20.
私は、タクミと2人でレンの部屋にいた。
今日は珍しく、朝早くからレンが出ていったため、タクミとの時間が増えた。他愛もないことを話していた時だった。
「母さん」
「ん?」
「ーー来るよ」
何が?と聞く前にノック音がした。返事をする前に、足音すら立てずに、扉がゆっくりと開いた。黒い服、整った顔。金の目。笑っているはずのその男の姿。
「おはよう、スノウ」
「……レン、どうしたの?」
「鼻が動いちゃってさ。どうしても気になって、ね」
レンは私の手に触れるでもなく、タクミの髪を撫でるでもなく、ただ部屋の中に入り込む。
「ここじゃないってことは、安心だけど……でも」
彼は、ポケットから小さな何かを取り出した。
――ガラス片?
「僕ね、さっき盗難に遭った保管庫の扉を調べたんだ。そしたらね、ドアノブに……匂いが残ってたんだよ」
「……匂い?」
「そう。血と油と……金属と、汗。それから少し、バニラみたいな甘い匂い。ほら、今でも嗅げる」
レンはまるで犬のように、わずかな残り香を辿るように指先を動かす。
「ねえ、僕って変?」
「……」
私は何も言えなかった。否定すれば、きっと彼はまた子どもみたいに甘えるし、肯定すれば、彼の中の理性がどこかへ消えてしまいそうだった。
「……ふふ。冗談。僕ね、ちょっと歩いてくる。すぐ戻るから」
タクミの頭をぽんと軽く叩いて、レンはふらりと部屋を出ていった。
──数分後。
「……やっぱり、君たちだったんだね」
暗がりで、青年の声が静かに響く。レンの前には、泣きそうな顔で後ずさる若者、顔面を蒼白にさせて震える男、冷や汗を吹き出し今にも逃げ出しそうな男がいた。
この3人は、先ほど疑われていたメンバーだった。3人は震えながら「ごめんなさい」と繰り返している。
「君の手、見せて?」
言われた若者は、ビクつきながらも手のひらを差し出た。そこには小さな切り傷と油の黒ずみがあった。
ーーー匂いも一致した。
「これ、何?」
レンはその手のひらに、さっきのガラス片を押しつけた。若者は悲鳴をあげる間もなく、膝をついた。
「僕の嗅覚はね、本物だよ。鼻が利くってのも、武器になるんだよ」
それが、独自の方法。
証拠? いらない。
証言? どうでもいい。
「僕が違うって思えば違うし、黒って思えば黒」
レンは、苦しげにうずくまる相手の首を、軽く捻った。鈍い音を立てて、若者の首が変な角度に曲がっていた。
「次は君たちだね」
薄ら笑顔を貼り付けたまま、レンは2人の男の首を捻り切る。悲鳴すらあげる間もなく、2人の男の体は地面に吸い込まれた。その場で、誰も声をあげることはできなかった。物音ひとつ、呼吸音すら許されないような空気。
レンは満足そうに、口元にあどけない笑みを浮かべ、背を向けた。そこで、我に返った数人の住人が急いでレンに声をかける。
「レンさん!オレたちも犯人見つけたんだから、何か褒美くださいよ!」
そう笑いながら擦り寄った男の腕が――次の瞬間、落ちた。
「うるさいなあ。僕、馴れ馴れしいの嫌い」
悲鳴が走った。
凄まじい血しぶきと、転がる前腕。
地面に膝をついた男がのたうち回る。
誰もが凍りついた。その時だった。
「やめて!!」
陰から様子を見ていた私は、反射的に飛び出していた。思考よりも早く身体が動いていた。私は、腕を落とされた男の前に立ち、レンに向き直る。
「これ以上は…もう、やめて……お願いだから……!」
震えながらも、しっかりと声が出た。しかし、レンは私に向かって、まるで子どもを諭すように、微笑んで首を傾げた。
「スノウ……部屋から出ちゃダメって、言ったでしょう?」
その瞬間、周囲の空気が変わった。私の姿を――その白すぎる肌、透けるような銀髪、儚くも整った顔立ちを――男たちが見た。この数年、女を見たこともなかった住人たちにとって、その姿は強烈すぎた。
誰もが、息を呑んだ。
「……まさか、女…だったのか…」
「嘘…だろ……」
その場にいた者たちが、まるで夢を見ているように私を凝視していた。その中で、私だけがひとり声を失い、足元の血に目を落としながら――ただ震えていた。
血の匂いが濃く、足元には、まだ痙攣している腕が転がっていた。先ほどまで命を持っていた男の体が、冷たい床の上で静かに沈黙していく。
「……行こっか、スノウ」
レンが、私の前にしゃがみこむ。その瞳は、まるで愛し子でも見るかのように柔らかい。けれど私には、それが恐ろしかった。笑顔のまま、躊躇いなく命を奪える男の、その手が――自分の手を握ろうとしていた。
「触らないで……っ」
かすれるような声だった。だが、レンはその拒絶に表情ひとつ変えず、優しく私の肩を抱いた。
「大丈夫だよ。怖いことは、もう全部終わった」
終わった?
――違う。始まっている。この世界の異常は、今まさに蠢き始めたばかりなのだ。
「……離して」
「やだよ」
低く呟いた私の言葉は、レンに簡単に拒絶される。
「スノウは僕のものでしょう? ちゃんと傍にいてもらわないと、皆がまた騒いじゃう」
彼の声は穏やかだった。けれど、その背後で今も血を流す住人の姿が、何よりの脅しだった。
そのときだった。
「……もういい、レン。下がれ」
凛とした声が響いた。
シュウジだった。
いつの間にか現れたその男は、私とレンの間に一歩踏み込んだ。
「スノウが勝手に出てきたんだ。悪いのは彼女だよ?」
レンが、少しむくれたように言った。だがシュウジはその視線を正面から受け止めた。
「お前が彼女を閉じ込めていなければ、こんな風にはならなかった」
「……それ、責めてるの?」
「違う。事実を言ったまでだ」
静かに言い返すシュウジに、レンはしばらく黙り込んだ。そして――
「……じゃあ、スノウを運ぶね。怖くて、歩けないみたいだから」
私は否応なく抱き上げられる。
「やめて!おろして!」
レンは私の抵抗をものともせず、通常運転で歩き出した。
「シュウジ、後はよろしく」
そう言い残し、レンは私を抱いたまま背を向ける。その背中に向かって、血に染まった空気の中、誰も声をかけられなかった。私の姿を見た住人たちの視線が、じわじわと人間の女に対する欲望の色を帯び始めていた。
その視線を、レンは背中で全て感じ取っていた。
そして静かに、呟いた。
「……やっぱりスノウは、僕が守らなきゃダメだよね」
その声に、誰も返事はしなかった。
ただ、沈黙と、静かな戦慄だけがモールを満たしていた。




