ワルキューレ― 瞬
満月が泉に映る。
波紋は止まった。
守りたかった。
命に代えても、守りたかった人たちを。
太陽に照らされた、精悍な面差しの青年たちが、確かに私の名を呼んで——。
弦が弾かれた。
思い出してはいけない。
それだけは、絶対に。
揺蕩う光は吸収され、溶けて消える。
永遠に。
呼んでいる、彼らが。
応えられない。
その資格はないのだ。
涙が止まらない。
⸻私はあの時、溶けてゆくべきだった⸻
深い森に囲まれた神聖な泉。
月光がワルキューレの泉を照らし、きらめく光の粒が集まる。
現れたのは、ボロボロの軍服をまとった青年だった。
ズボンから砂が流れる。
青年は天を仰ぐ。星はない。あるのは煌めく白銀の満月のみ。
青年の頬を涙がつたう。
泉が揺れた。
水面の月は消え、炎が立ち上った。
⸻ドカーン!
「総員撤退!」
隊長は真っ先に逃げて行った。
砲弾の嵐が降り注ぐ。
火柱と火の海を駆け抜ける女と子ども、年寄り。
メキメキと音を立てて、巨大な看板が倒れた。灰と炎が立ち上り、逃げ惑う人々に燃え移る。
東洋の真珠は崩壊した。
頼もしい兄たちは言い争うばかりで、逃げる方向すら定まらない。
熱風と灰を吸い込んだ。
「俺は、死ぬんだ」
覚悟はしていた。
全身が震える。
兄たちとなら乗り越えられる。
そう思っていたのに。
俺はへたり込んだ。
「ああ〜! 兄さ〜ん!」
兄たちが離れていく。
スマホのアラームで、凪は跳ね起きた。
凪の瞳は濡れていた。
前世の記憶、だろう。凪はそう思っている。
繰り返し見る夢。
しかし名前も顔も思い出せない。
兄たちだけではない。
前世の自分のことも、
置いて行かれた理由も、
何も分からない。
——兄さん、どうして——
凪は涙を拭って、ベッドからおりた。
今日は幼なじみの悠真と会う約束。
鏡を見た。
ただのロングヘア。二重まぶただが、得したことはない。ぷるんとした唇でもないし、普通の鼻。
髪をとかす。
お化粧は最低限でいい。
急いで着替える。
「行ってきまーす!」
お母さんの返事を聞いて家を出た。
集合場所のバス停へ向かう。
「あついな〜」
8月の陽射しの照り返しは痛い。
今日選んだのは、真っ白なワンピースに銀色の細いネックレス。白と銀色は昔から好きな色だった。ひらりと裾を揺らす。
停留所の屋根に入って、胸いっぱいに息を吸う。
水々しい田んぼの稲。
青空に大きな白い雲。
⸻あの白い雲を墓標に、行って参ります⸻
雲が滲む。凪は涙を拭った。
⸻ドン!
「うわ!」思わず飛び跳ねた。
「驚いたか?」
悠真はしてやったと、くっくっと笑いを堪えている。
「俺に会えるのが嬉しくて泣いてたのか?」
「いつも見てるやつを見て、泣くわけないじゃない」
ふん、と顔を背けるも、悠真は顔を近づける。
「じゃあなんで泣いてたんだよ」
「あなたには関係ないことよ」
ふーん。と納得できないようだ。
「で、なんで市立植物園のハイビスカスが見たいと思ったんだ」
⸻南国の花なら、もっと思い出せると思って⸻
「綺麗な花があれば、見たいと思うのは普通でしょ?」
「…お前、花にあまり興味ないだろう」
思わず身をすくめた。
「何年幼なじみやってると思ってるんだ。あの古本の影響だろう」
悠真が言っているのは、昔、凪が古書店で見つけた特攻隊員の遺書を集めた本だった。
破れや黄ばみが酷い。
兄たちの温もりと同じものがあって、迷わず購入した。
熱中して読んでいたため、悠真に本のことを話してしまったのだ。
返事に困っていると、ちょうどバスが来てくれた。
凪は1番に乗り込む。
「さっ、行きましょう!」
空気が変わるかと思ったが、悠真の視線は鋭さを増す一方だった。
「で、進路は決めたのか?」
「あなたには関係な、い!」
「あのなぁ、俺はお前を心配して言ってやってるんだ! そんな態度はないだろう」
「あなたに心配してほしいなんて言ってない!」
車窓から景色を見る。
田舎の生まれだが、都会に憧れたことはない。
山や川、生い茂った草。
⸻目に焼き付けて置きたい⸻
空気が一瞬冷えついた。
「…なあ、お前、もしかして、死にたいのか?」
「な、なに言ってるの!? 馬鹿じゃないの!」
悠真が、はーっと息をはいた。
「ならいいや、安心したよ」
バスの案内音声が響く。
「次は、市立植物園前、です」
凪は素早くボタンを押す。
「ハ、ハイビスカスってお茶にもなるんだよ。売ってるといいなぁ〜」
「まあいい。今日はこのへんで許してやろう。さ、行くぞ」
親子連れとカップルがちらほらいるだけで、想像以上の賑わいでないのが、かえってよかった。
騒がしいと思い出せないかもしれない。
「へぇ〜、案外色んな色があるんだなぁ」
悠真も思いのほか楽しんでいる。
⸻やっぱり似ている気がする、悠は⸻
悠真はクラスの中心的存在だ。
彼の周りには男女問わず人が集まる。
当然と言えば当然だ。
運動も勉強もできる。
おまけに程よく日焼けした体は引き締まっていて、顔も整っている。スッと通った鼻筋、迷いのない真っ直ぐな瞳。短く切り揃えられただけの髪型だが、それがかえって彼に、飾り気のなき好印象を与えている。
⸻でも、誰に? 兄さん?⸻
ふふっ、と愉快な笑い声が聞こえた。
「俺じゃなくて、ハイビスカス見に来たんだろう?」
凪は勢いよく顔を向けた。
やはり思い出せない。
鮮やかな南国の花は、何も語りかけてはくれなかった。
「…だめだったのか?」
「え? な、何が?」
「南国、戦争。そこにお前の知りたい事があるんだろう」
「あ、あなたには」
「そうだ、確かに俺には関係ない。でもお前の力になることが、なんでだめなんだ」
精悍な顔立ちに宿る焔から、目を逸せない。
泉に最後の一雫が落ちた。
満月が厚い雲に隠れてる。
「ごめんなさい。言葉に、できないの」
凪はスマホをベッドに放った。
