21.
モールの空気が変わったのは、あの事件の翌朝だった。盗難騒動とレンの一方的な裁き。サラの出現。その、あまりにも美しい女の姿に、男たちの抑圧された欲望が音を立てて軋み始めた。
「レンが独占してるんだ。女を。俺たちには何もないってのに……」
「何であいつばっか...!」
そんな呟きが、薄暗い通路の陰で囁かれている。誰が言ったのかはわからない。ただ、それを否定する者はいなかった。
⸻
「暴動が起きるかもしれない」
警備の巡回から戻ったシュウジは、レンの部屋の扉を静かに閉めながら呟いた。
ベッドではサラが静かに眠っている。
胸の上下がゆっくりとした呼吸を物語っていた。
「……僕のせい?」
レンの声は軽かった。まるで他人事のように。
「違う。俺たち全員のせいだ」
シュウジはサラを見下ろす視線を落としながら、静かに続けた。
「お前が彼女を囲ってることも、俺が見て見ぬふりをしてきたことも、限界に来てる」
レンは黙ってサラの髪を指先で撫でた。その仕草は優しげにすら見える。しかし、そこに宿るものは愛ではなく、執着だった。
「じゃあ、燃やせばいい?」
「やめろ」
その瞬間、シュウジの声に鋭さが宿った。
「タツミが望まない形で、この場所を壊すな。お前は、彼女を自分のものにしているつもりで、何も得てない」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、レンの目が細くなった。
縦に割れた金の瞳孔が、冷たい光を放つ。
「どうすれば……彼女がもらえるの?」
「お前が、ちゃんと守ってみせろ。力じゃなく、意思で」
⸻
その夜、モールの奥の物資庫に仕掛けられた罠が反応した。誰かが武器を持ち出そうとしていたらしい。名前は伏せられたままだが、火種は確実に撒かれた。
翌朝。
サラの手を包み込むように握ったレンは、柔らかく笑って言った。
「ねぇ、スノウ。僕が守るから。全部、僕が始末しておく」
その声音は甘く、恐ろしく静かで、そして……血の匂いがした。私の手を撫でながらそう囁くレンの指先は、まるで陶器に触れるような繊細さだった。その一方で、その声の裏に潜むものに、私の背筋はうっすらと冷える。
守る、と言っているのに。
なぜこんなにも怖いのだろう。
「レン…人を、殺さないで」
絞り出すような声で、私は言った。
「……あの人たちが悪かったとしても、もう充分、怖がってる。レンが動くと…もっと、全部が壊れてしまう」
レンはじっと、私を見つめた。縦に割れた瞳孔が、かすかに震えたように見えた。
「でもね、スノウ。君が傷つくの、嫌なんだ。……本当に、嫌なんだよ」
感情のない声でそう言いながら、レンは立ち上がった。
⸻
夜。モールの物資庫の一角で、何者かが再び備蓄を物色していた。
「…バレなきゃ大丈夫だって。どうせ、あの女にばっか食わせてるだろうし……!」
「こっちは女の影すら見てねぇのに、あの野郎!」
「毎日ヤりまくってんのかよっ!クソが!」
苛立ちと欲が交じった声。
男たちが手に缶詰を滑り込ませようとした瞬間、背後から足音ひとつ聞こえず、レンが現れた。
「お腹空いたの?」
その声に振り返った男の顔が、恐怖に歪む。
「な、なんでここに……っ」
「君、触っちゃったんだね。僕の場所にあるもの」
「ち、違うっ……!」
言い訳を吐き出す間もなく、レンの腕が動いた。音もなく、ただ一撃。悲鳴が木霊したのは一瞬、次にはもう沈黙しか残っていなかった。
そして翌朝、血で染まった床を前に、住人たちは思い知る。
——このモールは、怪物によって保たれている。⸻
部屋に戻ったレンは、私に何事もなかったように抱きついた。
「ねぇ、スノウ。僕ね、君のために綺麗にしてきたよ。もう誰も、君を見ようとしない。誰も、触れない。安心していいよ」
その言葉に、私は震えながら、微笑んだ。
「ありがとう、でも、レン……」
「ん?」
「私のために誰かを傷つけるの、やめて」
沈黙。長い、長い沈黙のあと。レンは私の首筋に顔を埋めるようにして、ぽつりと呟いた。
「……難しいね。でも、考えてみる」
彼が言う考えるが、一般的な意味ではないことを、私はとっくに知っていた。けれど、それでも彼が「考える」と言ったことが、僅かな救いのように思えた。
――彼は今、ほんの少しだけ「人間」に近づいている。
そんな希望が、刃のような現実の中に微かに灯っていた。




