38.
息を吸うのが怖い――そう思ったのは、いつぶりだっただろうか。視界に映るのは、真っ白な天井。壁も、床も、天井も、どこまでも無機質で、どこまでも清潔。汚れひとつないその空間が、どこよりも汚れていると、肌で感じる。
私は、冷たい検査台の上に寝かされていた。手足に拘束はない。でも、それよりも恐ろしいのは、抵抗すれば誰かが代わりに痛むという、絶対の圧力だった。
「ホルモン数値、目標値まであと3.5%」
「脳波、部分的変動あり――ストレス耐性に影響なしと判断」
静脈に投与されたホルモン剤は、体内でじわじわと作用していた。脈拍、体温、子宮の状態。全てが交配可能という、人工的な理想値に調整されていく。
「生体反応、収束範囲に到達。母胎への適合処理、完了です」
ナシフの声が、静かにスピーカーから降ってきた。
「君は今、最も理想的な状態にある。君自身が何を思おうと、身体は未来を受け入れる構えを取っている」
「……黙ってて」
サラは、寝台の上で呟いた。
「…それ以上、私を数字で語らないで」
周囲に立ち並ぶ白衣の研究員たちが、次々に数値を読み上げていく。彼らは人間ではなかった。少なくとも、私にはそう見えなかった。ただ機械的に、記録を取る装置たち。
「ホルモン値、若干の変動……情緒系に微弱な反応。恐怖か、怒りか」
スピーカーからナシフの冷たい声が、絶えず私の今の体の状況を読み上げる。次第に自分が人間じゃない、機械なのかと錯覚してしまうほどに。
「……うるさい」
思わず漏れた言葉だった。でも、それを言った直後に、罰が来るのではという恐怖が、胸にわずかな痺れのように広がった。
だが、誰も何も反応しなかった。
「君の意思が観測に影響を与えることはありません。身体は、正直です。拒んでいるのは思考だけ。生体は、すでに未来を迎える準備が整っている」
もう言い返すことも疲れた。その時だった。
「――脳波パターンに異常」
その瞬間、私の全身に鋭い痛みが走った。
「……っ……ぐ、あ……あああっ……!」
体が、内側から軋むように熱くなった。胸の奥が焼かれるような感覚。皮膚が薄くなり、神経のひとつひとつが剥き出しになるような――
拒絶反応。
「心拍上昇!内分泌系に急激な変動!」
「脳波パターン、急落!ノルアドレナリンが異常放出状態!」
血管が破裂するかと思うほどの激しい脈動。体が交配に適応しようとしたその瞬間、私の心と身体が――「NO」と叫んだのだ。
「強制ホルモン調整、打ち切り!鎮静剤を――!」
もがく体を、研究員たちは機械的に見つめていた。私は全身を震わせながら、視界の奥がにじんでいくのを感じた。そのとき。ナシフの声が重なる。
「待て、この反応――対象刺激による補正が可能かもしれない。Specimen R-13、導入を提案する」
「止めて……やめてぇ……!」
いまだかつて味わったことがない苦しみ。全身が千切れてしまうのではないか、私はこのまま死んでしまうのではないか。混乱しかない中、ナシフの冷静な声がするりと耳に入った。模倣体を、呼ぶの?
「反応の異常性、予測外ではない。生体に対する心理的制御因子の導入を開始する」
ナシフが口にしたのは、まるで冷静な救急処置のような言葉。数秒後、金属のドアが音もなく開いた。
足音ひとつしない。空気が、一段と冷たくなる。
そして、そこに現れたのは――
金色の瞳。まっすぐな輪郭の顔。首筋にかかる、見慣れた髪型――
「……レン……?」
反射のように名前が漏れた。けれど次の瞬間、その目が空洞であることに気づいて、全身の血が凍った。
それは彼ではなかった。
皮膚の色は異様なほど白く、髪は色素を失ったような薄い銀――私自身の白化した肌と同じ色だった。まるで私と融合するように作られたレンだった。
一瞬、息が止まった。
違う――これはレンじゃない。表情は同じ。髪型も、体格も、声すらもレンに似せている。その歩き方すら――レンと同じだった。静かで、無駄がなく、どこか怯えさせないように気遣った動き。
それが逆に、私の神経を逆撫でした。
その目は――空っぽだった。レンそっくりの、金色に輝く瞳は、焦点が合っているようで、合っていない。誰かを見ているのではない。自分がそう振る舞うように設計されたというだけの動作。
「ヒッ…こないで…やめて……ッ!」
私の声は震えていた。体を起こそうとするも、まだ筋肉は痛みに痺れていた。
それでも、模倣体はまっすぐ私のほうへと歩いてくる。足取りはゆっくりと、そして異様に穏やかだった。彼は、私の前で静かに膝をついた。無言のまま、私の手に、そっと頬を寄せる。
その動きが、あまりにも――優しかった。
「っ……!!やめて……ッ!!」
私はその手を振り払おうとした。けれど、模倣体の指が、私の手首をそっと掴んだ。
力はない。
でも、離させない意思の模倣がそこにあった。
「Specimen R-13、接触による対象安定を確認。拒絶反応、脈拍値と神経応答にて鎮静傾向」
ナシフの声が、記録を淡々と読み上げる。
「やはり。君の脳は、本物ではなくとも触れてくれる誰かを求めている。偽りでさえ、脳は受け入れる――感情とは、かくも脆弱で、観測に適している」
私は、目の前のそれを見つめていた。レンの顔。でも、その微笑みは――レンが絶対に見せない種類の微笑だった。空っぽの、温度のない、ただそう設計されただけの――仮面のような笑顔。
「……っ……ちがう……それじゃない……」
声が掠れていく。
「…あの人は……こんなふうに、私に……触れない……」
そして、そのとき。模倣体が小さく、口を開いた。その声は――レンそっくりの音で、こう囁いた。
「……君のことが、好きだよ」
「――――――ッ!!!」
その瞬間、私の中で何かが壊れる音がした。
涙が、勝手にこぼれた。それは恐怖でも、怒りでもない。ただ――心が否定された音だった。
R-13 白いレン