「言えるわけないじゃない」
前世がマニラ空襲にいた日本兵で、先輩兵士たちに、置いていかれた理由が知りたいなんて。
⸻なんの根拠もないんだから⸻
リモコンでLEDライトを消し、布団を被った。
目を閉じる。
首に手を当てた。
ドクドクと感じる脈は温かい。
生きている。
死にたいのではない。
まぶたがゆっくり閉じていく。
⸻私はあの時、溶けてゆくべきだった⸻
冷たい。
息が吸える。
艦砲射撃の音も、断末魔もない。
⸻マニラじゃない⸻
凪は目を開けた。
白銀の満月。
夜空には星一つない。
豊かな森に囲まれているのに、虫も鳥も、生き物の気配もない。風の動きも。
泉。
清らかで、近づけない。
純潔の乙女を穢してはならないように。
月光が差した。
光の粒がかたちを成す。
日本国旗が縫い付けられたボロボロの軍服。
焦げた跡があちこちに見られ、服の穴から見える体には、深い傷がある。
帽子が潰れていて顔がよく見えない。
背格好から、悠くらいはあるか。
ジャリと、砂を踏む音が聞こえた。
「⸻ありがとう」
「え?」
青年は顔を上げた。
白い光が照らす。
凪は息を呑んだ。
スッと通った鼻筋に、迷いのない瞳。
青年は微笑んだ。
笑顔までそっくりだった。
悠に。
「驚くのも無理はないよ」
声まで同じ。
⸻なんで知っているの?⸻
「俺は、君だから。そして君は俺だから」
満月に雲がかかった。
光の粒が霧散していく。
凪は叫んだ。
「待って!⸻」
青年は散ってしまった。
悠真と登下校するのは日常のこと。
彼はいつものように、ガラっと勢いよく開けた。
冷やかすクラスメイトはもういないのに、今日はやけに皆がニヤニヤしている。
「よう! お二人さん! ハイビスカスは見頃だったか?」
クラスの男子がケラケラ笑い出した。
凪は真っ赤な顔で下を向くしかなかった。
悠真はカバンを上げて陽気に答えた。
「ああ! こいつの顔みたいに真っ赤だったよ!」
教室がドッと湧いた。
凪は悠真の背中を思い切りカバンで叩き、席についた。
友人たちが集まってきた。
ドンとカバンを置く。
「で、誰がバラしたの?」
優奈がクラスの男子を指差した。
「田中のお母さんが友達と来ていたんだって。そしたら偶然あなたと悠真君を見た、って言ったらしい」
田舎らしいエピソードに肩を落とす。
「がっかりすることないじゃん。みんなお似合いだと思ってるよ」
悠真はまだ、ハイビスカスエピソードで盛り上がっている。
「そんなことないよ」
「どうして?」
「…私が、ぼっちにならないよう、心配してくれているだけ」
みんな嘆いた。
「はっきり言っちゃいない。す、きって」
凪は沸騰前のやかんのようだった。
「あー! もう違うってば! 私は恋人なんていらないの」
美咲がニヤリとした。
「じゃあ、悠真君をもらっても、オーケーってことね」
「⸻いいよ」
「え?」
「別に私は、構わないから」
美咲が破顔した。
「冗談に決まってるじゃない!」
凪は本気だった。
里奈が手を叩いた。
「そうだ! 1限数学だよ。みんな宿題やった?」
「あ〜そうそう。分からないところがあったから、聞こうと思ったの」
合わせたかのようにチャイムが鳴り、みな落胆して席に戻った。
ああ、眠たい。
数学担当の横山裕先生は、学校一優しい先生で有名。しかし語り口調はまるで絵本の読み聞かせのようで、何人も脱落者を出す。そしてテストに出るところは、皆でノートを持ち寄らないと対策できない。ある意味最強先生なのだ。
凪もその脱落者になりそうであった。
⸻ああ、だめだ。景色が歪む⸻
⸻後で悠にノート見せてもらおう⸻
瞼が落ちてゆく。
⸻おい!
「はい!」
凪は立ち上がって返事をした、はずだった。
⸻え?
⸻ドカン!
猛烈な艦砲射撃と押し寄せる火炎の波。
「総員撤退!」
隊長が真っ先に逃げて行った。
砲弾が雨のように降り注ぐ。炎の中を駆け抜ける女と子ども、年寄り。
ガラスが弾け飛んだ。
燃え移った巨大な看板が道に倒れ込む。
灰と炎が立ち上り、逃げ惑う人々に燃移った。
東洋の真珠は崩壊した。
頼もしい兄たちは言い争うばかりで、逃げる方向すら定まらない。
熱風と灰を吸い込んでしまった。
激しく咳き込んだ。
⸻苦しい! 今日はやけにリアルだな⸻
「おーい! 誰か!」
⸻え、悠の声!? なんでいるの? ⸻
悠真も激しく咳き込む。
「一体なんだよ! マジで火傷しそうに熱いし」
⸻ねえ!…あれ?声が出ない。
「俺は、死ぬんだ」
弦が弾けた。
⸻そうだ、そうだった⸻
悠真が凪の前に現れた。
「ここの連中には俺の声聞こえないしなあ〜」
⸻いや。あなたには、知られたくない⸻
「熱いし、苦しい。早く夢から覚めてくれよ」
⸻でも、私の使命は⸻
火炎が迫ってくる。
⸻彼を救うことだから!⸻
凪は青年の体から抜け出した。
衝撃で倒れ込む。
無理矢理引きちぎったせいか痺れている。
悠真が尻もちをついた。
「凪!? なんでお前が、あっ夢だからなんでもありか」
凪は青年の胸ぐらを掴んで、立ち上がらせた。
「立ちなさい。あなたは逃げるのよ」
青年は弱く答える。
「兄さんたちを置いていけない。俺もここで死ぬ」
凪は青年を揺さぶった。青年の帽子がひらりと落ちる。
悠真は息を詰まらせた。
「こいつ。俺と同じ顔…」
⸻くっ、今は彼を助ける方が先!⸻
凪は青年の顔を兄たちに向けた。
「パニックになっている。説得している時間がない」
「それはできない。一緒に日本へ帰ると、約束したんだ」
火の手が早い。もう時間がない。
悠真もパニックになっている。
「後で説明するから、黙ってついてきて!」
凪の手を引っ張って走り出した。
「ああ〜! 兄さ〜ん!」
兄たちが離れていく。
⸻兄さん、ごめん⸻
安全な友軍の陣地。
凪と悠真の姿は、誰にも見えていないようだ。
青年は隅にうずくまって震えている。
