49.
3人が逃亡した後の崩壊した施設内。崩れた壁の奥、まだ意識を保っていたナシフが、ふらりと立ち上がろうとした。血に染まった白衣は引き裂かれ、骨が見える裂傷。それでも、どこか誇らしげに、笑っていた。
血が流れていた。規則正しく、清潔に整えられた観測室の床を、赤黒い血液が染め上げていく。機材の明滅、残響する警報音。焼け焦げた電子回路の匂いと、鉄錆の臭いが混ざっていた。
「……フ、は……」
ナシフは笑った。喉から漏れたそれは、呼気か笑い声かすら曖昧なほど弱々しい。胸部をえぐられ、肋骨の間から覗く内臓が、冷気に晒されていた。
それでも彼は、這っていた。片手は血に塗れ、もう片方は機材の方へと――ただ一心に、引きずるようにして。
レンに斬られた。獣のような咆哮と共に放たれた一撃は、かつて彼が創り出した“実験体”とは思えないほどに、激情に満ちていた。怒りでもなければ、恨みでもない。
――「僕のサラに、触れた」
ただ、その一言のために。
「やはり…失敗だったな……」
ナシフは、床に膝をついたまま、目の前のモニターを見上げた。液晶の中では、“彼女”の現在位置が点滅している。
生命反応はある。生きている。
(……良かった)
安堵が、喉奥から零れた。
(僕は……彼女を守ろうとしていた。なのに……)
指先が、カチリとキーを押す。画面には文字列が現れる。
「観察:個体R.E.N./09 終了手続き進行中」
「最終判定を入力してください」
ナシフは、もう片方の手を胸の傷口に当てた。肺が焼け付くように痛む。肋骨の一部が折れて、内臓を穿っているのだろう。
(レン……お前は、変わったな)
思い出すのは、まだ小さかった頃の彼。孤児院から引き抜かれ、冷たいラボの中で、それでもナシフだけには懐いていた。笑ったこともあった。真似をして字を書いたり、誕生日に小さな石ころを渡してきたり。感情を持たないはずの被験体が、心を模倣しようとしていた。
(お前は…サラに出会って、心を得た。僕は……ただ、見ていた。すべてを、外から……)
そうしてナシフは、サラに触れた。研究者としてではなく、ひとりの人間として。だが、あの瞳に映るのは、常に誰かを守ろうとする者だった。
(僕は、違った。……ただ、欲しかった)
静かに、キーボードにもう一つ、打ち込む。
『観察者コード:N-00 任務終了』
「…はは……これで、僕は……自由、だな」
血を吐きながら、モニターに手を伸ばす。あと、ひとつ。ただ、“最終判定”を入力すれば、全てが終わる。
“被験体R.E.N./09、廃棄対象とする”
その選択肢が、点滅していた。
だが――ナシフの手は、止まった。
(お前を、壊すことは……できない…サラが、お前を選んだのなら)
それが、ナシフにできる、最初で最後の“赦し”だった。
「……ずるいな、あなたは」
呻くように呟きながら、別のキーを押す。
『最終判定:対象、観察終了/再評価推奨』
それは、生かす選択。そして、自らの観察者としての否定。観察とは、神にも似た行為だった。記録し、評価し、裁く者。だが今この瞬間、ナシフはその役目を、自らの手で手放した。
ふ、と全身の力が抜ける。倒れ込んだ体を、冷たい床が受け止める。
「……サラ……あなたには……触れたかった、だけなんだ」
誰もいない部屋に、届くことのない声が漂う。
「君の体じゃない……君の心に、だ」
喉から血が上がる。それでもナシフの目は、わずかに笑っていた。
「……もう……いい……疲れたよ……」
静かに、モニターの光が彼の顔を照らし続けた。
そして――その光すらも、数分後には、自動的に落ちた。
ナシフの記録は、そこを最後に途絶える。冷徹な観察者は最期に、科学者でも、研究者でもなく、ただひとりの男として、命を終えたのだった。




