35.
朝の空気は張りつめていた。灰色に濁った雲が空を覆い、時折ビルの隙間を縫って吹き抜ける風が、都市の死のにおいを運んでくる。
眼前に広がるのは、かつての研究都市。巨大な外壁に囲まれたその姿は、もはや都市というより巨大な実験体のようだった。
私は壁の向こうを見つめながら、小さく息を呑む。
「……こんな場所に、私たちが入っていくのね?」
「入らないと、終われないからね」
隣でレンが囁いた声は静かだった。けれど、その奥に眠る緊張は隠しきれない。
壁の隙間から内部へと進入する。道は荒れ、あちこちに瓦礫や車両の残骸が散らばっているが――不気味なことに、それらは妙に整っていた。
「僕が先に行くよ」
レンが前に出る。黒髪が風にたなびき、その瞳は真っ直ぐ都市の奥を見据えていた。
「ここは、僕の生まれた場所みたいなもんだから。少し、勝手がわかる気がする」
都市の内部は、予想以上に綺麗だった。崩れかけた建物もあれば、風に吹き飛ばされた看板もある。だが――血痕は消えている。死体はない。雑草もない。
「……誰かが手入れしてる?」
私が思わず口にすると、レンが首を横に振る。
「違う。これは掃除されてるんじゃない。自然に朽ちていくことすら、拒まれてるだけだよ」
「どういうことだ?」
「この都市には、崩壊を防ぐための維持機能がある。たぶん、まだ生きてる。断末魔の中でも、命令だけは守り続けてるんだよ」
その時だった。
カシンッ――。
一瞬、耳に金属の擦れるような音が響いた。続けて、周囲の高層ビルの壁面に埋め込まれたセンサーが、淡く赤く光を灯す。
「セキュリティ、まだ生きてる……!?」
私が声をあげると同時に、レンが素早く手を振り上げる。
「伏せて!!」
バチンッ!
電撃のような何かが空気を裂き、目の前の地面が弾け飛んだ。防衛機構が生きている――それはつまり、敵意に反応する都市そのものが意思を持つような状態だった。
「……こいつら、外の人間にはまだ排除命令が出てるってことか」
「でも、俺たちを撃ち殺すほどの力じゃない。牽制だ」
レンとシュウジが瞬時に分析する。私はその間にも、タクミを覆い隠すように抱きしめていた。
都市の中心部へ進むほど、センサーの密度は増し、廃棄されたはずのドローンが、カタカタと音を立てて空中を浮遊している。しかし――それらは、レンの姿を見て一瞬、挙動を止めた。まるで彼を識別しているかのように。
「コードがまだ生きてる?僕のデータ、消されてないのかな?」
レンの声には、少しだけ懐かしさすら混じっていた。この場所が彼の生きていた檻なら――ここで終わらせる覚悟も、また、彼の中にはあった。
ーー次の瞬間、私の足元でカチリという音が鳴った。
「っ!!」
反射的に私は身を引く。直後、足元の舗装された道に沿って、淡い光が走る。そのラインは、彼らの動きに反応するかのように、ゆっくりと周囲に展開していく。
そして――
《侵入者識別》
《外部ユニット:不明個体3・登録済個体1・幼体1》
《制御コアへ報告中……》
金属音のような、無感情な女の声が辺りに響いた。
「識別システム?」
私は震える声で言う。登録済個体、それは間違いなくレンのことだった。
「まだログが残ってるってことか。僕が被検体だった記録も、全部……」
レンは静かに言った。声は震えていなかった。でも、その瞳の奥は確かに揺れていた。
突然、上空を何かが通過する音がした。振り向くと、ドローンのような無人機が一機、彼らの頭上を旋回していた。
《Specimen R-09――再起動検知》
《特別観察ルート起動》
《Welcome back…》
「……歓迎されたら、余計に気持ち悪いね」
レンが自嘲気味に言うと、私はすっと手を取った。
「大丈夫、あなたは一人じゃない。みんな一緒にいるんだから」
その言葉に、レンの瞳が揺れる。でも、すぐに小さくうなずいて、再び前へと歩みを進める。
都市は静かだった。けれどその静けさに、死はなかった。無数の監視装置が作動し、過去に行われたすべての実験の記録が、どこかで眠っている。
そしてその中心に、今も何かが、彼らの到来を待っている――そんな気配があった。
ーーー
私たちは都市の第2ゲートを越えた。そこは、廃墟となった通路の先に広がる、地下通路へのアクセスハッチ。外側からは封鎖されていたが、レンが近づいた瞬間にロック音が外れた。
《アクセス認証:Specimen R-09》
《通路開放》
《……ようこそ、僕の実験場へ》
「……っ、今の声!」
私は身を強ばらせる。それは、明らかにただの自動音声ではなかった。声に感情が混ざっていたのだ。無機質なAIとは違う、どこか人間の――それも、冷酷な観察者の意志。
「……ナシフだ」
レンの瞳が揺れる。だが、その揺れは怒りでも恐怖でもない。もっと冷たい、沈んだ深淵の色だった。
「まさか、アイツが……まだ、生きてるとはね」
ナシフ・アル=メム。
かつて、レンを道具として生み出した研究者。彼は単なる科学者ではなかった。理性に仮面をかぶせた独裁者だった。
《記録を開始――Specimen R-09、行動観察ログ更新中》
《観察対象:対象-02、および対象-03も随時評価対象に含む》
《選択を迫る条件、順次発動》
「選択を……迫る?」
シュウジが顔をしかめる。
「……あの男のやり方だ。命を握るんじゃない、心を試すんだよ。選択を与えて、どちらを選んでも自分の研究材料になるように誘導する」
レンの言葉に、私はタクミを抱き寄せる腕に力を込める。
「最低……!」
「でも、それがナシフなんだ。あの人にとって、僕たちは生きてる検体だった。今も、それは変わってない」
突然、上方の壁面に設置されたディスプレイがちらついた。そして現れたのは――かつてレンが見た時より少し老けた、あの顔。白衣を着たまま、カメラの前に座る初老の男。冷ややかで、どこか神父めいた静けさを帯びた瞳。
《久しいな、R-09。成長したな。……これは観察の甲斐があったというものだ》
その映像は録画か、あるいは高度な音声生成AIか。だが、そこに宿る知性は紛れもなくナシフのものだった。
《今のお前が、どんな選択をするのか……非常に楽しみだ。女と子ども、どちらを残す? それとも――どちらも壊すか?》
「……っ!」
ディスプレイが消える。
「……全部、仕組まれてるってことか」
「いいや、レン。これからが本番だ」
シュウジが銃を構える。
「あの男が何を仕込んでようが、こっちは感情で動く人間だ。計算通りには動かせねぇよ」
レンは小さく笑った。それは、都市にいた頃の彼では決してできなかった表情だった。
「そうだね。僕はもう観察される側じゃない。選ばされるんじゃなくて、選ぶ側になるんだから」
ナシフの残した檻。それは、今もなお観察を続ける神の目。だが――レンは、そこに真正面から踏み込んだ。
その先に待つのが、破滅か、希望か。
どちらにせよ、それを自分の意思で掴む覚悟は、もうできていた。
ナシフ




