29.
それは突然現れた。
朝を引き裂くように、モールの外壁に設置された見張りのベルが鳴り響いた。
「来訪者あり。目視できる限り15名。武装……しているように見える!」
シュウジの低い声が、モール内に響く。
手を止めた者たちが顔を見合わせ、誰もが自然とレンの名を心中に思い浮かべる。モールがこれまで維持できていたのは、レンという化け物の存在があってこそだった。
モール内が静まり返った時間帯に、それはやってきた。
物音に気づいたシュウジがすぐに動き、タクミと私を物陰に連れ込む。モールの影の一角、積み上げた物資の裏――ここなら、視線は届かない。タクミは私の腕に抱かれ、息を殺して身を寄せた。
静寂の中、入口の扉が開く音が響く。
やがて聞こえてきたのは、均一な足音と、冷たい金属音。
「―― Specimen R-09。我々は、彼を引き取りに来た」
誰かの、平坦すぎる声だった。その言葉に、物資の陰に潜んでいた私の手が強く震える。
「レン…」
現れた集団は、白装束の一団だった。表情のない顔、整った隊列。レンは、のそのそと現れ、首を傾げながらにっこり笑った。
「ねぇ……きみたち、なんでそれ知ってるの?」
彼の声はあくまで穏やかで優しく、それがかえって異様だった。指揮官らしき男が一歩前に出て、顔色一つ変えずに告げる。
「我々は、感染適応体の追跡、および回収を任務とする組織。R-09……君は、我々にとって極めて重要な個体だ」
突如モールの入り口に現れたのは、白を基調にした無機質な制服、同じ表情を張り付けたような男たち。そして、その中央にいた指揮官風の男は、モールの住人たちに目もくれず、まっすぐにこう言った。
「――R-09。レンと名乗っているらしいが、我々は君を引き取りに来た」
周囲にざわめきが走る中、レンの目が細められた。男は淡々と、まるで何年も前から観察していたかのように口を開く。
「我々は、感染症の根源的構造と、その適応進化について研究を進めている。R-09は、既に身体能力、免疫耐性、再生力、神経伝達速度など、すべての面で人類の基準を超えている」
男は、どこか興奮気味に、早口で捲し立てるような口調で言い続ける。
「だが、最も特異なのは共生能力だ。R-09は感染症と敵対せず、体内で共に存在している。我々の知る限り、唯一無二の存在だ」
その言葉に、私はぎゅっとタクミを抱きしめる。
「……君たちの言う共生ってのは、結局利用だろ。僕を連れてって、切り刻んで、調べて、それで終わりなんでしょ?」
男は頷くでもなく、否定するでもなく、ただ静かに言った。
「R-09の解析が進めば、この世界は救えるかもしれない。君の犠牲は、全人類の未来に繋がる。君の存在は、もはや個人のものではない」
その瞬間、レンの目が金色に光り、瞳孔が縦に裂けた。
「僕の存在ねぇ、それを君たちに決められる謂れはないんだけどねぇ」
そう言って、レンはゆっくりと前に出る。まるで獣の匂いを察知したように、周囲の空気がピンと張りつめる。
男は一歩も退かず、それでも銃口を向けた。
「こちらも、説得が通じない場合の対応は想定済みだ。無抵抗で来るなら、安全に――」
レンは少しだけ目を細めた。その目は、猫のように縦に裂けて光を孕んでいる。
「ふぅん…。でも僕、行かないよ。ここ居心地いいから」
その無邪気な言葉に、周囲の空気がピンと張り詰めた。
だが男は表情を変えず、冷たく言い放つ。
「君の協力は必要ない。確保するだけだ」
銃口が持ち上がる。
その瞬間、レンが軽く笑って、首を傾けた。
「やだなぁ。僕ね、今は大事な人がいるんだよ。だから、君たちみたいな人に連れてかれちゃうと――すごく困るんだよねぇ?」
パン、と乾いた銃声が鳴る。
次の瞬間、レンの肩が小さく跳ねた。弾が肉を裂き、血が飛び散る。
物陰の中、私は息を呑む。
だが、レンはまるで何もなかったかのように、もう片方の手を軽く挙げて微笑んだ。
「僕さ、あの子たちを怖がらせるような人は、好きじゃないんだ」
その“あの子たち”とは誰のことか。レンの視線は、一瞬だけ物陰の方向をかすめた。
「……ふふ、無理矢理はやめて欲しいな、僕、ほんとに、怒っちゃうからさ」
その瞬間――銃を構えていた男たちの膝が、がくりと地面についた。空気が歪むような感覚。殺気ではなく、圧そのものだった。
私は、隣で息を止めるタクミの頭を抱きしめながら、震える手で口を押さえた。
足元に崩れた兵士たちを見下ろし、レンは肩を揺らして軽く息をついた。
「……ふう。怒りたくないのにさ。君たちってどうしてこう、言葉が通じないの?」
笑みを浮かべたまま、レンは手をぶらぶらと振る。その顔に、狂気はない。ただ――静かに、穏やかに、沸騰していく怒りだけが滲んでいた。
そんなレンに向かって、地に膝をついたままの男の一人が、絞り出すように言う。
「…こちらが求めているのは…R-09である君だけではない。白化適応体と、その第二世代も…我々の観測対象だ」
――その瞬間。
場の空気が、凍りついた。
「……今、なんて言った?」
レンの声が変わった。
それまでの柔らかさが、どこかへ消え失せていた。
「もう一度言ってみろ」
静かな声。けれど、そこにいた誰もが、その声の背後にある凶兆を感じ取った。
男は答える。今度は、ためらいなく。
「白い女と変化を示す子ども――その二体も、我々は確保する予定だ。君の変異因子に近い構造を示しており、解析対象として――」
パァンッ!!!
