50.
夜の風が、焦げた金属の匂いを運んでいた。焼け焦げた地面の熱がまだ残る非常口を、三つの影が駆け抜ける。
「…もうすぐ、外だ」
レンの声はかすれていた。殴り合ったばかりの拳は裂け、血が滴っている。だがそんな痛みさえ、彼にとっては些細なことだった。サラが、ここにいる。自分の腕の中に――無事で。
「……サラ、大丈夫?」
抱えた体は軽く、けれど確かな重みがあった。彼女の指先が、そっとレンの服の裾を掴んでいる。それだけで、レンは何度も息を詰めそうになった。
「うん。ごめん、でも……まだ、足が……」
「いいよ、歩かなくていい。僕が連れてく」
いつもよりも、優しい声。いつもよりも、強くて、真っ直ぐな足取り。その後ろを、少し小さな足音が追う。
「母さん…もうすぐ外なんだよね……?」
タクミが小さくつぶやいた。返事は、サラの震える笑顔。
「うん…行こう。外に……三人で」
暗いトンネルの先に、わずかな光が差し込んだ。レンは最後の一歩を踏み出し、サラを抱いたまま、タクミと共に夜空の下へと出る――広がる闇の中に、ひとつの影が立っていた。背の高い男、無骨なシルエット。その手には銃。けれど、構えていない。
「……遅ぇぞ、坊主」
「シュウジおじちゃん!」
タクミが叫びながら駆け寄ると、シュウジは小さくため息を吐いて、ぽん、とタクミの頭に手を置いた。
「母さんは?」
「……無事。レンが、助けてくれたの」
その言葉に、シュウジはサラを見る。酷く消耗している。目の下に隈、血の気のない顔、それでも彼女は――微笑んだ。
「…心配、かけちゃったね。ありがとう、来てくれて」
「…あぁ。お前が帰ってこなかったら、俺が研究都市ごと爆破するつもりだった」
「それは……ちょっと怖いな」
かすれた声で笑うサラに、シュウジはようやくわずかに口角を上げた。そして、その隣に立つ男――レンの目を見て、静かに頷いた。
「よくやったな、レン」
「……うん。でも、まだ終わってない」
夜空に、ぼうっと広がる赤い煙。崩れかけた都市の残響。
すべてが終わったようで、まだ始まったばかりのようでもある。
「帰ろう、サラ。今度こそ、本当に……一緒に」
レンの腕の中で、サラはそっと目を閉じた。その頬に流れた涙が、もう痛みではないことを、誰よりもレンが知っていた。
廃ビルの一室。割れた窓から入り込む風が、薄汚れたカーテンをふわりと揺らす。夜の帳が降りるころ、薄闇のなかでサラはじっと膝を抱えていた。
その腕には、ほんのりと赤みを帯びた痕が残っている。交配体に引き倒され、上に乗られた。確かに体を触られたが、皮膚だけだ。だがそれだけで、身体は自分のものじゃなくなったような気がしてならなかった。
「……寒い?」
不意に差し出されたブランケット。レンが、無表情で立っていた。いつものように淡々と、だがほんの僅かに目元が揺れているように見えるのは、気のせいだろうか。
「ありがとう……でも、平気」
かすれた声で答えると、レンは少しだけ間をおいて、ブランケットをサラの肩にかけた。強引ではない。ただ、いつものように勝手に決めたというだけだった。
「僕が、もっと早く駆けつけていれば…」
そう呟いたレンの手が、ほんの少し震えていた。サラは彼の手を見つめる。血の匂いがまだ落ちきらないその指先。都市から逃れる際、レンは文字通り道を切り開いた。生身で、素手で。彼を止められる者はいなかった。
「間に合ってくれて、ありがとう」
サラの声に、レンは目を伏せた。照明のない室内で、金色の瞳だけがわずかに光を帯びる。
「……サラは、僕が来るって信じてた?」
「信じてた」
即答だった。なぜなら、あの時――冷たい床に縫い付けられ、白い天井を見上げながら、もう駄目かもしれないと思ったその時。レンが来る。そう思った。だから、今ここにいる。
「…僕は、怒ってる」
ぽつりと、レンが呟いた。
「サラを……汚したやつらを、殺しても足りないくらい、怒ってる」
「レン…っ、でも私は、何もされてないから」
思わず口走った。そう、未遂だった。肌を触られただけ、拘束されただけ、まだ、あの境界線は越えていない。でもそれでも、恐ろしかった。身体が自分のものじゃないみたいで、指一本すら動かすのが怖くて、閉じ込められていた自分の存在ごと、汚されてしまったような――そんな気がして、吐き気がした。
「…それでも」
レンはサラをじっと見た。瞳の奥に、感情の波が微かに揺れている。
「サラが怖がったなら、それだけで十分。僕は許さない」
静かな声だった。でも、底冷えするような怒りが確かにあった。
「…昔聞いた話しだが」
背後から聞こえた声に、サラは振り返る。
無骨な青年――シュウジが、煙草を片手に壁に背を預けていた。火はついていない。
「未遂ってのは、されなかったことの証明にならねぇんだってな。された側の傷は、いつだって結果じゃなく過程でできるもんだ」
彼は、サラを見ていた。でもその瞳には、怒りでも哀れみでもなく、ただ理解があった。
「…あいつらの情報、整理してやる。どこに逃げても、追いつけるようにな」
「…ありがとう、シュウジさん」
「礼はいい。…その代わり、しっかり食え。お前が倒れたら、あいつが暴れる。面倒なんだ」
呆れたようにそう言って、部屋の隅にあったスープ缶を投げてよこす。サラは受け取り、小さく笑った。少しだけ、ほんの少しだけ、身体があたたかくなった気がした。
「母さん!僕も頑張ったんだよ!」
「ふふ、ありがとう。頼もしいわ」
タクミの頭を撫でる。心の底から、戻れたんだと実感した瞬間だった。
その夜――サラは、レンの隣で眠った。彼の腕の中。血のにおい、体温、全てがまだ生々しい。だけど、今だけは、安堵があった。
レンは眠っていない。金の瞳で、外を見ている。誰も近づかせないように。彼の腕は、静かに、しかし強くサラを抱いていた。
――もう誰にも触れさせない。
その誓いのように。
「レン」
私はレンに口付けた。突然の私からのキスに、いつも飄々としている彼が完全に固まっていた。
「え、サラ?君キスが...」
「ふふ、レンとなら、いいよ」
二人の距離はゆっくり近づき、そして一つになった。
終わり
長らくお付き合いいただき、ありがとうございました!!
これにてレンとサラの話は終わります。
なかなか大変な道のりでしたが、レンもすこーーーーし人間味が出てきたんじゃないかと思います。
かなり特殊な設定でしたので、読んでもらって嬉しいです!
では、また違うお話でお会いしましょう!!
sheeela




