31.
ザッ……ザッ……。
布の擦れる音、ジッパーの開閉、荷物を詰める無駄のない動き。そのすべてが、無言のまま進んでいた。
「……長くは持たない。やつらは一度退いたが、再編してくる」
シュウジは静かに言い、バックパックに必要物品を詰める。部屋の片隅。私は手慣れた動作で衣類と食料をリュックに詰めながら、心だけが妙に静かだった。
あれからタクミの症状は嘘の様に治った。それがあまりにも不気味で、いつ症状が悪化するかわからない。私たちは急いで出発の準備をすることにした。
レンは弾痕の残る腕をかばいながらも、黙々とナイフを巻き布に包んでいる。
シュウジは銃器の点検を終え、すでに背負う準備を済ませていた。
そしてタクミは、私の隣で膝をつき、小さな水筒に水を注いでいた。
この沈黙は、平和じゃない。――決別のための静寂だった。
「……母さん、これで全部」
タクミが顔を上げて言った。その目は、もう昔のように頼りなげではなかった。
「うん。ありがとう、タクミ」
私は彼の頭を撫でて、再び背中のリュックに手をかける。
ーーその時だった。
「あれ…?」
ふと、扉の向こうから誰かの声がした。振り向くと、廊下の影に、数人の住人たちが立ち止まってこちらを見ていた。
声をかけたのは、中年の男性。手には食糧庫から持ってきた缶詰が握られていた。
「なにしてんだ……?」
その声が、合図のようだった。
あちこちの部屋から、扉がわずかに開く音。誰もがさりげなく、でも明らかにこちらの動きを見ていた。そっと耳を澄ますと、ひそひそとした声が漏れ聞こえてくる。
「出ていくのか…」
「やっぱり……」
「レンが動いてる…ってことは……」
わかっていた。だけど、信じたくなかった。
私はそっとタクミの手を取る。そして無言のまま、レンを見る。
「逃げるんですか?」
誰かが、尋ねた。
「逃げる。ここはもう、安息の地じゃない」
シュウジは言葉を返した。その言葉に、皆が一様に押し黙る。だが誰も反対しない。モールが安息だったのは、レンが暴力で抑えつけていたから。そして、その秩序が外に知られてしまった今、それは同時に、彼らを焼き尽くす火種にもなった。
「……どうする?」
私のその問いに、レンは一瞬、遠くの廊下を睨んだ。
沈黙。
その金色の目が、夜の中でわずかに光った。
「……まだ話しかけてこないね。――今のうちに出ようか」
レンの言葉にシュウジが無言で頷き、扉の前に立つ。
ーー視線が集まる。
声が、どこからか漏れた。
「…置いていくのか?」
「なんで黙って……」
「連れて行ってくれよ……!」
足音がひとつ、またひとつと、こちらに駆け寄ってきた。私はリュックの肩紐を掴んで、しっかりと背負い直した。
その瞬間、背筋に冷たい風が吹き抜けた気がした。
このまま扉を開ければ、私たちは――もう帰れない。
ざわめきが、喉を塞ぐように空気を濁らせる中。誰かが泣き、誰かが何も言えずに立ち尽くす。
その時、レンがゆっくりと振り向いた。背を向けたままじゃなく、ちゃんと、全員の目の前に立って。血の乾いた衣服のまま、金色の目を細め、淡々とした声で――それでも誰よりも届く声で、言った。
「僕らのことが外の奴らにバレちゃったんだ、だからもう、ここにはいられない」
住人たちは黙って、レンの言葉を聞いていた。
「僕らがいなければ、少なくとも昨日の奴らみたいなのは来ないだろうね、たぶんだけど」
私たちが、狙われている。そう、レンと私と、タクミと。ここにいると、他にも犠牲者が出るかもしれない。
「誰にも声をかけなかったのは、冷たさじゃない。ただ――これ以上、誰の命にも責任を持てないだけ」
いつもの飄々とした物言いは影を潜め、レンは冷静に静かに言葉を紡ぐ。
「僕たちが戻ることは、もう二度とないと思う。だから――どうか、名前で僕を呼ばないで。僕はもう、君たちの知っている僕じゃない」
フッと、微笑むレンは、まるで愛しい相手と言わんばかりの表情で私を見た。
「僕が守れるのは、たったふたりだけで、十分なんだよ」
その声はやさしくて、残酷だった。
「まぁいろんな奴らがいるからね、君たちも今後どうするか、よく考えたほうがいいよ」