何かが弾け飛ぶような音が響き、男の身体が吹き飛んだ。
何が起きたのか、誰も見えていなかった。
ただ、男が次の瞬間にはモールの壁に叩きつけられていたことだけが、事実だった。
「言ったよね?」
レンはゆっくりと一歩、足を踏み出した。まるで花でも摘みに行くかのように、気楽な歩調で。
「僕は、あの子たちを守るためなら、全部壊してもいいって思ってる。このモールだって。君たちの本部だって。…この世界だって、全部」
口調は優しい。微笑んでいる。だが、その瞳の奥にある金色の光が、ぎらりと縦に割れた。
「君たち忘れた?僕は完全適応してる。つまりさ――君たちのどんな薬も、どんな銃も、もう効かない」
再び、風が巻き起こった。レンの足元から立ち上るようにして、不可視の圧が場を覆う。
「スノウと、タクミに手を出そうとしたよね。……じゃあ、どうして僕が、君たちを生かして帰すって思えたの?」
その笑顔は――怒りの概念そのものだった。
物陰でそれを見ていた私は、タクミの頭を抱きしめながら、唇を噛んだ。レンの背中が、こんなにも大きく見えるなんて思ってもみなかった。
こんなにも、真っ直ぐに守ろうとしてくれるのに。なのに、どうして……この人は、こんなにも壊れかけているのだろう。それでも――守るために、彼は戦おうとしている。
レンは、崩れ落ちた兵士たちに背を向けた。
「君たちが帰る方法は、ひとつだけだよ」
子どもに諭すように、レンはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「――僕たちの存在を、世界から消し去る。それだけ」
静かに言い放ったその言葉に、組織の者たちは誰ひとり反論できなかった。その言葉が落ちた瞬間だった。
銃声が、破裂音のように弾けた。
「う、うわああああああ!!」
レンの放つ圧に、完全に錯乱した一人の兵士が、引き金を引いた。怒りも、理性も、命令もない。あるのは、ただ――恐怖。
「レン――!」
私が咄嗟に声を上げる。
だがレンは、まるで何の反応も示さなかった。その金の眼差しは、ただ兵士たちを見下ろしている。
ズドンッ……!
その身体に、銃弾が突き刺さった。
一発、二発――いや、十発。兵士の銃口から溢れるように連射された弾丸が、レンの胸や腹に吸い込まれていく。血飛沫が舞い、レンの身体が後ろにたゆたうように揺れた。
「……あ」
それは、レン自身がこぼした音だった。驚いたような、子どもが転んだときに漏らすような――そんな声。彼の膝が、ストンと地に落ちる。
「…ヒッ!」
私の口から悲鳴に近い声を漏れた。
その隣でタクミが震える。私は彼を庇うように抱きしめたまま、息を飲んだ。
「撃て!撃て撃て撃てぇ!!動かなくなったぞ、今だぁ!!」
隊長格と思しき男が叫び、他の兵士も一斉に引き金を引いた。モール内に、無数の銃声が響く。
レンの身体が、弾かれたように何度も揺れる。血が、焼け焦げた布とともに宙を舞う。
それでも、レンは笑っていた。口角はうっすらと上がったまま、ただ俯いたその表情に、狂気はない。あるのは、静かな諦念――もしくは、信頼だった。
「…いや…もう、やめて…ッ!!」
私は叫んでいた。足が勝手に前へ出る。タクミの手を残して、体が駆け出していた。
「レン!!!」
銃声が止んだ。
兵士たちの視線が、私へと一斉に向いた。
その姿――
白い髪。白い肌。透明な瞳。
そして、女。
誰もが、息を呑んでいた。
「ああ……本当にいたのかっ、白化適応体!」
「R-09に続く可能性のある遺伝因子を持つ存在…!」
感嘆とも興奮ともつかぬ声を漏らしながら、兵士たちがにじり寄る。
だが、その動きよりも速く――地を這うように起き上がった影が、銃弾で抉られた身体を引きずるように立ち上がった。
レンだった。
その眼が、私の姿をとらえた瞬間、笑っていた唇が、ひび割れたように裂ける。
「……スノウ、出ちゃダメでしょう……」
低く、かすれた声。だが、そこには確かな感情があった。
そう――怒りでもなく、狂気でもない。ただひとつ、心配だけが滲んでいた。
囁くレンの声は、どこまでも優しかった。まるで、帰ってきたばかりの迷子に語りかけるような。
だが、私はその言葉に首を振った。
「…出ないで、いられるわけないじゃない…ッ」
彼の身体から流れ落ちる血を見て、胸が痛んだ。
何度も、酷く傷つけられた相手――けれど、自分とタクミのために銃弾を浴びる姿を、見過ごせるはずがなかった。
「今だ!!」
兵士の一人が叫んだ。
視線を逸らした隙を突くように、銃口がレンに向けられる。
鋭い破裂音。火花のような閃光。
パンッ――ッ!
