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45.

ピ、と短く電子音が鳴る。部屋のロックが、今しがた解除された。私はベッドの上で身体をこわばらせたまま、微動だにせずに耳を澄ました。だが、何の警報も、人の足音も聞こえない。


(どういうこと……?)


この数日間、私は飼われていた。観察室という名の檻の中で、清潔な部屋、穏やかな光に包まれながら。

ナシフの目。

狂気を孕んだ、けれどどこか美しさを崇拝するような静かな視線。言葉少なく、触れることもせず、それでも「見つめられている」ことだけが、恐怖だった。


そんな中――唐突に与えられた「自由」。私は直感で察した。これは偶然じゃない。罠か、もしくは、何かが起こっている。


ベッドを抜け出し、扉の外をのぞく。誰もいない。その静けさが逆に、背筋を冷たく這い上がらせた。思い切って一歩、二歩と足を踏み出す。同じように、周囲の部屋の扉もすべて開いていた。まるで――「出ろ」と言わんばかりに。


(いましかない……!)


裸足で廊下を駆け出す。とにかく外へ。レンやタクミの元へ戻るために。


――だが、異変はすぐにやってきた。


後ろで何かが動いた音がした。それは、重たい何かが床を叩くような、湿った足音。振り返った私の目に飛び込んできたのは、


一体の男――だった。


…いや、それは、ヒトの形をした何かだった。


白化した皮膚、淡く染まった髪。細身でしなやかな肢体。その顔は、酷くレンに似ていた。けれど、その目は――縦に割れた、感情のない蛇の目。


「対象……確認。交配プロトコル、起動します」


低く、合成音のような声。私は一歩、後ずさった。男は、静かに笑った。


「やっと会えた……ね、サラ。僕は、君に会うために、生まれたんだよ」


その下腹部が異常に膨らんでいた。人工的に肥大化された器官。生殖のためだけに設計された機械仕掛けの交配体。


「君を孕ませるための、完璧な個体。ナシフがそう言ってた。サラは特別だから。誰の種でも、受け入れるわけじゃないって」


私の背筋が凍りつく。脚がすくみそうになるのを、無理やり動かして駆け出した。


「だめだよ、逃げちゃ。僕の身体、もう“熱”くなってるんだ……。君を見たから。見つけたから。交配プログラム、起動済みなんだよ……っ!」


廊下に、甲高く足音が響く。追いかけてくる。あの異様な存在が、血走った眼で、笑いながら、追ってくる。


「サラ!待ってよ……!抱きしめるだけだから、最初は優しくするから……!!」


恐怖で喉が詰まり、私は声にならない悲鳴をあげる。逃げなきゃ。でも――足りない。息が足りない。この廊下はどこまでも無機質で、出口なんて存在しない牢獄だった。


「孕ませることが、僕の存在理由なんだ。だからお願いだよ、サラ……止まってよ。ねぇ、君が拒んでも、僕の身体は止まれないよ……?」


まるで、レンの声だった。

まるで、レンの顔だった。

でも――それはレンじゃない。

その差が、サラの心を完全に引き裂いた。


(レン……助けて……)


心の中で、名を呼ぶ。遠くにいるはずの、絶対の味方。けれどその想いは、廊下の奥に虚しく吸い込まれていく。後ろから、白い手が伸びる。冷たい空気とともに、サラの髪が微かに引かれた。――その瞬間、サラの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


誰もいない。

誰も来ない。

このまま、穢されるのか。


「いや、いや……やだ……っ!!」


その叫びすら、白い廊下にかき消されていった。


(ダメ……速い……)


私は、喉が焼けるほど息を吐きながら走った。痛む足、震える膝、ぼやける視界。それでも止まらなかった。止まれば、何かが壊れる気がした。


だが。


次の瞬間、背中に冷たいものが触れた。――引きずり倒された。


「っ――!」


背中を強く打ち、頭が床にぶつかる。視界が白く弾けた。その間に、交配個体は彼女に覆いかぶさっていた。目の前の男型は喉を鳴らし、私の姿を認識すると――にたりと笑った。


冷たい床に、倒れ込んだ私の肩が震えていた。呼吸がうまくできない。喉がひゅうひゅうと鳴る。逃げても逃げても終わらない夢――いや、これは現実。


「……ねぇ、サラ」


レンの声だった。けれどそれは、似ているだけの異物。


「君と重なれば、全部終わる。そうしたら……僕は、本物になれるんだよ」


その言葉と同時に――服が裂ける音が響いた。襟元から胸元まで一気に引き裂かれ、柔らかな肌が露わになる。私は息を呑み、身を捩るも、力では敵わない。


「プログラム、起動……交配シーケンス、開始」


「やだ、やだ、やだやだやだ……やめて……っ!!」


冷たい指先が肌を撫でる。太ももが開かれ、腰が引き寄せられ――。


「……君には、触らせないよ」


静かに、しかし確かに、彼の声がした。


交配個体の動きが止まる。


振り返ったそこにいたのは――白く染まったレン、R-13。


その瞳は静かだった。怒りも、憎しみもなかった。あるのはただ、深い慈しみと、哀しみ。


「……君は、サラに触れてはいけない」


次の瞬間、R-13は交配個体の首元に手をかけ、そのまま壁に叩きつけた。


「今のうちに、逃げて」


優しく、背中で言いながら。私は震える手が床を這い、足に力が戻る。


「……いや、だめ、あなたも来て……!!」


そう叫ぼうとした瞬間――交配個体が、暴走を開始した。


「――警告。抑制不能状態。交配プログラム暴走」


筋肉が膨張し、肉体が裂け、背中から管のような器官が伸び、私を認識するたびに獣のような咆哮をあげる。その肉塊の中に、R-13は押し込められるように包まれていった。


「逃げて!!」


叫ぶ私に、R-13は、微笑んだ。ほんの少し――たったそれだけ。でもその笑みは、サラがかつて見た本物のレンと、そっくりだった。


「…これで、僕にも…意味が、あったんだね…」


交配個体の咆哮が響いた。その場が、真っ赤に染まる。


爆発的な熱量と音。

肉が裂け、骨が砕ける音が、廊下に響き渡る。


私は、涙で歪んだ視界の中、崩れ落ちていく白い影を見ていた。彼の名前は、なかった。彼の命に、価値もなかった。でも最後に――彼は“サラ”を選んだ。


(――ありがとう)


私の心の中で、誰にも届かぬ声が零れた。


――廊下には、肉の塊と、白い残滓だけが残された。


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