33.
乾いた風が、蔦の絡まった古びた扉をくぐり抜ける。朽ちた看板には「第二総合医療研究センター」の文字。その下半分は風雨で剥がれ、読み取れなくなっていた。
「…ここ、病院?」
私はマスク越しにぽつりと呟いた。足元にはひび割れたタイル、壁には錆びた掲示板。
「ちょっと不気味だけど……使えるもの、ありそう」
包帯、薬、注射器、滅菌ガーゼ。医療施設は、終末世界ではなによりの宝の山だ。私の声には、どこか前向きな希望すら滲んでいた。
タクミと二人で過ごしていた頃、時々廃病院を見つけては、使えそうな医療材料をいただいてきた。中には、意外な掘り出し物があることも。
「入ってみる?」
レンの言葉に、私はすぐに同意した。
シュウジは入り口で見張りに残り、タクミは私の手をぎゅっと握って離れない。
「大丈夫、すぐ戻るからね」
私が微笑むと、タクミはこくんと頷いた。その横で、レンは無言のまま歩き出す。彼の足取りは迷いなく、それでいてどこか慎重だった。
中は意外にも当時の面影を残していた。イスや剥がれた壁が、通路に転がってはいるが、わりと中へ入っていける。
「診察室、薬局、処置室……ここ、一部はまだ形が残ってる」
だいたいどこ医療施設も、間取りや配置に大きな違いはない。私はひとつひとつ扉を開け、棚を漁りながら呟いた。
「あ、滅菌ガーゼ!しかも未開封」
滅菌状態が破綻しているかどうかなんて、その保管環境を見れば一目瞭然だが、それでもキレイに使えるガーゼ類は貴重だ。
「冷蔵庫には…さすがに薬品はダメか。全部劣化してる」
そんな中、レンだけが、違う場所を見ていた。
彼が立ち止まったのは、奥の廊下。壁が焼け焦げ、床には崩れた金属ラック。その先には――分厚いガラス窓で仕切られた観察室、のような跡。割れた観察窓の向こう、拘束具の残ったベッド、剥がれかけたモニター、吊るされた点滴スタンド。そして床の隅には、溶けかけた白衣と、何かを引きずったような黒い跡。
「……ここ、何?」
私はレンの後ろから声をかける。
「治療?……違うか、なんか、もっと……実験?」
レンは何も答えない。ただ、ガラスの向こうを凝視していた。
「前にも、見た。……この景色」
ようやく口を開いた彼の声は、異様に冷静だった。
「ガラスの向こうで泣いてる子がいて、でも誰も止めなかった。叫んでも、暴れても、薬で黙らせて……僕も、ずっと、それを見てた気がする」
私は言葉を失った。それは明らかに、彼の過去の断片だった。何かをされていた、過去の記憶。
「けど…どうして思い出せなのかな。どうして僕は、そこにいた気がするだけなんだろう……」
ずっとその不気味な部屋から視線を逸らさないまま、レンの口からは、ポツポツと言葉が滑り落ちるようだった。冷たい、無機質な空間が、レンの記憶を静かに呼び起こしていた。
やがて、足元の残骸の中から、私は一冊のファイルを見つけた。黄ばんだ紙に、判読不能な医療用語が並ぶ中、一行だけ、焼け残った単語があった。
Specimen R-E-N / 01
「……“Specimen”、標本……?R、E、N...」
口の中で転がすように、私は小さく呟いた。
「…レン、って、読めるよね…?」
偶然にしては、あまりにも出来すぎていた。
背筋を冷たいものが這い上がる。さっきまで笑っていた青年――少しずつだが、やっと人間らしく笑えるようになった彼が、もしも本当に、標本としてこんな施設に存在していたのだとしたら――
「まさか……」
私の喉がひくりと動く。でもそのとき、背後からレンの声が静かに届いた。
「……何してるの?」
振り向いた私の手元には、まだファイルがあった。レンはそれをちらと見るなり、数秒だけ視線を落とし――そして無感情に、いつものトーンで言った。
「それ、見覚えがある」
