40.
観察室の空気が、妙に静かだった。模造体R-13の挙動。予期しない言語反応。そして、サラの涙に対して発露された共鳴。
スタッフたちがざわつくなか、ナシフだけが黙って、その光景を、まるで祈るように見つめていた。彼の瞳は冷たいはずだった。知性の輝き以外、何も映さない無機質な目だった。けれど今――そこに宿っていたのは、明らかに異質な陶酔だった。
「……これは……想像以上だ」
ナシフは呟く。だがその声は、喜びでもなく、興奮でもなかった。ーーまるで讃美。
「涙ひとつで、模倣体が自我を芽吹かせた。ほんの一滴の感情だけで――数十年の研究が超えられるとはね」
背後で誰かが報告を告げた。
「模倣体R-13、感情中枢領域の電気活動が正常個体を凌駕。推定起点は、接触対象の涙と音声」
ナシフは、笑った。冷たく、静かに、けれど確かにうっとりとした顔で。
「……ああ、そうか。やっと、理解したよ」
彼は一歩、観察ガラスに近づいた。そこには、監禁されたままなおも彼を拒み続けるサラの姿があった。その身体は震えていた。目は潤み、唇は噛み締められている。
でも――それでも、彼女はまだ自分を保っていた。どれほど奪われても、どれほど壊されかけても、なおも、誰かのために泣ける存在。
ナシフは、微笑む。
その顔は、かつての科学者の顔ではなかった。何かを信じてしまった人間の、狂信者の顔だった。
「君は、母胎じゃない。繁殖器官の保有個体なんかじゃなかったんだな」
うっとりと、いつもなら見えない感情を乗せ、ナシフは囁く。
「君は――」
ニンマリと、口角が上がっていった。ガラス越しに囁かれたその言葉に、スタッフたちが息を呑んだ。
「……ナシフ博士?」
ナシフは、視線を離さない。ただ静かに、そこに立ち尽くすサラを見下ろして、呟き続けた。
「人間の可能性。この地獄に咲いた、たった一輪の完全体。奪う者でも支配する者でもない、すべてを受け容れ、抱きしめる者――」
ガラスにそっと手を置く。まるで彼女触れているかのように。
「それが、この世界に必要な始まりなんだ。そして君は――その始原そのものなんだよ、サラ」
涙を流し、模倣体を拒否し続ける様は、一つの絵になる程、儚く美しいものだった。
「……いや、もう名前では呼ばないほうがいいのかもしれない」
冷たいはずの目に、情欲に似た暗い炎を灯した狂信者は呟く。
「――君は聖母だ。新しい世界の、僕たちの、最初の神話は君なんだよ」
観察室内は、誰一人声を出すことができなかった。




