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34.

それまで吹いていた風が、ぴたりと止まる。ただそこに、かつて世界を支配していた人間の傲慢が、都市の姿として静かに横たわっていた。


「……あれが、研究都市」


レンの声は低く、淡々としていた。でも私にはわかった。彼が、今、必死に何かを飲み込んでいることに。


「普通に見える、けど」


タクミが呟く。


都市の外観は、廃墟としては整いすぎていた。高く伸びる壁。警備塔。整然と並ぶ遮蔽ゲート。すべてが、何もなかったかのように無表情だった。


「中は普通じゃないよ」


レンが、静かに言った。


「僕が逃げたとき、中は崩壊しかけてた。警報が鳴って、廊下には血が流れてて、壁が焼け焦げて、人が、逃げてるのか、暴れてるのかもわからなかった」


私は息を呑んだ。


「逃げた…?」


「うん」


レンは遠くを見つめながら、淡々と続けた。


「僕は実験対象だったらしいけど……同時に、失敗作でもあった。安定性がない、感情の起伏が異常値、制御困難――処分対象候補だったんだって」


「……っ」


「でも、僕が逃げた日。他の被検体が暴走した。研究者が内部から施設を封鎖しようとして、でも間に合わなかったんだ。だから僕は壁を壊して出た。自分の力で。壊して、走って、血を流して、息も絶え絶えで」


タクミがそっとレンの袖を掴んだ。


「……怖かった?」


「怖くなかったって言えば、嘘になるよ」


レンは初めて、ほんの少し笑った。けれどその笑みはひどく寂しげだった。


「でも、僕は……あそこにいたら、死ぬことさえできなかったと思う。生かされて、調べられて、壊されて……何も感じなくなるまで、使われ続けるだけだった」


「…………」


シュウジは黙っていた。その目には、深い哀しみと、理解のようなものが揺れていた。彼も知っている。軍時代、研究都市に出入りしていた頃、死より酷い生があることを。


「俺は一度だけ中に入ったが……あそこは、生き物のいる場所じゃなかった。あれは都市なんかじゃない。人体工場だ」


「そして、僕はその製品」


粗悪品だけどね。レンの言葉に、誰もすぐに言葉を返せなかった。ただ、私はゆっくり歩み寄って、その細い肩に手を置く。


「あなたは物でも製品でもないわ。今のあなたは誰のものでもない。ここに来たのも、あなた自身の意思よね?」


「うん」


レンは頷いた。


「今度は、壊されるために来たんじゃない。君たちを守るために、終わらせに来たんだよ」


私は、ぎゅっとレンの手を握る。


「今のあなたは一人じゃない。何かあったらみんなで逃げましょう?」


「うん。...ありがとう」


その一言には、確かに温度があった。


都市の影が揺れる。どこからか、かすかに軋むような音が風に乗って聞こえてくる。かつて、命が実験され、壊された場所。そこへ、今――命を抱えた者たちが、自らの足で踏み込もうとしていた。


終わらせるために。

そして、生きる意味を証明するために。




ーーー




(レン視点)


がらんとした部屋。

鉄製の壁に囲まれた小さな空間。

点滴スタンドの滴る音。

遠くで、子供の泣き声。

何かが焼けるようなにおい。

そして――男の声。


Specimen(被検体)/R-E-N(アール イー エヌ)09。適応率、維持範囲。強化経過、観察続行」


冷たい、無機質な声。その声が聞こえるたび、レンの意識は沈む。息が詰まる。がんじがらめの過去が、今でも喉元を締め上げてくるようだった。


「やめてよ……もう、そういうの、いらないのに」


夢の中のレンはそう言う。でも、声は止まらない。焼けただれた誰かの手が、足首を掴んで引きずり戻す。誰かが、レンを「標本」に戻そうとする。名前なんて、まだ持っていなかった頃の自分に――。


レンは目を覚ました。夢の余韻が、まだ残っている。鼓膜にこびりつくような声と、あの鉄臭い空気。けれど目の前にあるのは、闇に包まれた穏やかな部屋。ぬるい吐息。二人の寝息。生の音。そっと肩を起こすと、隣で眠っていたスノウの瞼が、薄く開かれた。


「……どうしたの?」


スノウの声は眠気にくぐもっていたが、どこか優しくて、レンの名を呼ばなくても、確かに彼だけに向けられている。


「…ごめん。起こした?」


「ううん……」


スノウは、上体を半分だけ起こした。レンの輪郭が月明かりに浮かぶ。少しだけ汗ばんだ額。何かから逃れてきたような、怯えた瞳。


「……何かあった?」


「うん。ちょっと、昔のこと思い出してただけ」


レンは目をそらした。指先を、そっと掛け布団の上で動かす。何かをなぞるように、記憶を押し戻すように。スノウはその様子を、黙って見つめていた。問いたださない。詮索もしない。ただ、寄り添うように――。しばらくの沈黙のあと、レンがぽつりと呟いた。


「僕のこと、怖くならない?」


「……どうして?」


「だってさ、僕って君のこととなるとすぐ手が出ちゃうんだ。君がやめてって言うのに」


「...そうね」


「それに、全部治ってるんだ。あんなに撃たれたのに。でも、夢は…治らないんだ。ずっと、そこにある。スノウに触れてるときだけ、消える気がするのに」


言葉の最後は、小さく震えていた。ふだんのレンからは想像できないほど、弱くて、儚い。スノウは迷わなかった。伸ばした手で、レンの額に触れる。汗を拭うでもなく、ただ、そこにある体温を確かめるように。


「大丈夫。…怖くないよ。痛かったね、レン。……ずっと、痛かったんだね」


その一言で、レンの肩がかすかに揺れた。涙は流れない。けれど、胸の中に渦巻いていた感情が、少しずつほどけていく。


「……スノウ」


呼んだ名は、かすれていた。それでも、スノウは笑って「ん?」と答える。


「スノウがいてくれて、よかった」


「私もだよ。……私も、あなたがいてくれてよかった」


ほんの短い沈黙。けれど、夜の静寂をふたりの呼吸が優しくつないでいた。レンは再び横になる。彼女の手を、自分の胸元に抱えるようにして。


――夢はまた、見るだろう。


でも今夜は、この体温がきっと、それを遠ざけてくれる。


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