兵たちは皆事情を知っているためか、青年に優しい言葉をかけたり、そっとしておく。
悠真はイライラしていた。
「おい! 一体どういうことなんだ!」
⸻もう、隠しておけない⸻
凪は毅然と振り向いた。
「ここは1945年2月のマニラ空襲の再現」
「なんでそんなところに⸻」
凪は堪えながら、青年に歩み寄る。
「待て! 話がまだ終わってない! 俺は何も分からない」
⸻振り向いてはいけない⸻
凪は青年の前で止まった。
「いつまでそうしているつもり?」
青年は顔を上げた。顔に付いたススを落としていなかった。
「あの時、俺は死ぬべきだった。兄さんたちを置いて、自分だけ生き残るなんて」
青年は再び膝に顔を埋めて、体を震わせる。
「日本は今、建国以来最大の危機に陥っている。日本という国を、私たちの代で消滅させるわけにはいかない。兄さんたちも、同じ信念を持っていた、違うの!? あなたは生きて、使命を全うしなければならない!」
凪は青年の顔を上げて、目を合わせた。
「早く兄さんたちの亡骸を探してあげて。⸻あなたを待っているから」
青年の目に灯火が宿った。
兵舎へとかけていく。
「あいつ、行っちまったな」
「…ええ、そうね」
「話してくれ、全てを」
⸻どこまで話せばいいの⸻
凪は天を仰いだ。
「分かった。ただお願い、もう少しだけ時間をちょうだい」
「なぜだ」
「…彼の最後を見届ける義務がある。もう、そんな遠くない」
突如、強風が吹く。
時間が飛ばされていくようだ。
場所も変化していく。
誰かが岩に寄りかかっている。
あの青年だった。
服はズタズタになっていて、手足は骨と皮だった。
周囲に仲間の姿は、なかった。
凪はそっと青年の頬に触れて、目を合わせた。
青年は息も絶え絶えに、言葉を発した。
「…わたしは、使命を、全うしましたか?」
凪は青年に、そっと抱擁をする。
「ええ。あなたの精神力が世界に届き、日本は戦争を、生き残りました」
「よ、かった」
青年は老人のような手で主人公の背を掴んだ。
「な、名前は、なんですか?」
凪は息を吸い込んだ。
「⸻ワルキューレ」
⸻あ。
青年の手は力を失い、崩れ落ちた。
青年の亡骸は光の粒となり霧散した。
一体が夜となる。
巨大な白銀の満月だけが地上を照らす。
音はない。
深い深い森。
清らかで神聖な泉。
散ったはずの光の粒が結晶し始めた。
日本国旗が縫い付けられたボロボロの軍服。
焦げた跡に、破れた服から見える深い傷。
帽子が潰れていて顔がよく見えない。
でも、分かる。
⸻っ!
名前が思い出せない。
「⸻仕方ないよ」
青年はヨレヨレの帽子をとった。
「…やっぱり、俺と同じ顔」
「えっ! あんたまだいたの?」
青年は笑った。
「まさか同じ顔の男が、幼なじみだなんて。俺も驚いた」
悠真は後退りした。
「お前は…おれなのか」
「⸻ちがう」
青年の返答は早かった。
「は、はは。そうだよな。馬鹿だな、俺。自分の夢にマジになって」
「じゃあ君は帰るか? 彼女の真実を知らないまま」
悠真の表情が固まった。
「この深淵に、君と彼女を招待したのは俺だ。こんな冴えない俺でも、一応、冥界の神オーディンの力を授かった精神体。同じ空間で眠りについていれば、君の精神もここに招待できると思って」
青年が一歩進む。砂を踏む音が、悠真に近づく。
「や、やめろ!」
青年は悠真の手を掴んだ。
人の温もりがあった。
しかし脈動が感じられない。
「お前、ゆーれーじゃないのか?」
「まず礼を言わせてくれ。彼女を支えてくれたことを。そうだな、死者ではあるが、君たちの言う幽霊ではない。人格の精神体、と言ったところか」
悠真はその場に座り込んだ。
「よく分からないが。聞いてやる。凪の真実とやらを」
青年もあぐらをかいて座った。
「凪、君も座って。…さて! 悠真君。まず何が聞きたい?」
「…お前、傷はその、いいのか? 痛まないか?」
青年はぷっと吹き出して、大笑いした。
「くっ! 何がおかしい!」
「すまない。真っ先に俺の傷を心配してくれるなんて、思わなかったんだ。…痛むよ、正直」
青年は凪を見た。
うつむくばかりだった。
「…大丈夫、きっと」
悠真はそわそわして落ち着かない。
「なんでお前は、凪の気持ちが分かるみたいに言うんだ?」
「それは、俺が彼女で、彼女が俺だから」
「前世?…いや、じゃあなんで隣に並んで存在しているんだ」
風も音も、助けてはくれなかった。
「⸻彼女は俺から産まれた派生人格。冥界の神オーディンの⸻落胤なんだ」
悠真は吹き出した。
「なんだよそれ!」
震える凪に青年は手を伸ばした。
「おい、触るな!」
青年は悠真に悲しく微笑む。
「触らないよ、できないんだ」
悠真は頭をくしゃくしゃとかく。
「分からな過ぎて、質問なんてねーよ!」
「じゃあ俺が順を追って話そう。それでいいかい?」
悠真はそっぽむいて鼻を鳴らした。
⸻兄さんたちといればどんな困難も乗り越えていける⸻
本当にそう思っていたんだ。
俺たちは近隣の地区で組まれた郷土部隊で、先輩兵は本当の弟のように、俺に接してくれた。
だから正直、これから戦地に行って戦う、なんて実感がわかなかったよ。
訓練を終えて、連隊と合流し、初めて大きな船に乗って日本を出た。
浅瀬しか知らなかった俺は、海の青さに驚いた。身を乗り出して見ていたら、兄さんたちに背中をトンと押されて、落ちそうになったよ。
マニラに着いたのは2月だった。
任務でたまたまマニラに来ていてね。少し観光していこう、ってなったんだ。
日本なら雪がどかどか降る季節なのに、寒さすらない南国の楽園だった。
透き通る海。初めて見たヤシの木。南国の果物は甘くてとろけるようだった。
日本にはない建築物。
まさに東洋の真珠だった。
⸻その時だった⸻
空襲警報とほぼ同時。
物凄い艦砲射撃の音がマニラに轟いた。
炎のまわりが想像以上に早かった。
