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3.


その男が現れたのは、朝焼けのように曇った空の下だった。


校庭の門を押し開けて、のそのそと中へ入ってきたその姿に、最初に気づいたのはタクミだった。彼がそっと私の袖を引いたときには、男はもう玄関前の段差に腰を下ろしていた。


髪は脂と砂埃にまみれ、顔は薄汚れ、骨ばった頬の奥に黄ばんだ歯をのぞかせる。年齢は、四十代半ばか、あるいはそれ以上。ヒョロッとした体型のくせに、どこか傲慢で、にやけた顔がずっと張りついていた。


「おう、こんちは。みんなで避難生活かい?…この人数なら、ちょうどいい」


その言葉に、火のそばにいた男が立ち上がった。全身で警戒を滲ませるが、外から来た男は一向に気にした様子もない。足元には、ほつれたリュックが転がっていた。


「食いもん、欲しいだろ?いい場所知ってんだよ、マジで。元モールだ、知ってるか? 東の国道沿いにあるでっけぇやつ。ちゃんと人がいる。物資もある。ちゃんと……分け前も、な」


その言葉に、誰もすぐには反応しなかった。だが、その場に漂っていたのは不信だけではなかった。それ以上に、飢えだった。


――食糧は、もう数日分も残っていなかった。缶詰は底をつき、水の確保も限界に近づいていた。


私の隣でタクミが、ほんのわずかに唇を噛んだ。もう、何も言わなくてもわかる。彼は――空腹を我慢しすぎて、胃の感覚さえ鈍ってきていた。


「罠じゃない保証は?」


別の男が短く問う。その声に、外から来た男はふふっと笑った。


「ほらよ」


外から来た男が、足元の解れたリュックから取り出したのは、缶詰だった。それもかなりの量がある。


「......嘘だろ」


全員が息を飲むように、男の手の中の缶詰を凝視した。怪しい、怪しすぎる。だがそれ以上に、深刻な食糧不足に陥っていた私たちは、甘い誘惑を突っぱねられない。誰もが言葉を発せずにいた。


「おいおい、そっちだってわかって来るだろ? 罠かもな、ってさ。でもよ――餓死よりマシって奴もいるんじゃねぇの?」


その軽薄さに、誰も笑わなかった。


私は、タクミの手を握った。その小さな手が、酷く冷たかった。逃げたい。ここにいても死ぬだけだ。私たちはもう、選べる立場にいなかった。


「……案内してくれるのか?」


また別の男が言った。外から来た男は嬉しそうに目を細める。


「もちろん。今夜には着く。安全なとこだ。子どもだって、ゆっくり寝れるさ」


そう言った男の視線が、タクミを一瞬だけ舐めた。私は、無意識にタクミを自分の後ろに引いた。声を出さず、ただ見つめ返す。男の目がわずかに揺れる。だが、またすぐにニヤニヤと笑った。ニヤけた顔をゆっくりを回し、一人の青年を視界に捉えてから、より笑みを深めた男。


見られた青年は、このグループの中で、ある意味一番目立つ容姿をしていた。小柄で、線が細く、まるで少女のような雰囲気。首にかかる癖毛、伏し目がちのまつげ――この世界には、あまりに儚い。


こんな世界になって、《《こういった》》見た目の男性は性的搾取されやすい。女がいなくなった世界でも、性欲はなくならないからだ。他人を心配しても無意味だが、せめてもう少し顔を隠すなりして自衛をしなければ、大変生きにくい世界だ。


小柄な青年は青い顔をしていたが、隣に立つ男性が支えている。何があるかわからない。だが、ここに残ったところで、この男の言う通り餓死する未来しかない。


こうして、私たちは決めた。

賭けに乗るしかなかった。


モール――元は娯楽と買い物の場。今は、そのすべてを失った空洞。


そこに待っているものが、希望か、罠か。


わからない。


この先には、何かが終わっていて。

そして、何かが始まる。


――――


モールに着いたのは、夕暮れだった。かつての大型ショッピングモール。一部が崩れ、鉄骨が剥き出しになっているが、それでも巨大な建物という形は保たれていた。玄関のガラスは割れ、扉は鉄板で補強されている。中に入ると、ぬるい空気が肌にまとわりつく。火と汗、埃の匂い――人の生活の痕跡だ。


