32.
曇天の下、廃れたモールの裏口が、軋む音とともにゆっくりと開く。静寂――その先に広がるのは、瓦礫と枯れ果てた道路。命の気配は希薄で、風が吹き抜けるたびに、どこかで看板が鳴いた。
最初に歩き出したのは、レンだった。黒い服の裾が風に揺れ、淡く金色の瞳が、まっすぐに遠くを見据える。背中は無言のまま、ただ――何かに導かれるように。
そのすぐ後ろを、タクミが歩いていた。リュックはやや重く、細い腕には荷が大きい。でも彼の足取りは真っ直ぐだった。彼の目は、もうただの子どものものではない。
モールの最後の夜、あの金色の光を放った少年の、覚悟がそこにある。
「……本当に行くのね」
最後に残った私が、ゆっくりとモールを振り返る。灰色の空の下に沈む、静かな巨大な影。そこには、苦しみも安堵も、死も、ささやかな日常も――全部詰まっていた。
そして、静かに扉が閉まる音が響く。
「どうした、未練か?」
横からそう尋ねたのは、シュウジだった。大きなバッグを肩にかけ、銃を背負ったその姿はまるで旅人。
「……ううん」
私は微笑んだ。
「ここは生き延びる場所だった。でも…これからは、生きる場所を探したい」
「……いい答えだ」
そう呟いて、シュウジも歩き出す。
「スノウ?」
先頭にいたはずのレンが、なぜか私の隣にいる。相変わらず、何考えているかわからない笑みを浮かべ、私を見下ろしていた。
「歩けないの?連れてってあげようか?」
「大丈夫よレン、行こう」
シュウジとタクミは、もうだいぶ前に進んでいる。少し遅れて、私も追うようにその背に続く。私の隣を歩くレンは、指を絡めて手を繋いできた。
見上げると、満足そうな笑顔。
「スノウは、やっぱり僕がいないとダメなんだねぇ」
そんなことはないと思うが、なんだか喜んでいるのでそのままにしておいた。
四人の足音が、朽ちたアスファルトの上に刻まれていく。向かう先は、かつて世界の希望と謳われた、研究都市の跡地。そこに何があるのかは、誰もわからない。けれど、それぞれの過去と答えが、そこにあることだけは確かだった。
この旅は、生き残った者たちが、自分自身と向き合うための旅だった――。
ーーー
「研究都市跡地は、この場所から約50kmほどのところにある。だが、道は損傷が激しく、通行に適さない場所がほとんどであることを考え、実際の移動距離はその倍はあると思っておいたほうがいいだろう」
シュウジは、古い地図を見せながら説明した。
100km...それは途方もない数字のように感じた。小さな子どもが、そんな距離を果たして歩けるのだろうか...
私の胸に大きく不安が広がる。そんな私を気遣ってか、シュウジは「だから」と話しを続けた。
「一日の移動は10km程度、これくらいならタクミも問題なく歩けるはずだ」
「まぁ急ぐ旅でもないしね」
二人は、何て事ないように言う。その気遣いに、胸がいっぱいになった。ただでさえ、私は女でタクミは子ども。足手纏いにしかならないにも関わらず、イヤミの一つも言わない。
「ありがとう」
シュウジは片手を軽く上げ、レンはにっこり笑っていた。
ーーー
瓦礫を越え、時には地下道へ、時には廃ビルの影に隠れて進む旅。食料も水も乏しく、眠れぬ夜も多かった。
タクミが熱を出して立ち止まった日もあれば、酸性雨を避けて一晩を廃ビルで過ごした日もあった。
だが、全員が一度も引き返そうとは言わなかった。
森を越え、朽ちた町を縫うように進んだ五日目の午後。廃屋の裏に身を寄せ、シュウジが地図を広げていた。
「この先のルート、やっぱりここを通るしかないな。崩壊区域を避けるには……」
レンは静かに頷き、タクミの手を引く私を一瞥した。
私はいつものようにフードを深く被り、白い肌も髪も、その輪郭すら見せていない。
「休憩にしよう」
「うん…」
廃屋の影に身を寄せたその瞬間、風の向こうから音がした。
踏みしめる草の音。
くぐもった笑い声。
「……誰だ」
シュウジが立ち上がった瞬間、数人の男たちが姿を現した。
ボロをまとい、顔を汚し、刃物を手にした連中。だがなにより異様だったのは――その目だった。
「よう。お前ら、何してんだ?」
「……通ってるだけだよ」
レンが即答した。声は低く、冷ややか。
だが、男たちはそのまま視線をふらふらと彷徨わせていた。やがて、その中の一人が、私の後ろに隠れていたタクミに目を留める。
「お。……ガキか?」
私はすぐにタクミを後ろの隠した。だが、男はにやりと笑う。
「そのガキでいい。なあ、おとなしくこっち来い」
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべ、汚い手を伸ばしてきた。
いやだ、いやだ、いやだ!
