28.
モールの朝は、鈍く重たい空気で満ちていた。希望とは程遠い、ただ昨日と同じ苦しみが続くことだけが確約された静寂。
だが、その中でタクミは、少しだけ変わろうとしていた。
レンの部屋ではない、隣室の一角。かつて倉庫として使われていた部屋には、毛布が一枚と、簡易ベッドが一つ。
シュウジの手でわずかに整えられたその場所が、今のタクミの寝床だった。
タクミはうつ伏せに寝転がりながら、ぼんやりと壁を見つめていた。
「母さん……」
小さく呟いたその声に、誰も返事をしない。
ここでは、夜になれば母はレンのもとに行ってしまう。
子どもには触れられない場所へ。
(知ってる。母さんは、僕のために頑張ってくれてる。レンが、守ってくれてる)
それでも、胸の奥には冷たい何かがひたひたと広がっていた。
その日、珍しくレンがタクミに声をかけてきた。
「やあ、タクミ。元気してた?」
その声音は、やけに優しくて、笑顔もあった。だがタクミは、その笑顔を見て、心臓が跳ねた。
怖い。この人は、何かがおかしい。
「……母さんは?」
「今は少し休んでるよ。今日は、僕が代わりに来てあげた」
「……別に、来なくてよかった」
口にしてから、タクミは唇を噛んだ。レンは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにまた笑った。
「そっか。……でも、タクミが僕の家族だから、会いたかったんだ」
家族という言葉に、タクミの小さな肩がぴくりと動いた。
——なにそれ。僕は、あなたの家族なんかじゃない。でも、母さんが「家族だよ」って言った。だったら、僕も……我慢しなきゃいけないんだ。
その夜。タクミは一人、倉庫部屋の小さな鏡の前に座っていた。誰もいないはずの鏡の中で、自分の瞳が、微かに光っていた。
(まただ……)
瞳の色が、以前より淡くなってきている。母さんみたいな透明な色じゃないけど、普通の人とは違う。それに——
(見えるんだ、夜でも)
真っ暗なモールの廊下で、タクミだけは歩ける。暗闇が怖くない。音が、妙に遠くまで聞こえる。
母さんが怖がっていたこと。変わっていくこと。それが、僕にも始まってるんだ。
次の日、タクミは誰にも言えないまま、外の景色を見ていた。大きな窓の外、監視台の影にレンの姿があった。まるで獣のように鋭い動きで、レンは何かを処理していた。あまりよくわからないけど、たぶんアレは、ーー人?
レンは人を殺している、そう理解したタクミの心に、言いようのない恐怖が落ちてきた。同時に、それと同じ何かが、自分の中にも芽吹いていることに気づいていた。
(僕は……どうなるんだろう)
夜。再び、倉庫部屋。母の温もりのない布団に潜り込み、タクミは小さく身体を丸めた。
「母さん……僕、こわいよ……」
その囁きは、誰にも届かない。けれど——その声を、ふと壁の向こうで聞いた誰かがいた。
気配を消すようにして壁際にいたのは、シュウジだった。目を細め、しばし黙っていた彼は、タクミの寝息が聞こえ始めると、低く呟いた。
「……大丈夫、お前は俺が」
それは、かつて誰かを守れなかった男の、誓いだった
ーーー
朝の光が差し込むレンの部屋は、異様なほど静まり返っていた。私は、タクミの髪を梳きながら、内心のざわめきを抑えようと必死だった。
「母さん……なんか、変だよ」
そう呟いたタクミの声はかすれていて、けれど確かな違和感を帯びていた。振り向いた彼の顔を見て、私は小さく息を呑む。
肌の白さが、また一段と増している。髪も、寝起きの光のせいではなかった。微かに透けるような質感に変わってきていた。そしてなにより、タクミの瞳の色、その中心に、かすかに金色が滲んでいる。その瞳は、まるでレンのようなーー
「……タクミ」
私はその名を呼ぶだけで、胸が締めつけられた。自分に起きた変化と、あまりに似ていた。
「ねえ、母さん。僕、人間?」
まっすぐに見つめてくるその目に、何も答えられなかった。私は、目を逸らさずに答えた。
「…あなたは、どんな形になっても私の子よ」
その言葉に、タクミは黙って頷いた。
でも――その表情は、恐れていた。
自分が母から離れてしまうのではないかという、幼子には重すぎる恐怖。私はその小さな背を抱きしめながら、自分の胸にも同じ恐怖があることを悟っていた。
「私たち、ちゃんと人間として生きられるのかな」
誰にともなく、そう呟いた。
今までは、レンやシュウジ、そして何より死の恐怖に気を張っていた。けれどこうして静かな朝に、ふと気づいてしまった。
自分たちはもう、ただの生き残りじゃない。
この体は、もう普通じゃない。
もしかしたらこの息子と共に、自分は――何か別の存在になろうとしているのかもしれない。
外の世界が変異しているのではない。
変わり始めているのは、自分たちの内側なのだろうか。
タクミ 脱色が進んだ