当時のマニラの市街地は、木造建築も多かったから、火はどんどん街を呑み込んでいったよ。
後は君にも見せた通りだ。
混乱している兄をなだめもせず、へたり込んでいる俺を見ただろう。
火はね、建物だけじゃない。人も燃やすんだ。
生きた人はこうやって焼かれて死ぬんだ、と俺は思った。
⸻俺は、死ぬんだ⸻
英霊になれる誇りなんてなかった。
⸻このまま何も成せず、生きたまま、無意味に焼かれて死ぬ⸻
その時、彼女が現れたんだ。
俺を助け、使命を与えてくれた。
だから俺は、あの世に行くことができたんだ。
全て彼女のおかげなんだ。
悠真が「ふーん」と、納得げに鼻から息をはく。
「死んじまうと、そんな淡々と、自分が死んだ状況を語れちまうもんなのか?」
青年の視線が動いた。
「…人によるよ」
「凪」
悠真が呼び、凪の体が跳ねた。
「こいつの言っていることは本当か?」
青年が遮る。
「本当だ。全て事実だ」
「俺はこいつの声で聞きたいんだ!」
「彼女は全ての記憶を取り戻したばかりで、苦しんでいるんだ。⸻俺が兄」
凪は涙を振って顔を上げた。
「いいの! 私だったの! 私が、私が兄さんたちを殺したの! 説得もせず、逃げ道も示さずに。殺したも同然なのよ!」
青年の手は凪の肩に触れずに、止まった。
「⸻すまない。君に2度も兄さんたちの死を、見せてしまって」
凪はぽたぽた涙を流す。
「ごめんなさい。私のせいで、私が存在しているせいで、あなたはこんな深い傷を負ったまま、主体も奪って、80年も…」
悠真は歯をくいしばって目を逸らす。
「…なんで、お前は傷だらけなんだ」
青年は一呼吸あけて続けた。
あの世に行った俺は、生前知り得なかった全てを悟った。
このまま居れば、俺の傷は全て癒えて来世に行ける。
しかし彼女は、俺の中に確かに存在している彼女は、未熟な精神体として、オーディンの力を失い、俺に吸収される。
悠真は身を乗り出した。
「…吸収されるって、なんだよ!」
青年の瞳は、真っ直ぐ悠真を捉える。
「彼女という存在が消えるんだ。⸻永遠に」
凪は何も言わなかった。
風はない。
生き物の気配もない。
あるのは森と泉と、大きな白銀の満月。
「⸻存在が、永遠に消える」
悠真の声は震えていた。
青年は正座して頷いた。
「俺を救ってくれた彼女が消えるなんて。だから⸻」
悠真は馬鹿したような口調を装っていたが、震えは隠せていなかった。
「その前に、オーディンってなんだ。凪となんの関係があるんだよ。凪は人間だ」
「オーディンは戦と冥界の神。そしてその娘がワルキューレ。オーディンの子種と、俺の人格を母体に生まれたのが、俺の派生人格の、彼女だ」
「…信じられねぇ」
「俺だって、生前だったら信じられなかったよ。彼女は神々の血脈を持つが、人間との子。彼女にはどこにも行く場所がない。だから」
青年は一度まぶたを閉じて、大きく開けた。
「彼女を救う方法はただ一つ。主体人格の俺が代わりに深淵に入り、彼女に主体性と肉体を与えて転生させて、成熟した女性人格にすること。だから俺は傷が癒えないまま、彼女に全てを託して転生した。それが今世の、凪だ」
悠真は安堵したように息をはいた。
「なんだ、驚かせやがって。凪はもう立派な人格だ。永遠に消えるなんて、脅かしやがって」
⸻違うの⸻
青年は慌てた。
「俺が説明する」
⸻私に話させて⸻
青年は帽子を拾って深く被った。
「悠」
「ん?」
いつもの悠真だった。
我が家でくつろいでいるかのような。
「成熟したワルキューレの人格は⸻」
悠真はケラケラ笑っている。
「消えないんだろう?」
「主体性を主人格に戻して、深淵へと戻る」
悠真の表情が固まる。
「来世、その先もずっと。私は誰にも会うことができないの。永遠に⸻」
深い深い森の泉のほとり。
今夜、大きな白銀の満月が照らしているのは二人だけ。
1人はボロボロの軍服をまとった青年。
もう1人は白いワンピースの女の子だった。
「ありがとう! これブランド物だからお小遣いで買えなくて」
凪はひらりと裾を揺らした。
青年は苦笑いをしている。
「同じ白いワンピースあるじゃないか」
凪は頬を膨らませる。
「違いが分からないの? あなた、モテなかったでしょ?」
「心外だな。女性を経験する前に戦死はしたが、それなりに評判は良かったぞ」
凪はストンと座った。
青年の体の傷は深い。
⸻主体はあくまで彼。私は彼の傷も服も治してあげられない⸻
「今は君の夢の中なんだ。自由にしていい」
凪は青年に手のひらを近づけた。
青年も同時に近づける。
しかし触れることはできない。
⸻触れてしまえば⸻
青年は手を引っ込めた。
「だめだ。君はまだ、未熟な人格。俺に吸収される」
⸻いいの。あなたと一つになれれば⸻
「俺は認めない。君を失いたくないんだ」
泉が揺れている。
夢が終わる。
「俺に、日本の未来を見せてくれ!」
凪は思わず笑ってしまった。
「いつもの学校なのに、大げさよ!」
朝日が差す。
終わってしまった。
それでも凪は軽くベッドから降りて身支度を整える。
⸻私が見ているものは、彼も見ている⸻
⸻私の気持ちはいつも、彼に届いている⸻
凪は自分を抱きしめる。
彼が貸してくれた肉体は温かい。
見慣れた部屋すら輝いて見える。
彼がくれた人生。
⸻ありがとう⸻
制服に着替えて、ダイニングで朝ご飯を食べる。
父は仕事へ、母はスーパーでパートをしている。兄弟はいない。
でも、寂しくなかった。
突如、チャイムの連打が始まった。
凪は胸が痛んだ。
母がチラリと見る。
「同じだから、伝えて」
「どうしちゃったの? あなたたち」
「いいの! 気が向かなくなっただけ」
母はため息をついて、しつこい来訪者に告げた。
母が食席に戻る。
「悠君、落ち込んでいたわよ」
父は新聞で顔を隠している。
そういう優しさもある、ということだ。
