に即座に身を捩り左の肘を突き出した。それはケルラインに食らいつかんとした狼の顎にするりと入り込み、そのまま二本の牙を纏めて圧し折った。狼は悲鳴を上げて転倒する


 凄まじい動きだった。複数の狼に襲い掛かられて生きて帰る戦士は少ない。ケルラインの戦いぶりは破格の物だった


 「好い加減にしろ! 不愉快だ!」


 インラ・ヴォアが再び雷の矢を放った。それはマヌズアルの駆る灰色の巨狼の脳天に突き立ち、当然のように絶命させた

 投げ出されるマヌズアル。狼の群れの猛追が止まる。赤いクロークを泥まみれにしながら立ち上がるマヌズアルは、落下の衝撃で足を負傷したようだった


 「それ見た事か! もう一度言ってやるが、貴様に私を追う資格は無い!」


 インラ・ヴォアは高々と弓を掲げて主神の名を叫ぶ。鬨の声、勝利宣言だった。事実狼の群れは憎々しげにケルライン達を見送るだけで、これ以上の追撃の気配は無い


 決着は後に着ける。まずはクアンティン陛下だとケルラインは自分を納得させた


 手綱を放りっぱなしにしていたインラ・ヴォアは転倒した。危うく首の骨を折る所であった



――



 マヌズアルの妨害もあり、予定していた進路を大きく逸れたケルライン達はクアンティンとカルシャの激突前に合流する事が出来なかった

 しかしカルシャの軍勢は前衛を一当てしたかと思うと即座に引いたのである


 ケルラインはその謎の答えをクアンティンの天幕で知る事になった


 「ルーベニー司教!」


 たおやかに微笑む金の髪の司教にケルラインは驚きの声を上げる


 クアンティンの周囲は親衛隊に加え、ルーベニー司教含む神殿騎士達によって守られていたのだ。彼等は神々に仕える敬虔な信徒達の守護、魔物を打ち払う為に日夜研鑽を続ける優れた戦士達だ

 カルシャを追い続け、ドワーフ山脈まで辿り着いたのだと言う。ケルラインは主神の導きに感謝した。ルーベニー達が居なければ戦況はどう転んでいたか解らない


 ルーベニーは控えめに言っても美しい女性だ。初心なアンヴィケは気圧されたのか俯きながら時折ルーベニーの様子を伺っている。ケルラインは視線を巡らせるが、本来クアンティンの傍に侍るべきロスタルカの姿は無かった


 「彼女を初めとする神殿騎士達七名の活躍が無ければ、ここまで荷を護る事は出来なかったろうよ」


 老齢のドワーフ、トーランキンが全身を震わせて笑った。低い背丈を誤魔化すような襟の立ったマントは高位のドワーフの正装で、彼がドワーフの長老衆の一人であることを示している

 その横で厳かに頷くクアンティン。同意見だった。長命なドワーフのそれも老人であるトーランキンと、短命な人間のそれも若年であるクアンティン。その経験には大人と子供以上の開きがあったが、互いに僅かなりとも知識を共有し、即席ながらも信頼関係を築いたようだった


 クアンティンが何時にもまして堂々とした態度で言う


 「ケルライン、よく来てくれた。しかし嫌に早いではないか」

 「カルシャの動きを察知しました。ドワーフ山脈であると感じたため、即座に王都へと戻ったのです。するとアッズア殿が陛下御自ら兵を率いて向かわれたと仰ったので」

 「……く、たったの三人で私を助けに来たのだな。確かにたった三名でも、諸君らの能力を鑑みればこれは心強い助けだ」


 嬉しそうにクアンティンは笑った。ケルラインの所属は宙に浮いている。王直属と言うのが一番近いが、明確な指揮権が与えられている訳では無い。対竜戦の専門家として騎士達に助言し、協力を要請することは出来ても命令は出来ない

 故に兵の編成など誰かに押し付けて、即座に出発したのだ


 クアンティンはケルラインの忠誠に感じ入った。クアンティンは嬉しかったのである。それはつまりクアンティンが感激するほど、危機的状況であったということだった


 「……恐らくは近くに竜も居ます」


 天幕の中の時が止まった。暫しの間誰も凍りついたかのように動けずにいた

 トーランキンがごくりと生唾を呑みこむ。彼はクラウグス王国の国力と言う物を知っており、同時に王都の惨状も知っていた。だからクラウグスにそれ程の被害を齎した黒竜の事を重大に受け止めている


 クアンティンがケルラインの瞳をじっと見つめたまま確りと頷く


 「では急がねばならぬ」


 微塵の恐れも見せないクアンティンを、ケルラインは心底から頼もしく思った

 竜は空を飛ぶ。その行動を制限できる者など居ない。竜が襲うと決めれば襲われるのだ。策など講じようがない

 故に行動は変わらないのだ。警戒するしかなかった


 「ケルライン様、傷の手当てを致します」


 ルーベニーがケルラインを促す。ケルラインは言われて漸く左肩の傷を思い出した。今の今まで忘れていたのに、思い出した途端それは猛烈に痛み始める


 「……しかし、余り悠長にはしていられない。陛下がお許し下さるならこのまま軍議を行っていただき、即座に行動を」

 「軍議は既に行った。我等はこのまま川を渡り山を越える。援兵は?」

 「アッズア殿が手配を。既にこちらに向かっている物と」

 「我が兵どもの練度を思えば一日凌げば助けが得られる。しかしこの周辺は守りにくい。……竜の事を思えば尚更留まれぬ」


 ルーベニーは強引にケルラインを脱がせに掛かる。ケルラインを天幕から引っ張り出すのは不可能と見て、この場で処置をしようと言うのだった

 肩当てと鎧を引き剥がし、凝固した血液を拭って傷を見る。肉が抉れて破れた筋線維が露出していた


 不思議な傷だとルーベニーは言った。傷口は深いのに出血自体は収まっている

 インラ・ヴォアがツンとそっぽを向いた


 「主神の加護だ、ケルライン」

 「……ですが酷い傷です。亜人マヌズアルが魔物を使役するとは」

 「許せ、このクアンティンの手抜かりだ。怪しい行動を取るマヌズアルの事は把握していた。……拘束するよう影に指示したが、失敗したようだな」

 「呪いが入り込むかも知れません。……熱した聖鉄で焼きましょう」


 神殿騎士の一人が腰の剣を抜いた。神殿の奥義で祝福されており、その過程は秘匿されている

 松明に火を灯し、剣を炙る。ぬらぬらと燃え揺れる炎が剣を舐める


 「……じき夕刻となります。夜は直ぐでしょう。山越えは……」

 「やるしかないぞ、若いの。奴らは常識を超えた行軍を行い、神出鬼没だ。何処に居ても大して変わらん」


 長老トーランキンが髭を扱いた。山越えで大きな被害が出るのは覚悟の上であった

 ケルラインは息苦しさを感じた。この状況では戦いたくない相手だ。カルシャの事は大嫌いだし何時か必ず滅ぼしてやると心に誓っていたが、同胞達がカルシャの手に掛かり尊厳を冒される事こそ最も苦痛だった


