44.
白い月が、灰色の天蓋の上にかろうじて浮かんでいた。研究都市の外郭、モニターがいくつも設置された簡易指令所の中央で、シュウジは無言でデータを並べていた。その表情には一切の揺らぎもなく、まるで自動演算機のように冷徹な目をしている。だが、その背後――そこに立つ男は、今にも獣のように飛びかかりそうな目で、すべてを睨み据えていた。
「……まだなの、シュウジ」
レンの声は低く抑えられていたが、その一語一語に噛み殺した苛立ちが滲んでいた。背後にいたタクミが、少しだけ身を縮める。シュウジは背を向けたまま、応答した。
「早ければそれだけ危険も増す。こちらの命を無駄にするのは、あの女の本意じゃない」
その言葉に、レンは奥歯をきしませた。
「知ってる…っ。でも!でも、ーーサラが…」
言いかけて、唇を噛んだ。自分が受けてきた実験の数々。あの無慈悲な台詞、痛み。心を削るような屈辱。それらを、彼女が味わっているかもしれない。想像するだけで、頭が焼けそうだった。
「…ああ、もう…今すぐにでも行って、全部壊しちゃいたいよ…」
拳を握りしめる音が聞こえた。その肩を、シュウジはぴたりと睨むように横目で見た。
「怒りに身を任せて突入して死にに行くなら、一人で行け。奴らの拠点は迎撃ありきで作られてる。適切なタイミングを待つ。それが最善だ。冷静になれ、レン」
その言葉を、レンは理解している。理解しているからこそ、怒りが消化されず、心の内でどす黒く渦巻いていく。怒りと焦りを抱えながら、何度も深く息を吐く。けれど、胸に染みついた焦燥感は拭えない。
ーーそれでも、時は過ぎた。何度も地図を確認し、敵のセキュリティルートを洗い出し、監視ドローンの死角と施設側の警戒の呼吸を見極める。
そして――5日目の夜。ようやく、全ての計算に「勝算」が見えた。指令台の前に立ったシュウジが、ようやく口を開いた。
「決めた。突入は明日の午前3時。セキュリティの巡回が切れ、監視の切り替わる僅かな4分間。あそこなら、こちらが気配を感知されずに中枢区画へ入れる。これは確実に仕留めるための唯一の穴だ。逃すなよ、レン」
その言葉に、レンの金の瞳が、猛獣のように光を宿した。
「…わかってるよ。絶対に、サラを連れ戻す」
横で拳を握るタクミの目にも、同じ光が宿っていた。小さな肩を震わせながら、それでも彼は立っていた。
「僕も行く……母さんは、僕が……!」
レンはその言葉に、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけその目を和らげて、頷いた。
突入まであと数時間。彼らの中にあったのは――怒り。悔しさ。焦り。そして、ただひとつの願い。
「――待っててサラ。絶対に助けに行くから」
ーーー
午前2時45分。空は深い墨色に沈み、研究都市の外縁は風さえも凍てつく静寂に包まれていた。簡易の待機シェルター内。赤く光る作戦タイマーが、無慈悲なまでに時を刻んでいた。
残り――15分。
レンは壁に背を預けて、黙ったまま目を閉じていた。微かに震える指先を、意識して止める。血が沸騰しそうなほどの怒りと、焦りが胸を焼いていた。横ではタクミが小さく息を吸い、吐く。その姿は小さくても、その眼差しには――もはや子どもの影はなかった。対面の席で、シュウジが最後の確認を始める。
「突入ルート、再確認するぞ。正門ルートは囮。セキュリティ死角から侵入、目標は中枢区画・実験棟第3ブロック。主な敵は実働部隊・白装束の機動兵。数は不明だが、戦闘想定は最上位。接近戦ではレン、制圧は俺。タクミは補助、判断は任せる」
レンは目を開けた。いつもより、すこしだけ優しげな声で。
「…シュウジ、ありがと。君がいなきゃ、僕きっと……全てを失っていたかもしれない」
「よせ。そう言うことは全て終わってからにしろ」
「ふふ。わかった」
タクミも拳を握る。
「僕も、行く。…母さんは、絶対、ここにいないとダメなんだ」
沈黙。
シュウジは二人の目を、じっと見てから頷いた。
「じゃあ、行くぞ。……時間だ」
午前2時59分。指令端末の表示が「ACCESS WINDOW:OPEN」に切り替わった瞬間、彼らは一斉に立ち上がった。
「突入、開始」
誰の声だったのか分からない。ただその一言が、凍てついた空気を裂き、彼らの身体を戦場へと駆り立てた。
月明かりのない夜に、三つの影が音もなく、研究都市へと滑り込んだ。それは、聖域を奪われた者たちの、逆襲の始まりだった。