凪は完食して、食器をキッチンに置いた。
「ごちそうさま。じゃあ行くね」
玄関をそーっと開ける。
右。
左。
胸を撫で下ろした。
「よう! おはよう!」
凪は飛び跳ねた。
扉が開く位置を知っていて、その影に潜んでいたのだ。
次第に待ち伏せの仕方が巧妙になっている。
悠真は歯を見せて笑顔を向ける。
⸻本当に同じ顔⸻
でも私の気持ちは伝わらない。
⸻それが当たり前⸻
別々の人間、だから。
「学校に遅れるから、行こうぜ」
二人で教室に入るが、空気が沈んでいる。
それもそのはずだ。
近頃は別々で登校する日が増えたからだ。
クラスメイトの田中が、周囲にせっつかれている。
もじもじしながら凪の前に立った。
「な、なあ月城。俺なんだ。お前たちが市立植物園に行った話を流したのは。母さんがお前たちを見たって言ったから、あいつらに話しちまって。…ほんと、ごめん!」
「なーんだ、そんなことか」
凪はクスクス笑っている。
「告白されるのかと思っちゃった」
昔の凪なら絶対言えない冗談だった。
⸻彼もきっと笑っている⸻
田中はぽかんとしている。
「全然気にしてないから。本当のことだもん。それに」
凪は一呼吸あけた。
「悠とは、両想いとか、そういうのないから」
教室中の視線が、悠真に注ぐ。
いつも笑いの絶えない彼の周囲は、今だけ氷山の一角のようだった。
チャイムが鳴る。
今日の一限も横山裕先生だ。
夕焼けが教室に注ぐ。
雲の間から見える光が幻想的だ。
⸻ねえ、見てるんでしょ?⸻
答えはない。でも不安もない。
「ちょっと、凪!」美咲だった。
「朝のあれ。さすがに悠真君、可哀想よ」
「別に、ウザくなっただけ」
「うそね」
ずきっと痛む。
「あなたはそんなこと、言う子じゃない」
美咲は凪の手を握った。
「相談乗るから。話せるようになったら話してね。私たち、友達でしょ?」
また明日。そう言って美咲は教室を出て行った。
凪も教室を出る。
悠真はいなかった。
スマホの鳴った。
凪はすぐに画面を切った。
今夜は彼に会えた。
毎晩会えるわけではない。
「君の精神状態とか、疲れにもよるんだ。この泉が教えてくれる」
「泉が?」
水面に映る満月は見事な円だ。
「揺れたり、波紋が広がったりする。そういう時は」
青年は森を指差して一周した。
「この森が泉を護るんだ。この神聖なワルキューレの泉を」
「ふふ。ご本人まで阻むなんて融通の効かない森ね。⸻ねえ、あなたはもし、日本に生きて帰ったら何がしたかった? 将来の夢は?」
青年は不思議そうに見て、微笑んだ。
「君には生前の俺の記憶が、ないもんな」
そう。凪には生前の青年の記憶がない。
彼の名前も。
実家も。
家族も。
兄の名前も顔も。
「俺は農家の長男だから、普通に実家を継いで、嫁さんもらって、子どもつくって。それ以外の将来なんて考えてなかったよ」
青年は満月を見た。
「日本は変わったなー。日本人野球選手がアメリカで大活躍だもんな。俺たちの時代じゃあ考えられない。⸻凪も、夢を考えてもいいんだぞ」
⸻私の考えは筒抜け⸻
「しょうがないよ。俺は君。君は俺なんだから」
「私はあなたの思考、読めないじゃない」
凪は頬を膨らませる。
「今は俺が深淵にいるから、君の思考が読めるんだ」
凪は身を乗り出した。
「じゃあ、あなたに主体を返したら、あなたの思考が分かるのね!」
青年は下を向いて、うなずいた。
「凪、彼にメッセージ返した方がいい」
「…と、突然話題を変えないでよ」
「すまない。俺たちは近すぎるからね」
⸻ワルキューレは純潔の乙女⸻
凪は青年を見つめた。
⸻私が仕えるのはこの人だけ⸻
「彼は君の力になりたいと言った。だから俺は彼もこの深淵に招待したんだ」
青年は焦げた袖口を捲る。火脹れした跡が生々しい。
「俺は死者だ。君の力になれない」
「そんなことない! あなたが存在してくれるだけで、私は力が湧くの」
「それは俺も同じだ。君が消えたら俺は…」
凪が手を向ける。
青年も数ミリ間を開けて手を向けた。
⸻こんなに近いのに、なんて遠いの⸻
凪は涙を拭った。
「彼は知りたがっている。話してあげた方がいい、あのことを」
「⸻そうね」
「確か、榛名湖だったね。悠真君のバイクで行くって。長袖と長ズボンで行くんだよ」
凪は、ふふっと笑った。
「保護者はやめてよね」
水面に波紋が広がる。
朝が来た。
青年は清々しく微笑んだ。
「また、平和な青い空と雲を見せてくれ」
光が広がる。
凪は目を開けてられなかった。
⸻また、終わっちゃった⸻
朝日がキラキラ差し込んでいる。
目を閉じた。
ピチピチと鳥の囀り。
母と父の声。
さらさらと葉の触る音。
毎日同じ、でも美しい。
枕元のスマホを取る。メッセージアプリで返信をした。
サングラスを持ってくればよかった、と思うほど日差しが眩しい。スニーカーとデニムパンツに長袖。
⸻あなたの言う通りにしましたよ⸻
空が青い。
雲が一つ浮かんでいた。
「⸻きれいな空」
悠は愛車W400のスタンドをかけた。
「だろう! 今日は快晴だ、って天気予報で言っていたから、誘ったんだ」
二人でベンチに座った。
隣の悠真を見る。
夏の太陽のせいなのか、瞳が前より輝いている気がする。
⸻彼は知りたがっている。話してあげた方がいい、あのことを⸻
青年は死者なのだ。
悠真の溢れる生命力を感じるたびに、青年はもうこの世に存在しないのだと痛感する。
青年と伴侶になることもできない。
隣にならんで旅行することも、できない。
夢の中でしか、会えないのだ。
「⸻あいつ、元気か?」
凪は目を丸くする。
「なに驚いてんだよ。あいつはお前なんだろ? ついでに心配してやったんだ」
「元気よ」
⸻本当に同じ顔。でも⸻
悠真はドカッと寄りかかって足を組んだ。
「まあ無理もないさ。あんな体験をした後だからな」
「信じてくれるの?」