 物資を護りながらあの死霊の軍勢と渡り合うのか


 ルーベニーが聖句を唱えながら火で炙った神殿騎士の剣を傷口に押し付ける

 ケルラインは声一つ漏らさなかった。長老トーランキンはケルラインの態度に好感を抱いたようだった


 「……此奴を使え。効くぞぉ?」


 トーランキンの差し出した木筒の中身は酒だった。余程度数が高いのか酒精の強烈な芳香が天幕に充満する

 ルーベニーが遠慮なく焼いた傷口に酒を浴びせる。流石のケルラインも眉を顰めた


 「……それで、貴公がインラ・ヴォアか」


 クアンティンに問い掛けられ、インラ・ヴォアは小さく会釈をする。王に対して無礼な態度ではあった

 ケルラインは咎めるべきだと思ったが何も言えなかった。インラ・ヴォアの胸中を慮ればそれは出来なかった。ケルラインは木石で出来ている訳では無い


 「働きは聞いている。雷の矢を操るそうだな」

 「全ては神々の加護なれば」

 「そうか。その実直で無駄口を叩かない姿勢は好ましい。我が騎士として迎える準備があるが」



 王の騎士


 ケルラインは当然だと思った。その能力、人柄、責任感、どれを取っても彼女に勝る人材は少ない。後輩としての身内贔屓かも知れないが

 それに加えて飽くまでクラウグスと竜狩りの為に全てを捧げる献身


 改めて言うが、当然の事だとケルラインは思った。王の騎士として最高の栄誉と報酬が与えられて然るべきだ


 しかしインラ・ヴォアは受けないだろうとも思った。何となくそんな予感がして、そしてそれは現実のものとなった


 「身に余るお言葉なれど」

 「私はクラウグスの王である」

 「何と言われようと」


 司教、神殿騎士、配下、ドワーフの長老、それらが居並ぶ中王が発した言葉を退ける


 「貴様はクラウグスの騎士ではないのだな」

 「我が望みは竜狩りのみ」


 首をはねられても文句を言えぬ。ケルラインはインラ・ヴォアの助命を願う言葉を必死に捻りだそうとする


 しかしクアンティンはあっさりと許した。クアンティン自身、こうなる事を予想していたらしかった


 「良い。貴様はケルラインに助力している。それだけで十分だ」


 インラ・ヴォアは目を伏せた。何か言葉を発することは無かった


 新たに天幕に入る者があった。髪も顔も鎧も武装も纏めて泥まみれにした騎士が熱い息を吐きながら現れた

 獅子の眼光と恐れられる程の眼光鋭い女騎士、ロスタルカであった


 「お話し中失礼いたします! 陛下、斥候が戻りました!」


 ケルラインとロスタルカの視線が交差する。ロスタルカは何を気にする事も無く即座にクアンティンに向き直る


 「二十名の内五名が戻りませんが、必要な事は全てわかりました」

 「出した親衛隊が四分の一も戻らぬと? 皆一角の勇者たちだ」

 「強敵です、陛下。しかし配置は上手くありません。撤退は可能です」


 よし、とクアンティンは頷いた。彼は軍事に対しては目下勉強中であり、ロスタルカを重用する事で不足を補っている

 ケルラインは意を決して口を開く


 「殿軍は」

 「ロスタルカに任せる。踏み止まる訳では無く、僅かずつ引き下がりながら戦う」


 無理だ、とケルラインは思った。周囲は禿山で森林部よりはマシだが、夜間に戦いながら山越えなどして統制が取れるわけがない

 だがそれを言葉として発する事は出来なかった。ロスタルカがクアンティンの傍らに侍りながらそのような作戦を取らせる訳がない。しかしその愚作を敢えてとると言うのなら、クアンティンは全て覚悟の上なのだろう


 ケルラインも覚悟を決めた。極めて甚大な被害が出るだろう。その上で荷駄を守り切れる保証は無い。可能性で言えば寧ろ低い。この場に居る者達とて全員が生きて帰る事はあるまい

 しかしやらねばならぬ。状況は最悪だった。出発前には既に解り切っていたが、追い詰められているのだな、とケルラインは他人事のように思った


 アンヴィケの存在が大きな助けになる。これこそが唯一の光明だった


 「夜の山を越えながらでは、非常に困難でありましょう。我らもそこにお加えください。アンヴィケは陛下の御傍に。彼は敵の接近を感じることが出来ます。……良いな、アンヴィケ」

 「ケルライン様……、はい……」



 そして王の傍に居れば、アンヴィケは生きて戻る事が出来よう



 ロスタルカが釣り目をケルラインに向ける。歓迎も拒否もしなかった


 ルーベニーが便乗するように言った。元から神殿騎士達の方針は決まっていたらしい


 「私と神殿騎士達もケルライン様と共に。カルシャは私を憎んでいるでしょう。引きつける事が出来る筈です」


 決まったな、とトーランキンは石のような硬い冷たさのある目をギョロつかせる。クアンティンに右手を差し出すと、その皺だらけの巌のような手と小さく傷一つない少年の手が組み合わされる


 「クラウグスの王。如何に若くともこの期に及んで天より与えられしその聡明さを疑うことは無い。ドワーフは誇り高く、しかし頑迷であった。だが毅然と戦おうではないか、盟友として」

 「私はドワーフの決して嘘を吐かない精神を信じている。共に手を取り合い、竜もカルシャも、この大陸に闇を齎さんとする者達を打ち払おう」


 言い終えたクアンティンはマントを翻して天幕を出る。紫紺の布に金糸で太陽の車輪の刺繍が施されたマントが夕日を浴びて美しく輝いた

 その後ろ姿は小さく華奢であったが、何故か先王ハルカンドラを彷彿とさせた。皆がクアンティンの背に従った


 五百の精兵は百名程もその数を減らしていた。五分の一という異常な損耗率であり、しかしロスタルカを初めとする勇士たちの活躍が無くば被害はもっと大きくなっていただろう

 生き延びた彼等も疲れ果て、得体のしれぬ死霊の集団を相手に士気を低下させている。クアンティンは木組みの壇上に立ち、彼等に向けて声を張り上げた



 「……我が兵ども!」


 常に思慮深く話すクアンティンとは思えぬ切り口であった


 「私はお前達に隠し事をしないでいよう! つまり敵は強く、状況は悪い! 我々は今地獄の淵に立たされている! 戦の算段は先刻下知した通りで、変更は無い!」


 クアンティンは堂々としていた。堂々と背筋を伸ばし、堂々と兵達を睥睨し

 そして堂々と頭を下げた


 「つまり打開策は無い! 私は、愚かな手段でもってその帳尻を合わせようと考えている!」


 呼吸の音すら消え去ったような沈黙が満ちた。兵達はクアンティンが何を言いたいのか理解した

 彼等の表情から色々な物が削げ落ちていく。疲労、不安、困惑、そういった“余分な物”が消え去っていく


 彼等は皆歴戦で、多くの戦いの中でその優秀さを証明してきた。しかしその彼等とて心持たぬ人形ではない。何も考えず、恐怖すら抱かず、戦うだけの装置にはなれない

 しかしクアンティンの言葉で彼等は感情を消していく。恐れず、嘆かず、顧みない。彼等はクラウグスの王の偉大さを信じているのだ


 例え自らがどれ程惨く死のうとも、クアンティンがその死を決して無為な物にはしないと、信じているのだ


 「そうだ」


 クアンティンは胸を張った。誇れることなど何一つないと思っていたが、彼は堂々たるその態度を崩す訳には行かなかった


 「クラウグスの為に死ねぃ! 私がお前達に保証してやれるものは栄光のみ! より多くの者の為、より長き歴史の為、お前達は死ね!

