43.
あの日――白いレンに抱きしめられたあの日、私は気を失った。彼の温度。彼の声。それはレンと同じはずなのに、私の身体は、限界までこわばって、意識を手放していた。
最後に聞いたのは、誰かの怒号とも取れる機械的な音声。R-13が――私を放したくないと、抵抗していた気がする。
次に目を覚ましたとき、私はもう、あの白い無機質な部屋にはいなかった。天井は、やわらかな光を反射していた。
シーツは洗いたての香りがして、頬に触れる空気も温かい。窓はないが、壁際には観葉植物がひとつ、控えめに緑を揺らしていた。ベッドの足元には、小さな木製の棚。白と木目を基調にした可愛らしい家具。
だけどその中で、壁の一角――観察用の黒いガラス窓だけが、この空間が依然として牢獄であることを主張していた。
「……ここは、何?」
声はかすれていた。でも誰も返事はしなかった。代わりに、わずかに空気が動く。誰かが――こちらを見ている気配。
たぶん、ナシフだ。そう確信できた。
彼はすぐには姿を見せなかった。でも、何度目かの食事の後、ついに現れた。無表情。白衣。いつものように、感情を表に出さない顔。でも――その目が、初めて会った時とは、まるで違っていた。冷静で、淡々としていたはずのその瞳に、今は熱のようなものがある。小さな感情。じわじわと染み出すような、確かな“欲が宿っているようだった。
ーー思わず私は、身を引いた。条件反射のように。
ナシフは何も言わなかった。けれどその無言が、何よりも怖かった。日が経つにつれて、彼は私に何も強要しないのに、気配だけが濃くなっていくようだった。
起床すればすでに監視されていて、食事中も会話はなく、でも視線はずっと追ってくる。就寝の前には、部屋に香が焚かれる。微かに甘い香り――リラックス成分、と説明されたけれど。その香りが、私はなぜか、逃げられない支配の匂いに感じられた。
(…逃げられない。ここは優しさを模した檻だ)
(外の世界と違って、安全かもしれない。でも、ここに私の自由はない)
白いレンとは、あれから一度も会っていない。彼がどこにいるのかも、何をされているのかも分からない。でも――代わりに、彼の気配が常にまとわりついている。ナシフ。研究者。支配者。観察者。そして今、欲望に堕ちかけた、ひとりの男。
ーー気がつけば、あの日から五日が過ぎていた。レンと別れてから、たった五日間。けれど、この空間では永遠にも感じられた。
静かすぎる時間。
満ちすぎた気配。
そして、私を食べ尽くすようなまなざし。
ーーその足音は、ほとんど聞こえなかった。空気の動きでしか察知できないほど、静かな気配。でも、それが彼だと、すぐに分かった。私は目を閉じたまま、呼吸を整える。心臓が早鐘を打っているのを、必死に押し殺しながら――寝たふりを、続ける。
気配が近づいた。ベッドのすぐ脇まで。ぴたり、とそこで止まり、長い沈黙のあと、かすかに息が触れるほどの距離で――彼が、呟いた。
「……君は、どうして……そんなにも、美しいのか」
空気が震える。その声には、これまでの彼にはなかった温度があった。まるで、自分でも制御できないものに困惑しているような、それでいて、その熱に抗えずにいるような。
「分析も、理屈も…何の役にも立たない。君を構成する要素を数値化しても……この感情には届かない」
足音が、すこしだけ動いた。ベッドの頭側、私の髪に近づく。息が、また触れそうになった。
「恐ろしい存在だ……君は。母胎として、実験個体として――すべての条件を満たしているのに、僕が君に触れられない理由は、どこにもないはずなのに…」
もう触られる、そう思えるくらい近くにナシフの存在を感じた。
「それでも、どうしてか…この手を伸ばすたびに、僕自身が壊れてしまいそうになる」
沈黙。
私は、息を殺して、動かない。けれど、その沈黙の中に、彼の激しい呼吸が混ざった。
「君は、僕の論理を狂わせる。こんなもの…ただの器に感じるはずがない」
最後の言葉は、かすれていた。まるで、喉の奥から絞り出すように。そして――その気配は、ふっと消えた。まるで最初から、何もなかったかのように。
私は、目を閉じたまま、震えていた。寒いわけじゃない。ただ――
(こんなにも渇いた執着を、私の前で囁かないで。私には…レンしかいらない)
この部屋は、たしかにあたたかい。
でも、心が凍えていくばかりだった。