「信じるもなにも、こうして共通の話題になってるだろう。…ワルキューレか。俺なりに色々調べたよ。幼稚園からずっと一緒だったお前が、突然そんな存在だったなんて、すまんが正直信じられない気持ちもある」
当然の感情だ。
「ただな、俺が知りたかったことを、あいつに聞けなかった。お前にメッセージを送ったけど、その答えは来なかった。だから今、聞くしかない」
凪は拳を握った。
「俺とあいつは、どうして同じ顔なんだ?」
彼らしい直球の質問だ。
だからストレートで返したい。
「偶然」
悠真はぽかんとした。
「そんなはずないだろう! 同じ顔の人間がいるなんて、お前だって見た目は普通で、ワルキューレの人格だって」
「普通で悪かったわね」
「そういう意味じゃないだろう!」
悠真は凪の肩を掴んで、振り向かせた。
「直接言わなかったことは、悪いと思っている。⸻俺はお前が好きだ」
湖畔の人々の声がよく聞こえる。
蝉の鳴き声。
風の音。
全てが脈打ち、生きずいている。
悠真は凪を抱きしめた。
あたたかい。
生きた人間の温もりだ。
「…あなたと彼は関係ない。本当に偶然なの。運命でも何でもない」
悠真は力を込めた。
「分かった。それでもお前への気持ちは変わらない。あいつの存在だって受け入れる、だから」
凪は悠真の背を握った。
「私は彼を愛するワルキューレ。彼を守り、導く存在。そう思い出した。だから、もう」
堪えていたはずの涙が、落ちてしまった。
「あなたの気持ちに、答えることはできない」
悠真はゆっくり凪を離した。
「あいつは死者で、お前は生きている。死んだ人間とは結ばれない」
「ワルキューレは純潔の乙女。⸻私が愛していたのは彼だった。あなたじゃない。ごめんなさい」
悠真はぐっと歯をくいしばり、顔を逸らした。
「⸻帰ろう」
凪は駆けるように自室に籠った。
⸻これでいい。これで⸻
心の中で何度も何度も繰り返す。
母の足音だ。
「ご飯できたわよー!」
「今日はいらないー!」
泣き腫らした顔は見せられない。
母が何か言っているが、父の一言で止まった。
会話は少ないが、凪の気持ちをいつも察してくれるのは父だった。
父と母が食事中に入浴を済ませて、就寝の準備をする。パジャマのボタンを止める手に気合が入る自分に笑ってしまった。
⸻気持ち。そう気持ちを落ち着けて⸻
スマホをつけると、美咲からメッセージが入っていた。
上手くいかなかったことを言うと余計心配させてしまう。
「学校で、話すね、と」画面を消して。部屋の電気も消す。
⸻お願いします。神秘の森。私を通して⸻
名を呼ばれ、目を覚ました。
太陽が眩しい。
田植えの時期の田舎風景が広がっていた。
遠くになだらかな山々が、裾野を広げている。
豊かな緑。
手入れが行き届いた畑もある。
「気に入ってくれた?」
青年が立っていた。
「これ、あなたが?」
青年がはにかみながら、うなずく。
「君が、その、俺と旅行したいって言ったから」
凪は飛びつきそうになるが、空を掴む。
青年は同時に後ろへ跳んだ。
二人は笑った。
風が心地よい。
鳥の声もある。
でも。
「ねぇ、どうして人がいないの?」
「ここはね、君の記憶を元に作った、俺の故郷の風景なんだよ。だから」
「…私の知らない人は再現できない」
青年は困った顔で返事をした。
「実家に案内するよ」
彼の家は、大きな茅葺き屋根の民家だった。
凪は感嘆の声を漏らす。
土間に、囲炉裏。どれもテレビでしか見たことがない。
青年は板張りの居間の端に腰掛けていた。
「座って」
生活感があるのに、人の気配がない。
凪と隣に座った。
「聞いてもいい?」
「なに?」
「その、実家に帰って来た感想は、どう?」
青年は首を横に振った。
「俺の実家は、もう記憶の中にしかないよ。君を責めているんじゃない。ただ君に見せたかったんだ。次行こう」
ゆらりと景色が変わる。
凪は目を凝らした。
「あれ…清水寺?」
日本有数の観光名所が出現した。
伝統的な木造建築が並び、時間は夜に変わった。
提灯にあかりが灯る。
着物を着た現代人が歩いている。
舞子さんまで。
「ねえ、ここって京都、って、え!」
青年は現代人の着物を着ていた。
傷も全くない。
「君の姿も見てみなよ」
白菫色の着物を着ていた。
「君に似合うと思って」
青年は満足げだった。
「ちょっと、こんなことできるなら、なんで今までやらなかったの?」
「まやかしだよ。俺の本質はあの姿のまま。ようは、あの上に、上着を着ているみたいなもんさ。それに」
「それに?」
「君が、帰りたくなくなっちゃう、だろ?」
青年は微笑んだ。
ショーウィンドウに入った菓子を、まじまじと青年は見て、うなる。
「すごいよく再現できてるな」
「修学旅行が京都だったからね」
「だから道はぼやぼやなのに、お菓子は鮮明なのか」
「もー!」
青年は大笑いした。
「夢みたい。あなたとこうして京都を歩けるなんて。って夢の中なのにね」
凪はクスクス笑う。
青年は民家の戸に手をかけた。
「こっちに来て」
青年は戸を開ける。
凪は息を呑んだ。
見事に色づいた紅葉が一面に広がっていた。
床は板張りだが、冷たくない。
床が軋む音まで再現されている。
広い板の間だ。
向こうには廊下も見える。
でも、二人しかいない。
「すごい綺麗。もしかして、私のために?」
青年は視線をずらしてうなずく。
「君の記憶と俺の記憶を混ぜて作ってみた、俺たちだけの空間だ」
青年はあぐらをかいて座る。
凪も座った。
圧巻の紅葉に、言葉が見つからない。
重なり合った紅色の細かな違いも見事で、黄葉や緑の変化、空間の奥行きがどこまでも続いている。
青年は浮かない顔だった。
「俺は、間違えた」
「どうして?」
「こうして、君と過ごしたかったんだ」
「それは私も同じ!」
「君を転生させて、成熟した人格を持たせる。それなのに、こうして俺は君を深淵の世界に、呼び込んでしまっている。君に自立を促そうとしたのに⸻」