「やめて!」
私は叫んでしまった。その声はあまりに女だった。
更に魔の悪いことに、ふいに風が吹きフードがはらりと落ちた。
白い髪、透けるような肌、美しい輪郭。
一瞬、時間が止まった。
次の瞬間、男たちの目がぎらついた。
「……っ、てめぇ……!女じゃねぇかッ!!」
「本物だ……本物の女だぞ!!」
「こんなやつ隠してたのかよぉ!!」
私は息を呑み、タクミを抱き寄せて後ずさる。刃物を持った手が、一斉に私へと向かって伸びた。
「近寄らないで……いやっ……!!」
「おいでって言ってんだよ、ねえちゃん」
「ガキも一緒抱いてやる。全員でなぁ?」
私の腕が震えた。そのときだった――
「僕のものに触らないでね、殺すよ」
聞き慣れた、静かな声。
視線を向けた瞬間、レンがいた。金の双眸が、縦に裂けていた。
男たちは一瞬怯んだが、笑い出した。
「なんだ?お前もキレイな顔してんなぁ!」
「兄ちゃんも一緒に遊んでやろうか!?」
「面白ぇ!やってみな!!」
――レンは、笑っていた。楽しそうに。
「君たち、手を伸ばす方向、間違えてるよ」
次の瞬間、風が切られた。最も近くにいた男の喉元が、何かに裂かれたように開いた。声も出せず、膝から崩れ落ちる。
「っ、殺せ!!あいつを殺せ!!」
叫んだ男が振り上げたナイフごと、腕が逆方向に折れた。肉の音、骨の悲鳴。レンは顔を傾けながら、指先で首を撫でるようにし――バキィと、音を立てて命を止めた。
残りの男たちは、逃げることもできず、蹂躙された。一人ずつ、無表情に、残酷に、丁寧に。それは、怒りではなかった。ただ、奪われたくないという執着だけだった。
「……怪我、してない?」
血まみれのまま、レンが私に問いかけた。私は肩で息をし、目を見開いていた。
「…な、なんで……」
「だって、君とタクミに触ろうとした。壊して当然でしょ?」
レンは、笑った。
まるで、子どものように無邪気に。
私はその場に座り込んでいた。目の前で繰り広げられた力と怒りと執着に、言葉を失っていた。
縦割れの瞳はまだ狂気を宿していたが、表情は無表情だった。
「僕、君たちを守れたかな?」
その声だけが、やけに優しく響いた。
私は何も言えず、ただ頷いた。
彼にとって、私持ち物などではなかった。ただ、世界の中で唯一、壊れてほしくないものだった。
その夜、四人は誰も言葉を交わさず、廃集落のはずれで、火も焚かずに静かに夜を越した。
シュウジは目を伏せ、タクミは私に寄り添って眠った。レンだけが、空を見ていた。
誰よりも、満たされた顔で。




