23.
それは、小さな音から始まった。
夜。私はいつも通り、タクミをシュウジの部屋に預けてからレンの部屋へと戻った。その間に交わされる言葉はない。互いに、その静けさに慣れていた。ベッドの端に腰かける私のもとへ、レンは音もなく近づく。
「今日、あの子と何を話したの?」
その問いは、まるで恋人が嫉妬を隠すような、けれど感情の温度を失った声だった。私はゆっくりと顔をあげた。
「……いつも通り、他愛もないこと」
「他愛もないこと。ねぇ、スノウ。君は……あの子のためなら僕からも逃げられるの?」
問いに含まれた棘は、鋭利で、冷たい。私は、その棘が自分の皮膚を通り越し、心を刺してくるのを知っていた。
「私は、タクミの母親だから」
その一言が、レンをひどく苛立たせた。レンの目が、淡く光を宿す。縦に裂けた金の瞳孔が、私の瞳を射抜くように見つめる。
「——僕も家族だよ。母親なら、家族を平等に愛するべきだよね?」
「……レン」
「僕には君しかいないんだよ。だから、君があの子に全部を渡してしまうのが、嫌なんだ。僕の居場所が、なくなりそうで」
声は静かだった。けれどその指は、優しく触れるには少し強すぎた。肩に置かれた手に、私の肌がわずかに震える。
「タクミが君の名前を呼んだとき、何かがチクリとした。ねぇ、スノウ……どうしたらいいと思う? 僕、壊しちゃいそうで」
私は、息を呑んだ。
この男は、嫉妬している。
自分の息子に。愛してやまない唯一の家族に——レンは、初めての感情に戸惑っていた。
けれどそれは、彼にとっても救いだったのかもしれない。
「……タクミは、あなたの敵じゃない」
「でも、僕の邪魔はするかもしれない」
レンの言葉は冗談のようで、本気だった。
その夜、私はレンの隣で眠れなかった。眠ったふりをして、ずっと目を閉じていた。——レンの視線が、自分の背中にじっと突き刺さっていたから。
扉の向こうでは、タクミが小さく咳き込んでいた。その声を、私の胸が切り裂かれるように感じ取っていた。世界の裂け目に、誰も気づいていなかった。ただレンだけが、確かに境界線の先に足をかけようとしていた。
ーーー
朝、曇りがかったモールの天井から、かすかな光が差し込んでいた。私が目を覚ましたとき、レンは部屋の隅に座っていた。
じっと、タクミが眠る扉の向こうを見ていた。
視線の先にあるのは壁でも扉でもない。その先にいる者——つまり、タクミだった。
「……まだ、寝てるの?」
私が声をかけると、レンはゆっくりと振り返った。その金の瞳はどこか曇っていた。
「うん。あの子って、よく夢を見るんだね。昨夜、うなされてた。『おかあさん』って何度も呼んでたよ」
私の心が軋む。
「怖い夢だったのかな」
「……さぁ。でも、あの子が見る世界は、きっと僕よりずっと綺麗だ。まだ、全部を知らないから」
言葉の温度が下がる。レンの隣に座ると、彼の体温がじんわりと皮膚に触れた。どこか、ひどく冷たい。
「レン、何を考えてるの?」
「……僕とタクミ、どっちが君にとって大事なの?」
静かに、だが明確に問う。私は目を伏せた。
「比べるものじゃないよ。タクミは私の子ども。あなたは——」
「……僕は、何?」
私は言葉に詰まった。
恋人? 家族? それとも……所有者?
どれも違う気がして、でも正しい言葉が見つからなかった。
レンはすうっと息を吐いた。
「いいよ。答えなくて。たぶん、僕が知りたいのは君の嘘じゃない。君の選択なんだ」
その時だった。
扉の向こう、タクミの泣き声がかすかに聞こえた。悪夢から覚めたのだろう。私はすぐに立ち上がり、扉へ向かう。
だがレンが、その手首をつかんだ。
「今は、行かないで」
低い声。
だがその中には、確かに求める感情があった。私は振り返る。
「……タクミは一人じゃ眠れないの」
「僕もそうだよ」
目が合った。金色の瞳が、濡れたように揺れていた。
「君がいなくなるのが、怖いんだ。……あの子に奪われそうで」
——それは、愛と呼ぶには、あまりに歪な感情だった。けれど、レンの中でそれは確かに恐れだった。私はレンの手を外し、優しく微笑んだ。
「私は、あなたのものなんでしょ?」
「……うん」
「だったら、逃げない。タクミの元にも行く。でも、戻ってくるから」
その言葉が、どれだけの意味を持つか。
レンにはまだ、きっと理解できない。
けれど、その言葉が“扉を閉じなかった”ことだけは、レンの心に確かに残った。
私が部屋を出ていく。
遠ざかる足音に、レンは頭を抱えた。
——怖い。
この胸のうずきがなんなのかも、壊したくなる衝動がどこからくるのかも。
けれど手に入れたものを奪われるという本能だけが、レンの内側で叫び続けていた。




