22.(タクミ)
タクミは母の傍らで静かに瞬きを繰り返していた。部屋の空気はどこか薄く、静寂が張りつめている。
レンはソファの端に座り、何気ない顔で母の肩に指を這わせていた。まるで呼吸をするように自然に、それでいて、どこか冷たい。
(あの人は……なんで笑ってるんだろう)
タクミは視線を逸らした。見てはいけないと思ったから。けれど気づけばまた、あの金の目を探してしまう。あの目は、時々何も映していない。まるで生き物ではないみたいに。
母は、黙ってそれを受け入れている。笑わないけど、泣きもせず。でも、タクミにはわかっていた。母は夜が近づくと、少しだけ呼吸が浅くなる。表情はいつも通り穏やかだけど、手も体も冷え切っている。
「…母さん、あの人、ずっと一緒なの?」
ぽつりと漏らした声は誰にも届かないと思っていた。だが近くにいたシュウジが、一瞬だけ眉をひそめた。そして答えなかった。それが、何よりも怖かった。
「母さんを……苦しめたり、しない?」
シュウジはまた黙った。代わりに、視線をレンの背中に向けた。その鋭さに、タクミは息を呑んだ。
レンは母を守っている。
でも、それは母のためじゃない。守っているのは、母という自分のものだった。
タクミは、それに気づきかけていた。
(……母さんを、守れるようにならなきゃ)
怖くて、震える夜でも。母の手を誰かに奪われそうになっても。もう、隠れてるだけじゃだめだ。あの人と同じ檻の中で、ただ黙って見ているだけじゃ。
「僕、強くなるから…母さんを守るから」
そう、小さく誓った声は、誰にも聞こえていなかった。
けれどその言葉だけは、タクミの心に、確かに灯った。
ーーー
夜の帳が落ちたモールは、静かすぎて、どこか気味が悪い。タクミは、いつものようにシュウジの部屋で毛布にくるまりながら、母の寝ている部屋を思い出していた。あの、どこか冷たくて、誰のものでもないみたいな白い部屋。そこにいると、安心するのに、心のどこかが凍えていくような気がした。
あの男——レンのせいだと、うまく言葉にはできないけど、タクミの中にざらついた感情が生まれ始めていた。
ある日、タクミが水を取りに部屋を出ると、レンと鉢合わせた。レンは目を細めて笑った。
「タクミ。夜中にウロウロすると、怖い目に遭うかもよ?」
優しい声。だけど、ぞくりとした。
空気が、急に凍りついたみたいだった。
「……母さん、まだ寝てる?」
「うん、ちゃんと僕のベッドで眠ってる。ねえ、タクミ。君、僕のこと嫌い?」
レンはそう言いながら、膝を折ってタクミの目線に合わせてきた。金色の瞳が、闇の中で光る。それは夜の獣のようで、ふいに喉の奥が詰まるような感覚がした。
「……わかんない」
そう答えるのがやっとだった。怖い、と言ったらどうなるか。タクミには、わかっていた。
レンの目が、一瞬だけ細くなった。
「そっか。じゃあ、もっと好きになってもらえるように、頑張らなきゃね」
やわらかい笑顔。けれどその背後には、言葉にできない何かが潜んでいた。
(この人、笑ってるけど……ぜんぜん、安心できない)
タクミは、無意識のうちに後ずさった。そして理解した。
レンは、自分に何かをするつもりなんか、きっとない。優しくもしてくれるし、怒鳴り声も出さない。
けれど、それでも怖いと思ってしまうのは——本能だった。
「君のお母さん、大事にしてるよ。だから、タクミも僕のこと、大事にしてくれたら嬉しいな」
そう言ったとき、タクミは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。それは、守ってるという言葉の裏に、手放さないという独占の意思が見え隠れしていたからだ。
そしてタクミは、初めて気づいた。
母が言っていた、「生き延びるために、何かを諦める覚悟」が、こういうことだったのかもしれないと。
——この人は、笑顔で、檻を作る。
優しさの仮面の裏に、誰も逃れられない呪いを秘めて。
タクミは母のために、怯えながらも、口を閉ざした。
ーーー
「……母さん、最近、僕に聞いてこないね。怖くなかったか、とか、変なことされなかったか、とか」
夕暮れの光が差し込むレンの部屋、その片隅でタクミはぽつりと呟いた。隣で毛布をたたんでいた母の手が、ふと止まる。その横顔には戸惑いが浮かんだ。いつものタクミなら、もっと甘えてくる。もっと、無邪気な言葉で世界を撫でてくる。
けれど今、彼の瞳には少しだけ…ほんの少しだけ、大人の陰が混じっていた。
「ごめんね、タクミ。最近、ちゃんと目を見てなかったかも」
母はしゃがみこみ、タクミの前に目線を合わせる。その手が彼の頬に触れようとした時、タクミはふっと身を引いた。
「ううん、違うんだ。怒ってるわけじゃないよ、母さん」
笑うタクミ。
その笑みには、優しさと、僅かな距離感が混ざっていた。
「ただ、夜、母さんがいない時間、僕は世界がちょっと怖くなった。シュウジさんは優しいけど、誰かが死ぬ音がして……笑い声もしてた」
彼は天井を見上げながら言葉を繋ぐ。
「レンが、怖い。あの人、僕に優しくするけど…母さんを見てる目が、動物みたいで。獣、みたいで…何かが壊れちゃいそうな感じがする」
母はその言葉に、何も返せなかった。
タクミは、確実に気づいている。
世界のゆがみ、レンの異常さ、そして——
「僕ね、母さんが泣くのを、もう見たくないんだ」
その一言が、母の胸を深く刺した。まだ小さな子が、こんなにも強く、優しく、痛みを知ってしまっている。
「……大丈夫。母さんは大丈夫よ」
そう言う母の目から、涙がこぼれた。
それは、タクミに見せまいとした涙。
けれどタクミは気づいていた。静かに、毛布を引き寄せ、母の肩にそっと頭を預ける。その姿は、あまりに静かで、穏やかで——それでもどこか、張り詰めた未来の緊張を孕んでいた。
部屋の外、閉じられた扉の先には、壁に凭れたまま、中の声を聞いていたレンがいた。瞳孔は縦に割れ、じっと、扉を見つめている。
「……スノウ」
囁く声が、ひどく静かだった。
タクミくん