  戦は続く! 黒竜、死霊の軍勢、その熾烈さを増し、更に多くの者が犠牲となるだろう! 或いはお前達はそれに参戦できぬ事を不満に思うかも知れん!

  だが! 決して……、決して! 無駄にはすまいぞ! お前達の献身、その究極の犠牲! 無駄にはすまいぞ!」


 ケルラインはクアンティンの背を見詰めた。彼は天に愛された人物だった。その智慧の巡りはクラウグスの並み居る賢者達を唸らせるものだった。幼くして古の文書を読み解き、新たな農法を開発し、星辰の動きすら掴んだクアンティンの事を、皆が天から賜った宝だと喜んだ

 そしてあの若さにしてあの風格を備えておられる。ケルラインは跪く。自然とそうしていた


 成長なされた。いや、或いは生まれた時より既に偉大な方だったかも知れぬ。論ずるほど彼の傍に居た訳では無い。遠目にその振る舞いを憧憬の視線で追う事しか出来ぬ、ただ一介の騎士であった

 だが、そんな事は良い。大きくなられた。あぁそうだ、お仕え致すとも

 偉大な王。我等の宝だ。我等全て捨て石になったとしても、クラウグスの為に彼を生還させねばならぬ


 「皆の命をくれ!」


 兵達は跪き右手を掲げた。彼等の手の先にはクアンティンが居た。栄光があったのだった。少なくともそれを信じさせてくれる少年が居た


 トーランキンがぼそりと漏らす。ドワーフの長老は震えている


 「……だからクラウグスの戦士は恐ろしい。ずうっと昔から変わらんのだ」


 彼の視線の先には天空を睨むクアンティンと、それに向けて最敬礼する兵達。トーランキンは心底から震えていた。頑固で勇猛果敢を旨とする種族の長老が、だ


 「黙ったまま死地に入り込み、悲鳴すら上げずに前のめりに死んでいく。だから古からあらゆる勢力が、クラウグスに敵わんのだ……」



――



 ケルラインは川の浅瀬を渡った所で守備に入った。死霊は太陽の光や自然の水流、雌馬の嘶きなどを嫌う。渡河の容易なここが最も敵が攻め寄せる場所になるだろうとロスタルカは言った


 決死の覚悟を固めた精兵たちによって防衛の準備が進められていく。破損した荷馬車を解体して作った即席の柵を準備し、ケルラインはその具合を確かめながら斧槍を磨いた


 「ケルライン様、矢張りこちらでしたか」


 木組みの折畳椅子を持ってルーベニーが現れる。その背後では兵士が困ったような顔をしている

 椅子を差し出してくるルーベニー。ケルラインは礼を言って椅子を広げた


 ケルラインが行ってよいと告げると兵士は松明を灯してから去っていく。椅子も本来は彼が持ってきた物のようだった


 「ここが最も激戦になるので」

 「……そういう方だと思い知りました」

 「この期に及んでは何も言わないで欲しい」

 「えぇ、言いません。私も考え違いをしていましたから」


 ルーベニーは柵の向こう側に視線を遣る。浅瀬の手前には油断なく武装を構えた兵士達が隊列を組んでおり、浅瀬を超えた所には見張り役の兵士が少数居た。更にその向こう側には無数の松明が設置され、暗い中でも可能な限り敵の接近に気付けるようにしてある


 可能な限りの光源を設置したし、この山脈一帯では不思議と月輪の輝きが強い。だが、矢張り夜戦。苦しい物になるだろう


 緊張を高める兵士達の姿をよく確認した後、ルーベニーは視線を戻す


 「ルーベニー司教、考え違いとは」

 「順序が違ったのです。貴方が旗手に選ばれた理由です」

 「……すまん、そういった言い回しなどには疎くてよく解らん」

 「謝罪など。そのような大それた事ではありません」


 まぁ、宜しいではありませんか

 静かにルーベニーは笑う。精神の強い女性だとケルラインは思う


 インラ・ヴォアもそうだが、このような状況に追い込まれて尚微笑む余裕がある。窮地に立って他者を思いやる余裕を持ち合わせているのがルーベニーだ


 竜の脅威に晒され未来は暗く、よき隣人である筈だった亜人の大国は動向怪しく、更には邪霊カルシャとその軍勢

 今のクラウグスに平素の余裕を持つ人間がどれ程居るだろうか。それはケルラインとて同じで、余裕など微塵も無かった。使命に向かって邁進する事と、戦友の無念さを思う事で勇気を奮い立たせている


 「総力戦です、ケルライン様。今クラウグスの国土の全てで戦いが起きています。このドワーフ山脈は言うに及ばず」

 「……承知している」

 「北部では魔物達の動きが活発化し、アッズワースは苦境に立たされています。それでもケルライン様達の御活躍で余裕が生まれ、僅かな援軍が王都に向かいました。

  西では無分別な襲撃を繰り返す死霊の軍勢に、ガモンスク将軍とその配下の騎士の方々が必死の防戦を行っておられます。この勇戦が無ければ今頃クラウグスは崩壊しているでしょう。

  そこを更に超えた場所では、陛下の勅命を受けた特命騎士の一団が散り散りになった戦士や傭兵、神官などを再結集させ、穢れた地から溢れ出る邪な精霊達を抑え込んでいます」


 待ってくれ。ケルラインはルーベニーを止めた。ルーベニーの耳は余りに良過ぎる


 何故全土の状況をそこまで把握している? カルシャを追いながらそこまで情報を得られる物なのか?


 「随分詳しいな」

 「…………南西の諸地方では義勇兵達が結束し、戦えない者達を守って中央へと脱出しました。彼等は直ぐにでも王都へと馳せ参じ、戦いに身を投じる筈です。彼等の多くは生きて戻らないでしょう。

  そこより南下した湾港部では商人達が私財を擲ち、王国の為に様々な物資を取り寄せています。海賊すら取り込んで南西地方の民の脱出に協力させました。既に限界でしょうが、彼等の働きで一部不利を押し返しすらしました。

  王都の護りを固める魔法戦士達は、選りすぐりの一隊を放ちました。彼等は取り残された要人の救出や険しい地への伝令など、身をすり減らしながら戦いを続けています。その御蔭で指導者を失わず、孤立せずに済んだ地は多い筈です。

  レイヒノムの信徒達は即座に全土に散らばり、或いは私達のようにカルシャを追い詰め、或いは神々の軌跡を預かる神官達と共に邪霊への戦いへと身を投じました。今このように。私達も含め彼等は死者の尊厳と王国の為に死を厭いません」