暖かいようで、凍えるほど冷たかった。
ーー誰も言い返せなかった。
なぜなら、その言葉が真実だということだけは――誰もが知っていたから。
「……そんな風に言わなくても……」
思わず、口からこぼれていた。
レンがゆっくりと私を見た。金色の瞳は、少しだけ驚いたように、そして――いつもより、遠かった。
「スノウ。君は優しいね。でも、それで誰かを救えた?」
その声に、責めるような色はなかった。ただ、事実を置かれたような冷たさがあった。
私は唇を噛んだ。指先が震えるのを止められなかった。
「私は…」
そう。私は、優しくなりたかった。誰かに必要とされていたかった。人を見捨てるような人間じゃないって、そう思いたかった。
でも――
あの日、私は連れ去られていたかもしれない。それを止めたのは、レン。命を賭けてくれたのは、彼だった。
「……ごめん」
私が言ったのか、誰に言ったのかさえ、わからなかった。
でもレンは、それ以上何も言わず、ただ静かに背を向け、扉の方へ歩き出した。
昔のレンだったら、黙って出ていくだけで済ませていたはずだ。他人を見てすらいなかった。
でも今は、ちゃんと言葉にしていた。あの人なりの、誠実な別れを、選んでくれた。
きっとそれは、私のせいだ。私が側にいたから。私が、何度も何度も怒って、泣いて、喰らいついて、それでも諦めなかったから。
それはつまり、彼が変わってくれたんじゃなくて、変わる選択をしてくれたということ。
――私のために。
その事実が、たまらなくうれしくて、でも、同じくらい――苦しかった。あの人はたぶん、人間であることに、ずっと飢えてたんだ。なのに、与えられたのは暴力だけ。人を信じる前に、人を壊すしかなかった。
今こうして誰かのために立ち止まり、言葉を選んで、誰かを背負おうとしている彼を見て――
私は、何も言えなかった。
レンの背中が、ほんの少しだけ、哀しげに見えた気がした。
ーーー
夜が明ける直前、シュウジの合図と共に、一行は裏手の搬入口からモールを抜け出した。私はタクミと手をつないでいた。レンは先頭。だがその表情には、いつもの無邪気な笑みはない。
「どこに向かうの?」
私が尋ねると、シュウジが答えた。
「目指すのは、北西の研究都市跡地。そこに……何かがある」
「研究都市……?」
「そう。かつて、感染に関するすべてが集まっていた場所なんだ」
レンがぽつりと口を挟んだ。
「僕が小さい頃いた場所だよ」
私はレンの横顔を見つめる。
白い襲撃者たちの標的は、レンだけではなかった。私とタクミまで明確に回収対象にされていた。敵組織はすでに、私たちの行動範囲・潜伏場所を把握している。つまり、逃げても無駄。見つかるのは時間の問題ということだろう。
更に、敵はレンの過去と繋がっているようだった。それならば、敵の根源に行き、そこで終わらせるしかないのかもしれない。
レンは私に向かって、真面目な表情で話し始めた。
「このまま逃げても、僕たちはいずれ捕まる。だったら、僕を作った場所に行って、そこで全部終わらせる。…僕自身が、終わらせるよ」
その言葉を聞いて、私は複雑だった。
タクミをこれ以上危険に晒したくない。けれど、タクミも私も、もう二人だけで生きていくには、到底無理な状況となっていた。
タクミの変化も進んでいる。このまま変化していって、終着点はどうなるのか?タクミは健康に生きていけるのか?何一つわからない。
「タクミが守られる場所なんて、もうどこにもない。だったら、守るために戦わないといけないのかもしれない」
レンは私の言葉を聞いて、ふわりと笑んだ。更に私は続けた。
「壊すためじゃない、生きるために行くんだよ、レン」
レンはその言葉に目を細め、黙って頷いた。
⸻
朝日が、まだ赤くにじむ水平線から差し始めていた。
廃墟の都市を背に、彼らは歩く。
誰もが追われる者となったその中で。
だがその歩みには、微かに灯るものがあった。
希望ではない。
信頼でもない。
ただ、繋がった手を離さない――そんな、薄く儚い決意だけがそこにあった。
出発準備してるタクミ
背景の指定忘れてたら一気にファンタジー感でた