青年は拳で腿を叩いた。
「俺の欲望が君の生を阻む。現にこうして、君を戻れないようにしてしまった。それでも⸻」
青年はゆっくり凪へ向き直った。
「⸻君を、誰にも渡したくないと、思ってしまった」
青年の顔に色味がさし、血色が戻った。
視線が交わる。
煌めいていた。
青年は手を伸ばした。
凪も手を伸ばす。
熱さが瞬時に全身をめぐる。
言葉もいらない。
二人は口付けをした。
榛名湖で凪と別れた悠真の胸にあるのは、後悔ばかりだった。
⸻早くはっきり告白していれば良かった⸻
正直、悠真には青年の説明が、分からなかった。
⸻あいつのことを知っているのは、俺だけだと思った⸻
いつもそばにいて、自分のものだと強調していたつもりだった。
悠真は深いため息をつく。
玄関を開けた。
「ただいまー」
ソファーでゲームをしていた弟が、ニヤニヤ見てきた。
「その様子じゃ、凪ちゃんに振られたな」
「小学生に大人の恋愛は早い」
「兄ちゃんだって、大人じゃないだろう。ゲームやんないの?」
これだから小学生は、と呆れた。
「今日はやめとく」
2階の自室のベッドに倒れ込む。
スマホを見るが、凪からの連絡なし。
「ライバルが見えないんじゃなあ…」
また深いため息をつく。
1階の弟の足音が近づく。
「兄ちゃん、ごはん!」
はいよー、と返事をして降りていった。
翌朝。悠真は学校へまっすぐ向かった。
教室が慌ただしい。
戸を開けた。
凪がいない。
凪の友達の里奈が、腫れぼったい目で駆けてきた。
「悠真君大変! 凪が、突然原因不明の昏睡だって! 今、病院に搬送されたって先生が教えてくれて。先生は詳しい状況を、ご家族に聞くそうだから、少し遅れるって、ちょっと、悠真君!」
悠真は既に階段の手前だった。
「わりい! 俺、早退するって伝えてくれ!」
階段を降りながらスマホを取り出す。
⸻おばさん、出てくれよ⸻
呼び出し音が止まった。
「あ、おばさん! 俺だ! どの病院に搬送されたか教えてくれないかな?」
凪は県で1番大きな病院に搬送されていた。受付を済ませて、病室に入る。
眠っている。
そうにしか見えない。
凪の母親が覆い被さるように、大声で泣き伏している。父親は凪の手を握っていた。
「…おばさん」
「悠君!」
半狂乱だった。
「凪はあなたと遊んだ翌朝、目を覚まさなかったの! 何か言ってなかった? 頭が痛いとか、胸が苦しいとか、なんでもいいの! お願い、教えて!」
凪の父親はそっと肩に手を置いた。
「では、その時は異変はなかったんだね?」
「は、はい。何の痛みもうったえてなかったし、いつも通りでした」
「そうか…」
病室の扉が開いた。
看護師が来る。
「状況を説明しますので、ご家族の方はこちらへ来てください」
悠真が1人残った。
⸻痛かったのは、フラれた俺のこころ⸻
全てがつながった。
こころ。
「…お前、聞こえているよな。俺がそっちに行く。それまで何とか堪えてくれ」
凪は変わらず眠り続けている。
その日以来。悠真は2、3時間睡眠を繰り返し、何とか病室で眠れるように努力した。
周囲には試験勉強と言っている。
もっぱら、凪が心配で眠れぬ夜が続いているのだ、というのが通説で、皆憐れな視線を向ける。
コンディションを維持して病室に行くも、親戚やら友人やらが、絶えず面会に訪れていて、タイミングを逃している。
⸻凪。みんなお前を心配しているぞ⸻
また夕暮れになった。
面会時間の終了時刻だ。
悠真は背を丸めて、病室に背を向ける。
凪の父親がいた。
「悠真君か」
「おじさん…」
二人で病室に入った。
面会時間終了が迫っているため、長くは話せない。
「おばさんは、その、どうですか?」
「親戚が来て、家の手伝いをしてくれている」
沈黙が辛い。
「悠真君。君には話そう。しかし他の人にはまだ、決して話さないでくれ。このまま意識が戻らなければ、回復は難しい。そう医師から言われている」
言葉を失った。
「しかしだ。まだ手はあるそうだ。東京に専門の先生がいるから、転院を勧められている。そして」
悠真は唾を呑んだ。
「今、その手続きを進めている。なるべく早く転院できるように、計らってくださっている」
俯いた悠真の肩に、大きくて温かい手が乗った。
「ありがとう悠真君。君は毎日お見舞いに来てくれているそうだね。看護師さんから聞いたよ。しかも誰かが面会中の時は、そっと帰るともね」
「俺はただ、俺にできることが、したいだけです」
悠真は目を合わせられなかった。
「明日だ」
「え?」
「明日だけなら、何とか2人だけの時間をつくってやれる。看護師さんにも伝えてあるから」
悠真の顔が明るくなった。
「あ、ありがとうございます!」
凪の父親は疲労した顔を、綻ばせた。
「何があったのかは聞かないよ。でもね、君なら凪の力になれる、そう思っている」
ポーンと音がなり、面会終了のアナウンスが流れる。
「さあ帰ろう」
悠真は眠り姫の手を握った。
「聞こえただろう。明日、絶対行くからな。凪」
悠真は病室を後にした。
何とか一睡もせず、病室にたどり着くことができた。
⸻今日がラストチャンス。あれからかなり時間が経った。おそらく凪は、深淵世界から出られなくなったんだ⸻
これ以上はもう、眠くて考えられない。
病院に入り、よたよたの文字で名前を書いた。
受付のお姉さんは不安げだ。
「あなた月城さんの、佐藤君よね? ちょっと大丈夫?」
「へ、平気です。早くあいつに会いたくて」
眠くてしょうがないとは、とても言えない。
お姉さんは胸を射たれたような表情だった。
「はい、オーケー。早く行ってあげて」
病室に着き、カーテンも閉めた。
悠真はあいつに言った。
「絶好のコンディションだ。何があったのか教えてく、れ」
悠真は崩れるように眠った。
⸻ドーン!