 「…………待て、待ってくれ、どういう事なのだ。何故そこまで知っている? 出発前、王都で対処されたばかりの事まで……。司教は今まで何処に居たのだ?」


 クラウグスは混乱の最中にある。王都ですら周知されていない事態が複数あった。それらを正確に把握するのは現状では至難の筈だ。ケルラインも知らない事は多い


 ルーベニーはケルラインの強い口調に対して微塵も怯んだ気配を見せなかった。黙ってケルラインの目を見詰めていた


 ケルラインは息を一つ吐いて考えを改めた。そうだ。ルーベニー司教が何を知っていたとしても良いではないか

 彼女はクラウグスの為に身命を賭す一人の神官戦士である


 「……まぁ良い」 何時しかケルラインは苦笑と共に呟いた


 「私は最初、もっと多くの被害が出ると思っていました。人には自分を守ろうとする本能があります。そこにどんな偉大な人物でも消しようのない、人間の邪な側面が加わり、クラウグスは混迷を極めると」


 ですが、そうはならなかった。ルーベニーは細い指をケルラインの手甲へと預ける

 ケルラインはその手を握り締め、緩やかに離した。ルーベニーは手を豊かな乳房に押し当て神に祈った


 「誰もが誰かの為の戦いを始めました。そしてその高潔な行いが人々を結束させ、何倍もの力となりました。其処には大人も子供も、男も女もありませんでした。正義を重んずる者は言うに及ばず、世を拗ね社会に反抗してばかりいる不良達ですら、誰かの為に立ち上がったのです」

 「……それは司教達の説く主神の教えの御蔭でもある。追い詰められた時、人は本性を現す。司教の先達が古くから説き広めた教えが、それを善性の物にしたのだ。クラウグスに善良な者が多いのは司教達の御蔭だ」

 「そうでしょうか。私は見誤っていました。人はもっと愚かだと侮っていたのです。本当に愚かなのは私だった」

 「司教」


 ルーベニーは司教杖を掲げた。其処から光が散って、ケルラインに降り注ぐ


 「カルシャは地獄の底の悪霊です。カルシャの足音を聞けば只人では心を呑まれてしまうでしょう。この光がそれを防いでくれます」


 ゆったりと舞う蛍が如き光であった。それがじわりと体に染み込み、不思議と勇気が湧いてくるような気がした。胸が熱く、苦しくなって、力が湧いてくるようだった


 「誰もが誰かの為に戦っている。やっぱり私は、人間が好きです。光の時代を終わらせたくない」


 潤んだ瞳がケルラインを見詰める。近くには人の居なくなった天幕があり、其処に誘われた


 「司教、兵達の為に祈ってくれ。俺を含め彼等が戦うのは王命と祖国を守る為だが、その先には司教の望む未来もある」


 しかしケルラインは視線を外して浅瀬を見遣った。ルーベニーは何も言わず、もう一度司教杖を掲げる


 其処から再び溢れ出した光が、今度は隊列を組む兵士達へと降り注いだ。ケルラインは声を張り上げる


 「この光を見よ! 主神レイヒノムと英霊達の加護ぞある! ルーベニー司教は決して目を逸らさぬ! レイヒノムにかけて我等は戦おう! 今この時、我等こそ王の護り!!」


 ケルラインはドラゴンアイの紋章旗を取りだし、斧槍へと取り付けた。青い燐光がルーベニーの軌跡に共鳴し、刃は小さく震えていた



――



 暫く後、虫の鳴き声が一斉に止んだ為、ケルラインは容易にそれに気付いた。野鳥の群れが前触れなく飛び立ったのもそれを後押しした


 闇の中で何かが蠢いたのだ。斥候が声を張り上げる。設置された松明に照らされ、落ち窪んだ虚ろな眼光が浮かび上がる


 死霊の軍勢だった。開幕の一矢はケルラインから見て川の僅かに上流側、小高くなった畔に陣取ったインラ・ヴォアによって放たれた


 「良いかお前達! この雷を目印に矢を放て! インラ・ヴォアと勇精ビオが加護を授けん!」


 勇ましい大音声。とうとう始まった。ケルラインは紋章旗を掲げて命令する


 「夜目の魔法を! 敵は何があっても決して怯まぬ! こちらも決して怯むな! 頭を射抜け!」


 死霊達は一斉に駆け出した。明らかに常軌を逸した人間味のないカクカクと硬い挙動。生理的嫌悪感を呼び起こす進軍だった

 そして、アッズワースの時と全く同じだった。死霊達には恐れも痛みも存在しない。矢の雨に対して全く進軍を鈍らせない


 しかしアッズワースの時とは違う事もある。それは風精ビオの加護だ

 明らかに地形を無視した不可思議な風の流れが、それぞれの射手達の思い描く場所への矢の到達を助けてくれていた


 「この風は」


 紋章旗が震える。赤羽鳥の鳴き声が響き、ビオの声が聞こえた。男とも女ともつかないあの不思議な声だ

 空を見上げれば雄大に天を舞うビオが居た。夜目の魔法で伺う夜の闇、月明かりに照らされる中でもビオの翼は美しかった


 「どうした盟友よ。君に僕の加護は要らないのか?」


 ケルラインはふっと笑って強弓を構えた



 ケルライン達は撃って撃って撃ち捲った。川は死霊の軍勢に対して頼れる防壁となったが矢張りアッズワースの堅固な城壁とは比べるべくもない

 あの恐ろしい軍勢が数に任せて攻め寄せて来たら壊乱は免れぬ物と思っていた


 しかし風精ビオの加護により、確実に死霊達を打倒せるとなれば話は変わる。死霊達は当初の予想を超えた凄まじい数だったが、王の軍団は必死に持ち堪えていた


 暫く持ち堪えた後、夥しい死体の山にケルラインは呻く。余りに多くの死体で既に地獄の光景であると言うのに、敵はまだまだ湧いてくる

 クアンティンの事が心配で堪らなかった。死霊達は川を渡らないと言うが浅瀬は渡っている

 本当に深い所は渡れないのか? 別に我々の把握していない浅瀬がある可能性は? 本当にクアンティンと輜重体を追う死霊達が居ないと言い切れるか?


 どれ程守ってもこの数、討ち漏らしは居る。別の場所で戦う隊も戦線を保っているが、討ち漏らしや補足し損なった敵が居ないとは限らない


 それに亜人マヌズアルの事もある。王を守る親衛隊はケルラインが知る限り最強だ。余程の事が無い限り陛下を守り抜くと信じてはいるが


 「ケルライン様、敵が抜けてきます」


 ルーベニーが目を閉じたまま言った。額にはじっとりと汗が滲んでいる

 ルーベニーが言った途端、敵の勢いが増した。数に任せて矢の嵐を突破し、戦列に食らいついてきた


 ケルラインは飛び出した


 「中列抜剣! 前列の脇を固めて弓手達を守れ! 恐れるな! 神々は加護を与えて下さる!」


 ケルラインは右手に斧槍、左手に火の宝剣を構えて最前線に躍り出た。兵達が盾を構えてそれに追いつき、ケルラインの左右を固める


 一体の死霊が飛び掛かってくる。鎧をつけていた。王を守る為に散った同胞の成れの果てだと気付く

 苦しかったろう、無念だったろう


 ケルラインは咆えた。右腕を撓らせ、しなやかに肘を伸び縮みさせた

 紋章旗をはためかせながら斧槍が大上段から振り下ろされる。刃が鎧を着た死霊を脳天から叩き潰し、大地へと沈めた


 次が来ている。ケルラインは一歩踏み出す。脇を固める兵達が合わせるように一歩踏み出し、それが両端にまで伝播して戦列が押し上がる


 左半身を引き、鋭く息を吐き出しながら火の宝剣で突く。両腕を広げて襲い来る死霊の胸を貫くと、一瞬にして火達磨へと変えた


 腹を蹴りつけて反動で宝剣を引き抜く。次は来る。次々と来る。ケルラインの右手側の兵が盾で持って体当たりを敢行し、一体の死霊を怯ませた後に顎から剣を差し入れ頭を破壊した