私は大きく目を見開いた。
⸻(レン視点)
「……え?」
スノウがこちらを振り返る。その顔には、驚きと、戸惑いと――少しの痛みが浮かんでいた。
でも、僕はそれをどう受け取ればいいのか、よくわからなかった。だから、ただ事実を言うみたいに、続けた。
「施設にいたとき、ファイルとかモニターによく書いてあったんだ。R、E、Nって。英語の記号みたいに、たくさん」
もうほとんど思い出せないけど、記憶にこびりつくように残っていた光景だった。
「名前じゃなかったんだけどね。でも、外に出たとき――初めて、人に聞かれたの。君の名前は?って」
僕は笑ってみせた。たぶん、こういうときは笑うのが正しいって、前に誰かが言ってた。
「……僕、困っちゃって。知らなかったから。僕、名前って持ってなかったからね。あ、整理番号?みたいなのはあったかな。ほら、白い奴らが言ってたR-09ってやつ。でも、それが名前じゃないってことくらいは、僕もわかってた」
もう古すぎてあんまり思い出せないけど、何となくスノウには言いたくなった。
「RENってよく見てたし……それで、そう答えたんだ。レンって」
サラが何かを言いかけて、それを飲み込んだ。僕は、ファイルの文字を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「ほんとは、ただの番号。標本番号、ってやつ。でもね、それしか知らなかったんだ。僕が僕だって思える唯一のものだったから、…それを、僕が勝手に“名前”にしたの」
⸻(サラ視点)
レンは依然として、奇妙な笑みを浮かべながらとんでもないことを言い始めた。
名前がなかった。
私は、その言葉の意味が、全然理解できなかった。自分が生まれ育ったこの国で、同じ国内で、こんな非人道的な実験が行われていたという事実が、信じられなかった。いや、信じたくなかった。
「変なのかな?でも、誰もくれなかったから。僕が、僕にあげてもいいでしょ?」
その声には、どこか無邪気さがあった。でも、凍えるような寂しさがにじんでいた。
「だから、スノウがレンって呼んでくれるとね、僕、ちゃんとここにいるって気がするんだ。ここに、僕がいるんだって」
レンは、ふわりと笑った。それは、貼り付けた様なものではなく、彼の本当の感情の発露。
「それだけで、もう十分かなって思ってるよ。僕」
ふとしたように、レンは言った。何の重みもないみたいに。まるで、天気の話でもするみたいに――
でも、その言葉が胸の奥に突き刺さった。
「……十分」――って、なんだろう。
何が? 誰にとって?
彼は、自分にそう言い聞かせるように笑っていた。優しい顔だった。
けれど、どこか置き去りにされた子どもみたいに見えた。
私は、言葉が出なかった。
喉が詰まって、なぜか涙がにじみそうになった。
「それだけで」――私が、ここにいて、名前を呼んで、ただそれだけ。
それだけで、彼は「十分」だと言った。
それ以上、望んじゃいけないとでもいうみたいに。他に何も求めないから、これだけは――って。
それは、何ももらえずに育った人の、諦めにも似た願い。
「レン……」
震える声で名前を呼んで、私はそっと彼の手に自分の指を重ねた。細くて、冷たくて、どこか傷だらけのその手。でも、名前を持って、自分の意思でここにいる――そんなふうに思えて、泣きそうになった。
「十分じゃ、ないよ」
それだけ、ぽつりと呟いた。彼のためか、自分のためかもわからなかった。
でも、伝えたかった。
あなたには、もっとあっていい。十分なんかで終わらせないで。あなたには、生きて、笑って、愛される価値があるんだって。
そしてもう一度、彼の名を呼ぶ。
「レン」
ただそれだけで、彼の表情がほんの少しやわらいだ気がした。