ぱらぱらと崩れる音で目が覚めた。
泉に森に白い月。
「よし! 着いたぞって、うわっ!」
地面が大きく揺れた。
四つん這いになっていないと、体勢が保てない。
地面が割れて、断層ができた。
揺れが止まらない。
「なんだよこれ…。あっ、おい!」
片手で体を支えて、胸を押さえている青年がいた。
「おい、お前! 大丈夫か? 凪はどこだ?」
青年は無言だった。
悠真は舌打ちした。
「言わないと、わからないだろう!」
青年の体が一瞬透ける。
凪は青年の体の中にいた。
「⸻うそ、だろう」
青年は言葉を発するのも、苦しいようだった。
「…まだ、完全に、…吸収されては、いない」
「でも、これ、かなりやばいんじゃないのか?」
「…ああ、そうだ」
「取り出す方法はないのか?」
「…彼女自身が…目覚めなければ」
青年は倒れ込んだ。
悠真は襟を掴んだ。
「どうしてお前が一緒にいたのに、こんなことになった! 凪の自立を求めていたお前が!」
青年は逸らした目を、真っ直ぐ悠真に向けた。
「君が、彼女に告白した日に、俺は思ったんだ。⸻彼女を、誰にも渡したくない、と。そう想ってしまったんだ。君でさえも…」
「それだけなら、こんな事にはならないはずだ、全てを話せ!」
「…彼女に、口付けをした」
悠真は青ざめてよろめいた。
「口付けー!? 俺だってしたことないだぞ!」
悠真は歯をくいしばった。
「そもそも! お前があんな前世を思い出させなければ、問題なかったんじゃないのか!?」
「…できなかったんだ。耐えることが」
突如、ガラスが割れる音が響いた。
バリバリと耳が痛い。
⸻ガーン!
「⸻月が、壊れた」
宝石が散るように、美しかった。
「…彼女の、自己が、崩れ始めた。この空間も…消え、る」
悠真は青年をおぶった。
「とりあえず、ここを離れるぞ! おっ!」
地面に大穴が空いた。
「…ここに落ちるたら、どうなるんだ?」
「大丈夫、助かる。…君はね」
「どっちに逃げた方がいい」
青年は力無い腕を上げて、森を指した。
「よし! しっかり掴まってろよ!」
大きな根が張り巡らされた、巨大な森だった。人の背など遥かに超える。しかし今はその立派な樹々でさえ、倒れ始めた。
青年は息のない声で言った。
「俺は、あの頃と全く変わってない。大切な人を守れず、自分は結局、誰かの力を借りて助かる。卑怯者で臆病者だ。⸻死者に時は、流れない」
「反省会は後でやってくれ。で、いつまで走ればいいんだ」
「…もう、すぐだ」
⸻あー! お人形さんとらないでよ⸻
凪! でもこれは。
⸻やめろよ! こいつの物なんだから⸻
幼稚園の頃。凪の人形を取ったやつがいたから、俺が奪い返してやったんだ。
⸻ありがとう。ゆうまくん⸻
巨大樹が上から倒れてきた。
悠真はまた走り出した。
映像がまた現れた。
幼稚園で将来の夢を発表する会の日。
凪が立ち上がった。
⸻わたしの、しょうらいの、ゆめは、およめさんに、なることです⸻
また映像が変わる。
小学校。
中学校。
そして高校。
当たり前だったあの日々。
そして。
「で、進路は決めたのか?」
「あなたには関係な、い!」
「あのなぁ、俺はお前を心配して言ってやってるんだ! そんな態度はないだろう」
「あなたに心配してほしいなんて言ってない!」
悠真は止まった。
巨大樹がメキメキ音を立てて、倒れていく。
青年が絶え絶えの声で、言った。
「…そうだよ、か、彼女の夢は、君と…結婚することだった、んだ。⸻君が想う前、ずっと、まえ、から」
映像が変わる。
榛名湖で別れたあの日。
凪は部屋で泣いていた。
⸻これでいい。これで⸻
凪は、心の中で何度も繰り返していた。
⸻こうすれば悠は、私のことを忘れてくれる。今世も、来世も、永遠に。幸せになってね⸻
悠真はそっと青年を下ろして、肩を掴む。
「凪。お前が入院してからな、たくさん見舞いがいたんだぞ。ワルキューレのお前じゃない。凪という存在に」
悠真はゴシゴシ目を拭った。
「お前はこいつのワルキューレ。でもお前に、今、消えて欲しくないやつが、たくさんいるんだ。そいつらを放って、お前はこのまま永遠に消えるのか?」
大地の揺れが、止まった。
「俺は今、凪にいて欲しいんだよ。俺にはお前が必要なんだ。来世会えなくても、お前は存在する。消えるわけじゃない。こいつの中で生き続ける。俺にはそれで十分だ。⸻俺は、お前を愛している」
大地がきらめく。
光の粒が、空にのぼっていく。
白銀の満月が戻った。
「わたしでいいの?」
悠真の横に立っていた。
「あなただけを愛しきれない、こんな女で」
悠真は凪を抱きしめた。
涙が確かに、凪の服を濡らす。
「何度も言わせるなよ」
凪はふふっと笑う。
「もう一度だけ聞かせて」
悠真は腕に力を込めた。
⸻愛している。
凪の回復は医師も唸り、原因も何故回復したのかも分からないまま、退院となった。
悠真と二人でいたタイミングで目覚めたため、クラスでは「愛の力」ということになっている。二人は笑った。
今日も一緒に登校する。
進路希望を提出する日だからか、互いの志望校や就職の話で盛り上がっている。
凪が着席すると、優奈たちが集まって来た。
「ねえ、今日が最終日だけど、進路決めた?」
凪は頬を染めた。
「就職しようと思ってる。市内の事務系で、パートもできるところ」
皆、笑みを交わす。
美咲はウインクした。
「その時は、呼んでね」
「だから、気が早いって!」
ドッと笑いが起こった。
ふわりと止まって、地に足をつけた。
立っていたのは、1人の女性だった。
深い夜空に浮かぶのは、白銀の満月のみ。
森は風も、音もない。
あるのは清らかな泉。
満月が水面に映る。
反射した光の粒が、かたちをなす。
ボロボロの軍服をまとった青年だった。
青年は帽子をとって微笑む。
女性は駆け寄り、青年は受け止めた。
時はない。
彼らにはもう必要ないのだ。
女性は泉へと歩を進める。
そして両手を上げた。
泉が眩い光を放ち、結集していく。
ワルキューレの剣。
戦士を導く戦乙女の剣。
女性は剣を掲げた。
夜があけた。
まばゆい太陽が、水々しい森を照らす。
鳥の囀り。
風のざわめき。
太陽のきらめきが、白亜の大宮殿をつくった。
宮殿正面の、白く輝く道の先には、階段が見える。
青年は進んだ。
真っ直ぐ、未来へ。
女性は青年が階段を登り終えるまで、見守った。
宮殿に向かう。
輝くワルキューレの剣と共に。
扉がゆっくりと、閉ざされた。