 死霊の壁は遮二無二襲い掛かってくる。死霊達は後続の死霊に押されるようにしてケルライン達を圧迫してくるのだ

 こうしている間にも当然インラ・ヴォア達の射撃は続いているのに、その勢いは止まらない。僅かでも気を抜けば押し切られてしまいそうだとケルラインは恐怖した


 ケルラインは左腕を胸の前で構える。手甲に装着された紋章盾が食らい付こうとする死霊達を食い止める


 「盾ぇぇぇ!!!」


 その号令に兵士達は即座に反応した。怒号飛び交う中で誰もその命令を聞き逃したりはしなかった

 兵士達は盾を突きだし、左右の戦友達と肩の位置を合わせる。盾の壁を形成する


 「押せぇぇいッ!!」


 そして全く同時に地を蹴る。おう、と力強い雄叫びまでも揃う


 死霊達は肉体の損傷を恐れない。力は強いし、その勢いと来たら大した物だ

 だが理性の無い滅茶苦茶な足運びで、踏ん張りなどあろう筈も無かった。完全に息の整った兵達の体当たりに、死霊の軍勢は僅かに押し返される


 「押せぇぇいッ!!」


 再び押し返す。一度押し返した死霊達の体勢が整わない間にもう一度押したのだ。転倒する個体が続出した

 ケルラインは冷静に判断した。浅瀬に入り込むのは危険だ。それに敵が決して怯まないのならば、その勢いを利用する事もしなければ


 「一歩後退ッ! 後列と入れ替われ!」


 兵達が身を翻して後背に控える兵士達と入れ替わった。鎧や盾、剣を引っ掻けてもたつく者など一人として居なかった

 飽きるほど繰り返した訓練の成果が光る。精鋭の精鋭たる所以は鍛えられた個々の肉体の力や、技量だけではない


 連携だ。人は一人だけでは戦えないのだ


 「突けぃッ!」


 後列から前列へと入れ替わった兵士達が理性なく押し寄せてくる死霊達に一突き入れる。走り込んでくる死霊達の勢いが、そのまま剣の威力に上乗せされた

 誰かが雄叫びを上げている。脳天を破壊された死霊が水飛沫を上げながら浅瀬に倒れ込む


 「更に後退ッ! 戦列戻せぃッ!」


 一撃入れた兵士達が同胞に習うように身を翻し、先ほどの前列と入れ替わる


 ケルラインは再び盾を構えて前進する。また、咆えていた


 クラウグスの兵どもの底力を見よ


 更にそこから二度、同じように攻撃、交代を繰り返す。この戦い振りはインラ・ヴォアですら感嘆する物であった。何せ死霊達はぐちゃぐちゃの塊になって押し寄せてくるのだ。薄皮一枚切り取ったとして次が押し寄せるまでに深い息をする程度の間すらない

 そこを素早く入れ替わり攻撃するのだから、その素早さと来たら


 いや、感嘆はしたがインラ・ヴォアは知っていた。ケルラインの能力と精鋭達の実力を知っていた。だからインラ・ヴォアは驚かなかった


 交代攻撃を繰り返し、戦列が下がると今度はルーベニーが司教杖を振るう。溢れ出る神聖な光が広がり、死霊達の猛烈な勢いを俄かに鈍らせる

 其処を狙ってケルラインは号令した。盾を構えて突撃し、再び戦列を押し戻していく



 そろそろだ。ケルラインは浅瀬の向こう側の森を見遣った


 「インラ・ヴォア! 聞こえるか?! インラ・ヴォア!」


 戦列から離脱し、ケルラインはインラ・ヴォアの率いる弓隊へと紋章旗を振る

 鋭く戦況を注視していたインラ・ヴォアは当然それに気付いた。そして天空に向け雷の矢を放つ


 途端に、雄叫びが轟いた


 「合図だ! このロスタルカに続け! 全てを捨て去って戦え! 我等の子らとその次の子らの為に! 次の時代の為に! 次の次の時代の為に!!」

 「主神を信じて唱えよ! 我等神殿騎士は死しても神殿騎士である! シャン・ルーイ!! シャン・ルーイッ!!!」


 浅瀬の向こう側の森の中、邪霊の類の目を誤魔化す奇跡を用いてロスタルカ率いる親衛隊と神殿騎士達は潜んでいた


 戦友達が奮戦する中、歯噛みして耐えた精鋭達の戦意の爆発は凄まじい物だった。親衛隊は十二分に鍛えられた歴戦の兵士達と比べても、まだ一線を画す勇者たちの集団だ。そして魔なる者に対して神殿騎士達が有効なのは今更語るまでも無い


 川の周囲に犇めく死霊の群れに突撃した僅か三十弱の集団は、しかし奇襲で持って死霊の群れを食い破った

 そこで戦果に驕るロスタルカではない。即座に密集陣形を組みケルライン達の形成する戦列へと移動を開始する


 強い。ケルラインは驚嘆した。そして戦列にゆっくりと後退を指示する。全て予定通りの行動だった


 「後退開始! 柵まで下がるぞ! 負傷者は後ろへ! 弓隊はロスタルカ殿達を援護せよ! 味方に中てるなよ!」


 風精ビオが舞い降りてくる。くっくと笑って尻尾を揺らしている


 「僕を知らないようだな。誤射など心配しなくてよい」

 「……聞いたな! 敵を滅多打ちにしろ!」


 矢の勢いが増した。元々このような慮外の敵を想定した編成であった為、矢の用意は十分にあった


 ケルライン達は応戦しながら後退し、柵に辿り着く。それにならうようにしてロスタルカ達も方陣を組んだまま後退する


 しつこいようだが、死霊は怯まない。奇襲で不意を突く事は出来ても壊乱はしない。元より数でもって押し寄せてくるのみだ。ロスタルカ隊と神殿騎士達はその猛威を全方位から受ける事になる