案内されるまま、吹き抜けの広場に足を踏み入れた瞬間、私はタクミを引き寄せて壁際に移動した。フードを深くかぶり、顔を下げる。


ざわ……と、空気が変わった。上階、二階の吹き抜け部分には、二十人以上の男たちがこちらを見下ろしていた。


「おおぉ……増えたなァ!」


「ちょうどいい数じゃねぇか」


「久々に若そうなのが来たなァ……」


下卑た歓声と笑いが、階上から降ってくる。

彼らの視線が次に向かったのは――一人の青年だった。小柄で中性的な顔立ち、色の薄い睫毛。やはり彼だった。長距離の移動で疲れたその姿は、かえって無防備に見えたのかもしれない。


「なァ兄ちゃん、名前は?こっち来て話そうぜ」


「怖がるなよォ、優しくしてやっからさァ」


青年の肩が震えていた。隣にいた同年代の男が、すかさず青年の腕を引き寄せ、鋭く睨み返す。だが、上階の人数と雰囲気を前に、剣呑な空気はすぐに染みついてくる。


私は息をひそめ、タクミの頭を抱くようにして、そっと目を閉じた。やり過ごせ。空気になれ。目立つな。いつもそうしてきた。今日も、そうするしかなかった。


だが、その沈黙を破る足音が――一つ。


ゆっくりと、私の方へ近づいてくる。


私は気づかないふりをした。それでも足音は止まず、私の目の前に立つ。


「ねぇ、きみさ」


男の声は、意外なほどやわらかかった。


「……変わった匂い、してるねぇ」


私は反射的に顔を上げた。そこにいたのは、異質な存在だった。


何より目を引くのは、金属のように輝く両目の金。作り物めいていて、一度目にすると、視線が逸らせなくなる。その男は、透き通るように白い肌、長身だが無駄なく筋肉がついたモデルのような体型で、整った顔立ちをしている。どことなく、今の私と似ているような気がした。だが、口元の笑みには感情の温度がなく、空虚な嗜虐の気配だけが宿っていた。


男が私に話しかけている――


それだけで、モール中の空気が変わった。


「え、あの人…喋ってる?」


「…誰に?」


「あの人、人間に興味持つなんて……」


上階の男たちは、信じられないといった顔でこちらを見下ろしていた。その表情は驚愕と、もう一つ…怯えに似た沈黙。


「君、名前は?」


「......タツミ」


「ふぅん、タツミ、ね」


目の前の男の、その異様な雰囲気を無視できない。仕方なく私は通り名を短く告げる。男は、私が名乗った借りものの名を、興味なさげに繰り返した。


「君が僕の言うことを聞いてくれたら、ここでの安全を保証してあげるよ」


声は静かだった。でも、私の背筋を凍らせるには十分すぎるほど、冷たかった。彼は私に選ばせた。選ぶことなど、できるはずのない条件を、優しく差し出してきて。


私は、ほんの一瞬、タクミを見下ろした。

そして息を吐き、小さく、言った。


「この子の安全も保証してくれるなら…好きにするといい」


その言葉を聞いた瞬間、世界が沈黙した。男は口元を緩め、笑う。まるで玩具を見つけた子どものように。


「…そう。ほんと、おもしろいね、きみ」


彼は、踵を返して歩き去る。まるで、すでに所有したかのように。


誰も彼に声をかけない。


誰も、逆らわない。


その沈黙が何より雄弁だった。


私は、まだ知らなかった。この男が、このモールという名の“檻”を支配する存在――誰も逆らえない、名も知らぬ王だということを。


けれど、私の直感は、もう気づいていた。


きっと、この檻から出る方法は――もう、残っていない。





























レンのイメージ
























挿絵(By みてみん)


儚げな青年と守るようにそばにいる青年は、どういう関係なんでしょうね?たぶん...(ニヤニヤ)

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