その瞬間。私の身体が、弾かれたように前へ飛び出した。
「ダメ―ッ!!」
彼の前に立ちはだかるように、腕を広げる。白い身体が、黒ずんだ空気に浮かぶようだった。
その胸元に――弾丸が、吸い込まれる。
ズドン
銃声が遅れて響いた。
私の身体が、小さく跳ねる。
「……!」
レンの目が、金色に見開かれた。
私は何も言わなかった。ただ、無言のまま、レンの方へと倒れ込んでいく。その姿を、レンは――反射的に、抱きとめた。
「……どうして……」
レンの腕の中で、私は微笑んだ。
「わからない…でも、…あなたが撃たれるのは、もう…いや…だったから」
言葉にならない感情が、喉元でつかえて、震えていた。
「君は……僕を庇ったの?」
「…家族でしょ私たち…あなたが勝手にそう言ったんだから…」
私の声は微かに震え、けれど最後まで言い切った。
その言葉を聞いた瞬間――レンの中で、何かが音を立てて崩れた。血だらけの手が、私の顔をそっと撫でる。まるで、大切なものを汚さぬように。
「…ごめん、君を…また傷つけた」
かつてないほど穏やかな声だった。
その声に、兵士たちは一瞬たじろいだ。だが、次の瞬間には――再び銃口を構えた。
低く、熱のこもった声だった。唇の端に血を滲ませながら、レンは笑う。
「僕は…檻として飼われてきた。でもね……今、ようやく気づいたんだ、スノウとタクミは、俺が守りたいと思えた最初で最後の人間なんだよ」
私の傷ついた体を、そっと抱きしめるレン。私は場違いにも、高鳴る鼓動を抑えられないでいた。今はこんなことをしている場合じゃない、早く逃げないと...!
「君たちさ…僕の大切な人に、銃を向けるなんて。…覚悟できてる?」
ゆっくりと近寄る白い戦闘員たちに対して、レンは金眼をギラつかせた。その瞳は、明らかな怒りが現れていた。レンは力を振り絞って、私の背に腕をまわした。
「触るな、彼女に、タクミに……指一本すら、届かせるか」
レンは血を流しすぎている。いくら強い彼でも、こんな満身創痍では手立てがないんじゃないか。私はもう一度、立ち上がろうと決心した。
ーーそのとき。
小さな影が、飛び出してきた。
「……母さんに、触るな!!」
小さく、けれど明確に通った声がした。
タクミ、私の息子。
兵士たちの動きが、ピタリと止まった。その小さな声が、まるで脳の奥に直接届いたように。意思という回路が、断線したかのように。
声は細く、けれど確かに支配力を帯びていた。
怯え、戸惑い、恐怖――男たちの顔から血の気が引いていく。子どものはずの声に、大人たちの動きが止まる。
銃口を下ろす者すらいた。それは命令に近い声だった。強制力を帯びた響き。
「お、おい…今の、声…何だ……」
「手が…動かねぇ…!?」
タクミの金色に揺れる瞳が、兵士たちを静かに見つめていた。
その異様な光景の中で、シュウジが背後から駆け寄り、怯んだ兵士を迷いなく撃ち、蹴り飛ばした。
「レン、タツミ、下がれ。こっちは俺が処理する」
彼の短く冷たい声が、モールの空気を再び現実に引き戻す。シュウジは無言で、手際よく、彼らを拘束し、武器を奪い、外へと排除する。
突然、レンの体がぐらりと大きく揺らめいて、地面に片手をついた。私はその場に崩れ落ちたレンの肩を抱いたまま、ただ震えていた。撃たれたはずの胸に、血は流れていない。だが確かに傷はあった。
「……君を、守れてよかった」
そう呟くレンの手が、いつになく優しかった。その手の温度に、私の喉の奥から震えが上がってくる。
「……私も、守りたかった」
レンは、私を抱き締めながら呟いた。
「……僕を守ってくれた人は、君が初めてだよスノウ」
その言葉が、風のようにモールの中を吹き抜けた。
私の視線の先には、タクミがいた。
彼の目は――もう、子どものそれではなかった。
それはきっと、新しい世界の夜明けだった。