 だが、崩れない。親衛隊は確かな技量を持って敵の頭部を破壊し、神殿騎士達は聖鉄の剣にて敵を焼き滅ぼす

 当然被害は出る。多勢を持って組み敷かれ、喉首を食い破られる者。膝に体当たりを受けて体勢を崩し、其処で四肢を食い千切られる者


 凄惨且つ絶望的な、異様な様相だった。しかしそれでもロスタルカ達は持ち堪えた


 柵まで到達したロスタルカ達を援護しながらケルラインは言った


 「矢張り親衛隊と神殿騎士達! その精強さに並ぶ者なし!」


 柵の内側に転がりこんできたロスタルカはケルラインの差し出した手を取り立ち上がりながら応えた


 「貴公の指揮ぶりも中々だったわ」


 ロスタルカはにやりと笑った。初めてまともな言葉を交わした気がした



 其処からは半円状に展開し、浅瀬を越えてきた敵を即座に迎撃する戦法を取った。半包囲の状況である


 柵は敵を防ぐのに役に立ったが長くは持たなかった。即座に兵士達が死霊とがっぷり組み合う事になる


 被害は出た。風精ビオの加護の元に矢は大きな力を発揮し、弓手を守る戦士達も猛攻に良く耐えたが、被害は段々と増えていく


 気の遠くなるような時間だった。ケルラインは常に敵の目前に立ち、紋章旗をたなびかせ斧槍と火の宝剣でもって戦った


 此処こそ竜狩りの旗手の身の置き所だった


 旗を掲げよ。ドラゴンアイの紋章旗を

 旗の後にこそ勇者は続く。我等は竜狩り。退かぬ者


 何時しか青い燐光が際限なく溢れ出てケルライン達の戦列を包んでいた。ケルラインと兵士達は今亡き戦友達の声を聞く


 励まされていた。それが彼等を勇敢にさせた。そして彼等の勇戦を目に焼き付けた戦士達の心をも奮い立たせた


 皆疲れ果てていたが少しも力を失わなかった。死ぬ覚悟はあった。同時に、最後の最後、鼓動が止まるその瞬間まで戦い続ける覚悟もあった


 最後の最後まで、どれ程傷つこうとも

 ケルラインも少なくない傷を負ったが、痛みは直ぐに消えて行った。感覚が麻痺しているのだと何処か遠い思考で思った



 神殿騎士が討たれた。たった七名でありながらその働きは親衛隊にも劣らない物だった

 しかし死は誰にでも等しく訪れる。最後の神殿騎士は疲れ果て、地に引きずり倒され、群がる死霊達に食らい付かれたが、上げたのは悲鳴ではなく激励の言葉だった


 「私はァッ! 確信した! クラウグスはッ! ぬぁぁッ! え、栄光あれ! 主神の、導き、あれ! 全ての同胞に! 全てのッ!」


 最後の最後、神殿騎士は己の首に食らい付いた死霊を抱きすくめ、その腐った体躯を己ごと聖鉄の長剣で貫き絶命した

 血を吐きながら神殿騎士はまだ何か語ろうとしていた。最後の最後まで戦い抜いた


 「全ての……兄弟に……」


 誰もが歯を食い縛る。悲鳴など上げてやる物かと怒号を上げる。悲鳴は要らぬ。雄叫びをその代わりとしよう


 食い散らかされる神殿騎士の遺体から青い光が立ち上り、ドラゴンアイの紋章旗に吸い込まれていく



 隣で転倒した兵士を救う為、ケルラインは三体の死霊の前に飛び込んだ

 最寄の一体を盾で食い止め、右手から迫る一体に斧槍を叩き付けた。転倒した兵士が起き上がり、左手からケルラインを襲おうとする死霊に体当たりする。ケルラインもそれに合わせる


 二体を押し返して二歩退く。何も恐れる事は無かった。仲間が助けてくれる。武運拙く死んだならば、蒼き光となってそれでも戦友達を助けよう

 ケルラインは火の宝剣を振るった。隣を見遣れば助けた兵士が猛然と死霊に踊り掛かり、米神に剣を叩き付けていた


 兵士はふてぶてしく笑って、膝をついた

 脇腹が赤く染まっている。夜目の魔法があっても詳しくは解らないが、既に相当出血しているようだった


 「下がれ!」


 他の兵が戦列を埋めた。ケルライン宝剣を収めると膝をついた兵士を助け起こそうとした


 兵士は拒んだ


 「もう死に掛けなんで……、耳が遠くて、聞こえませんなァ」


 既に助からぬ。兵士は苦悶の顔付きでしかし雄叫びと共に無理矢理身を起こした

 兜を捨て去り、胸当てを捨て去り、鬼気迫る形相で走り出す


 戦列の兵を押し退け更に前へ。無謀な突撃だった。死霊への体当たりを繰り返し、兵士は腐肉の海の中へと埋もれて行った


 青い燐光が空に放たれ、紋章旗に吸い込まれる。ケルラインは味方を鼓舞した。突っ込んできた獲物に僅かに気を逸らした死霊の群れに呼吸の合った突撃を繰り出し、戦線を押し上げる



 青い燐光があちらこちらで立ち上る。死が増えていく。同胞達が少しずつ減っていく


 ケルラインは苦しかった。戦いが苦しいのは当然だ。知っていた筈だった。だが苦しかった


 苦しかったのだ



 「ケルライン様!」


 ルーベニーが悲鳴に近い声を上げた。彼女は幾度も奇跡を顕現させ、既に疲労困憊の有様だった


 ケルラインは死霊を押し倒し、斧槍を叩き付けて頭を砕く。最早振り返る事すら煩わしい程に消耗している


 「カルシャが近づいてきます!」


 くわ、とケルラインは目を向いた。怒りの爆発であった


 「カルシャッ!! 何処だぁッ! お前と相対する時を待ち望んでいた! お前を討ち滅ぼし、クラウグスの兄弟達を開放する瞬間をだッ!」


 仁王立ちして叫ぶ。ケルラインを守るように兵士達が前へ出る


 「カルシャ! 現れるが良い! ケルラインは此処に居るぞ! お前の大嫌いな竜狩り騎士は、此処に居るぞぉッ!!」


 おぉん、と遠くで何かが鳴いた。ずん、と言う重たい音が響いた。死霊達の波が引いていく。不気味な気配が漂う


 ルーベニーから聞いていた。カルシャは人の背丈より大きい牛の姿をしている


 黒い体毛に濁った眼。捻れた双角の内右は折れており、古の邪霊の金冠を鼻輪としてつけている

 背には肉が盛り上がり硬くなった醜い瘤が並び、腐敗した腸の中には人肉を食らう魔界の蝿を飼っている

 蹄は呪われていて、それが大地を叩く音は光の世界に住まう者の正気を奪う。尾は蠍の如く撓り、先端には悪夢の如き針を備え、これに刺された者は絶命した後血を吐いて起き上がり、生者の肉を求める


 正にその通りであった。夜の闇の向こう側から、強烈な腐臭と怖気の走る蹄の音を撒き散らしながら、魔牛カルシャは現れた


 ぶううと聞こえる音は蝿の羽音だった。カルシャが首を持ち上げた瞬間、恐るべきそれらは放たれた


 「は、蝿! 蝿が体を! うぅぅ、おのれぇぇ!!」


 一人の兵士に無数の蝿が集る。血飛沫が上がり、皮が剥げ、内臓が零れる

 眼窩、耳、鼻孔、口腔、ありとあらゆる所に蝿が侵入し、その肉を食い荒らしていく。地獄の苦しみに違いなかった


 脳を食われて絶命するその瞬間まで苦しみ続けた。兵士からは青い光は現れなかった


 「あ、あぁ……。今、彼の魂が砕かれたのが解りました……」


 ルーベニーが肩を抱きしめて震えた。ケルラインはバリバリと歯軋りする


 許せぬ

 許せぬ

 その言葉だけが頭の中に響き続ける


 苦しい


 「盾ぇぇ!」


 兵士達が一斉に盾を構える。誰も彼もこのような状況は初めてだった

 額に浮かんだ汗。緊張に強張った体


 しかし戦う意思は持っている。瞳は未だにギラついていた


 「ケルライン、貴公を信じるぞ」


 隣にロスタルカが現れる。親衛隊は激しく消耗し、その損耗率たるや元の二十名の五分の一を割っていた

 だが戦意を失っていないのは他と同様だ。ロスタルカは盾を構え、長剣を突きだし、ケルラインの左脇を固める。それにならうように親衛隊員達は戦列を組み直す


 「ケルライン様、紋章旗を」


 ルーベニーの助言を容れ、ケルラインは斧槍を掲げた。カルシャが現れてから風はぴたりと止んでしまい、淀んだ空気が立ち込める

 しかし紋章旗は靡いた。風も無いのに


 「頼む」


 ケルラインは肩を震わせた


 許せぬ

 悔しい

 苦しい


 我等の同胞達を踏み躙るカルシャがどうしようもなく憎い


 余りに憐れではないか。死してその身体を弄ばれるなど。同胞の肉体が相争うなど


 「頼む、戦友よ。皆々よ。力を貸してくれ。カルシャを倒せるのであれば、差し出せる物は何だって差し出そう。命すら惜しくは無い」


 ぶわり。静かな風が、蒼い燐光と共にドラゴンアイの紋章旗より立ち上る

 それは斧槍を伝わってケルラインを包む。最早見慣れた光景であった。死した戦友達を傍らに感じる


 カルシャが嘶いた。蝿が腐った腸から飛び出し、一直線にケルラインに向かう


 ケルラインは盾を構える。蒼い燐光が収束し、硝子の如き壁を形成した


 人肉を食らう蝿は蒼い光の壁に激突し、その端から燃え落ちていく

 どよめきが起こる。それは直ぐに希望の声となった


 「……最後の竜狩り騎士。英霊達の加護を一身に受ける竜狩りの旗手」

 「感じるぞ、邪悪な気配が薄らいだのを」


 ケルラインは盾を突き出したまま一歩踏み出した。蒼い光は再び戦列に伝播し、兵士達全てを包み込む


 「温かい。矢張り聞こえる。気のせい等では無かったのだ」


 ケルラインに習うように全ての者達は一歩踏み出した。半包囲の輪が僅かに狭まる。カルシャの濁った瞳はケルラインだけを見詰めている


 ユーナーの声が聞こえた


 どれ、カルシャ、あの時はやられたが此度はそうは行かぬ


 じわりとした温かさが痛みすら感じるほどの熱に代わる。身体の奥底にユーナーを感じる


 「ケルライン様」


 ルーベニーが背後に居た。盾を構えるケルラインの背に顔を埋めるようにして寄りかかり、そして言った


 「私も同じ気持ちです」

 「ルーベニー司教」

 「多くの者が犠牲になりました。多くの勇敢な戦士達が己の宿命と使命に殉じました」

 「司教、危険だ。下がってくれ」


 ケルラインは油断なくカルシャを見詰める。カルシャは蹄で地を掻いた。途端、ケルラインは強烈な脱力感に見舞われる


 それは他の兵士達も同じだった。膝を着かずに持ち堪えたのはケルラインと、ロスタルカを初めとする少数の親衛隊

 そしてルーベニー


 「騎士ユーナー様も。……私の番が来たのです、ケルライン様。……貴方は素晴らしい人です。私は貴方に会えて良かった」

 「司教?」


 汗で張り付いた髪を払い、ルーベニーは法衣を解いた。するすると止める間もなく装備を脱ぎ捨て、豊満な肉体を曝け出す


 「主神と英霊達の加護ぞあれ」


 そして銀の小剣を己の心臓に突き立てた。一瞬の間の出来事だった。唖然とする他なかった


 即死であった。ルーベニーの体は崩れ落ち、鈍い音を立てる


 そしてその身体から立ち上るのは矢張り青い光だった。嫌になるほど見てきた。その光が紋章旗へと吸い込まれ、少しずつ力を増していくのを


 ケルラインは斧槍を天空へと高く高く掲げた。名を呼んでいた


 「ルーベニー!!! おおぉぉ!!」


 その瞬間猛烈な光が紋章旗から溢れ出す。今までの淡い燐光とは一線を画す光だ


 光はケルラインに活力を与えた。斧槍と宝剣を握り締める両手は万力の如く、肩は鋼、足は寄り合せた鎖の如く、腹の底には熱い物が燃え盛り、其処から巡る血潮はどうしようもなくケルラインを突き動かす


 光の波が広がっていく。それは兵士達にケルラインと同様の活力を与え、カルシャは逆に苦しめた

 おおぉんとカルシャは鳴いた。明らかな苦悶の叫びであった


 「見事なりルーベニー!」


 インラ・ヴォアは賞賛の言葉と共に雷鳴の矢を放つ。それがカルシャの健在な左の角を圧し折り、戦いの幕開けとした



 ケルラインは光に包まれたまま走った。それに続き、ロスタルカが、親衛隊が、全ての兵士が走った


 カルシャは身を捩る。蠍の尾が薙ぎ払うようにケルラインとロスタルカを打ち据える。盾で辛くも防いだが、ロスタルカは尻餅をついた


 其処をカルシャの針が狙う。ケルラインが前に飛び出して斧槍を構えた。光が溢れ出し針を食い止める。見えない何かに捕まれたかのように其処に釘付けにした


 「ケルライン、俺はこの針にやられたのだ」


 ケルラインの目には己の右隣から延びる太い腕が見えていた。それがカルシャの尾を捕まえて離さない


 「仇を取ってくれ。多くの同胞達の無念を晴らしてくれ」


 ユーナーの声を背に受けながらケルラインは再び走り出した。ロスタルカも立ち上がり再び走り出す


 カルシャの背後から兵士達が突撃する。剣を腰だめに構えて捨て身の体勢だった


 カルシャは無理矢理身を捩った。頭を振り乱して兵士達を打ち払う。凄まじい力だった。骨を砕かれ、臓腑を潰され絶命する兵士達。矢張り光が立ち上る


 斧槍を振りあげる。光が巻き起こる

 全身を振り乱して斧槍を振り下した。それは一度カルシャの頭を叩く


 それは一撃で頭蓋を割った。中から出てきたのは脳ではなく、黒い泥だった

 そしてカルシャはそれでは死ななかった。黒い泥をだくだくと溢れさせながら、前足を持ち上げる


 地面を震わせる踏みつけ。その音が鼓膜を震わせ、多くの兵士達が頽れた。猛烈な脱力感


 ロスタルカが歯を食い縛って立ち上がる。ケルラインがカルシャを許せないように、ロスタルカもカルシャを許せない

 その鋼鉄の精神力を持って身を起こしたロスタルカは、カルシャの鼻面に盾を投げつけた


 「立て! 立つのだ!」


 ロスタルカは兵達を鼓舞し、剣を逆手に持ち替えてカルシャの割れた頭蓋に突き刺した

 激しく暴れるカルシャ。蹄に打たれたロスタルカは、その寸前で辛うじて身を引いた

 その反応がロスタルカの命を救った。彼女は臓腑を打ち抜かれる激痛に胃液を撒き散らしながらも重傷を負わずに済んだのだ


 雷鳴の矢がカルシャの腐った腹を貫く。雷の矢の頻度が高い。インラ・ヴォアは相当疲労しているだろうなとケルラインは思った


 そしてそれは事実だった。荒い息と吐くと共に膝を着いたインラ・ヴォアは米神に血管を浮き上がらせ、鼻孔からは出血していた

 しかし歯を食い縛り、更に雷の矢を番える。今度は背の瘤を撃つ


 ケルラインは漸く立ち上がった。激しく暴れるカルシャはとうとうユーナーの腕から解き放たれ、再び尾を振り回す


 ケルラインは目を凝らし、音速に達しようとする尾の先端を必死に追った


 宝剣振るう。上手く受け流した。撓る尾は地面を抉り、再びケルラインを襲う。今度は盾で受け止める


 その隙をついて兵士達が襲い掛かる。雄叫びを上げる兵士にカルシャは向き直り、尾で貫いた

 腹を破り内臓を引き裂き背中から飛び出す蠍の尾針。鉄の胸当てなど何の助けにもならなかった


 しかし兵士はさも嬉しそうに笑った。笑って、剣と盾を放り出し、己を貫く尾に抱きついたのだ


 何人もの兵士が後に続いた。尾に掴み掛り必死の形相で抑え込む


 ケルラインは何度目なのか覚えてすらいない雄叫びを上げる。彼等の献身に応えねばならぬ


 「カルシャ……あぁぁー!」


 斧槍を振り回し足を薙いだ。左の前脚を叩き斬られカルシャは頭部を下げる


 蒼い光が溢れて人型になる。ユーナーだ。ユーナーは真正面からカルシャに挑みかかり、その頭を押さえつけた


 ケルラインは転がるようにカルシャの右側に回り込んだ。インラ・ヴォアの雷の矢に焼かれた柔らかそうな脇腹が見える


 カルシャは尻を振った。後ろ足の蹄でケルラインを打ち据えようと言うのだ

 ケルラインは咄嗟の判断で頭を下げた。蹄が額を掠めて血が噴き出る。蹴り足が戻っていくのを感じたケルラインは、火の宝剣を突き出した


 カルシャの腹に宝剣が潜り込んでいく。中から燃え盛る礫のような物が吐き出された

 蝿だった。カルシャの腸に住んでいた蝿たちが、その住処ごと焼き尽くされて逃げだしたのだ


 火の宝剣はここぞとばかりにその威力を発揮した。炎は意思を持ったかのように蝿を舐り上げ、纏めて焼き尽くしてしまった


 ここぞと見た者達は何人も居た。全ての兵士達が決死の覚悟で駆け出す


 蒼い光に包まれた彼等は雄叫びと共に剣を突き出す。首、腹、足、尻、背、あらゆる場所に踊り掛かり、カルシャをハリネズミのようにする


 最後にケルラインが咆えた。斧槍をもう一度、天高く突き上げる


 「ルーベニー司教! 我が同胞の無念を晴らしたのは、魂を開放したのは!」


 そして背中の瘤へと叩き付けた。眩いばかりに輝く斧槍はするりと瘤を割り、背骨を割り、臓物の中ほどまで切り裂いて止まった


 「貴女だ、ルーベニー! 兄弟よ!」


 おぉんとカルシャが鳴いた。その瞬間、カルシャの全身が崩壊し、蒼い光が溢れ出す


 カルシャに囚われていた魂達だ。ケルラインは燃えるような熱に包まれた


 光は無数の人型になり、天に向けて剣らしき物を突き上げた後、紋章旗へと吸い込まれていった


 ドラゴンアイの文様が脈動し戦慄いた



――



 帰還の道程、竜は襲ってはこなかった。しかし気配はあった。ケルラインを楽しそうに、嬉しそうに伺う竜の視線を感じていた



 王都への帰還の後、ケルラインは全てを後回しにして自室へと戻った

 疲れ果てていた。凱旋だ等と言っている余裕は無かった。クアンティンもそれを許し、参内の要請を取り下げた


 適当に身を清めて寝台に倒れ込むケルライン。遣り遂げたと思った。カルシャを打倒し、同胞の無念を晴らした


 倒れ伏すケルラインの傍に、何時の間にかインラ・ヴォアが片膝を立てて座っていた。彼女の神出鬼没ぶりは今更だ。ケルラインは少しも驚かない



 「ケルライン」

 「……インラ・ヴォア」

 「見事だった。クラウグス史上にお前ほどの勇者は居ないだろう」


 ケルラインは無言を返す。勇者でありたかった。旗手として、戦友達の魂を背負った物として、勇者でありたかった

 ルーベニーの顔が浮かぶ。彼女の御蔭で勝利した。彼女の御蔭で勇者になったのだ。死霊との戦いは二度あり、その二度ともがそうだった


 矢張り俺一人の力など知れた物だ。ケルラインは自嘲する


 「ケルライン」

 「……何だ」

 「ルーベニーはどうだった?」

 「何が言いたい」

 「呆れた奴。アンヴィケの奇妙な態度に気付かなかったのか?」


 インラ・ヴォアは笑った。何を意味する笑いなのかケルラインには解らない


 「お前は司教、司教と呼んでいたが、そもそも彼女の司教座聖堂は何処だ?」

 「……何を言っている。王城の……」

 「あそこは違う。そもそも位の高い神官が王城で務めを果たすための仮の物だ。司教など居ない」

 「どういう事だ」


 インラ、ヴォアはサンダルを脱ぎ捨ててケルラインの寝台に這い上がる


 「ルーブ・エ・ニルン。古の神が勇者の為に使わす聖娼だ。黄金の髪、ふくよかな肢体を持ち、美貌にたおやかな笑みを湛えている。彼女を抱いていないのか? お前を慰めたかったろうに」

 「馬鹿な、彼女を愚弄するのか」

 「馬鹿はお前だケルライン!」


 身を起そうとするケルラインを、インラ・ヴォアは無理矢理に押し倒した

 鍛え上げられた硬い胸板にそっと触れる指。インラ・ヴォアは服を脱ぎ捨てる


 「短い時を生き、勇者を助け、慰め、天に帰る。彼女はきっとお前を好いていた。お前は酷い男だ、ケルライン」

 「……」

 「逃した獲物は全く大きいぞ」


 インラ・ヴォアの体は美しかった。白銀の髪が揺れて落ち、其処彼処に傷を負った肉体は赤く色付き、期待するように震える


 彼女も戦士だ。戦いの中で多く傷を負っただろう。それ一つ一つは醜く引き攣った傷だった。しかし堂々と笑うインラ・ヴォアは、ケルラインにはこの上なく美しく見えたのだ


 「私で我慢しろ」


 インラ・ヴォアの唇が降ってくる

 色付き、震える肉体が、ケルラインの鍛え込まれた体躯に絡みついた


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