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2.


埃にまみれた教室の片隅で、私は目を閉じていた。風が、割れた窓から入り込み、焼けたような夏の匂いを運んでくる。それが心地よいと思えるのは、きっとこの空間がまだ屋根のある場所だからだ。


ここは、廃校になった中学校。この世界では、壁があって、雨をしのげて、死なずに夜を越せる場所が「楽園」と呼ばれる。だがこの楽園には、ルールがある。


私は女であることを、決して知られてはならない。それが、この世界で私と…タクミが共に生きていく唯一の道。彼がまだ幼かった頃――「ママ」と呼ばれた声に、私は涙をこらえきれなかった。けれど、その呼び声ひとつで人は牙を剥く。


この世界に残された女は、もはや人間ではない。繁殖の道具か、権威の象徴か、愛玩か、いずれにしても奪い合うものだ。


だから、私は教えた。


「タクミ、ママはやめよう。タツミでいいよ」


「うん、わかった…タツミ」


私の名前を、呼び捨てで。それがどれほど胸を引き裂くか、彼はまだ知らない。


――そして「タツミ」は、本来、私の名ではなかった。それは、感染症で命を落とした、タクミの父の名。私の、最愛の夫の名前。彼が残してくれた唯一の形見を、私は「盾」として背負っている。


この廃校に身を寄せているのは、私たちを含めて七人。二十代から三十代の男たちばかり。けれど仲間とは言いがたい。ただ同じ時間に、同じ屋根の下にいる、それだけの関係。あいさつも、名前の確認も、命を預ける信頼も、ここにはない。


無言の暗黙。


触れないことが最大の礼儀であり、ルールだった。


その中で、私とタクミ――いや、「タツミ」と「タクミ」は、壁際の空気のような存在だった。話しかけられることもない。けれど、完全に無視されるわけでもない。あえて目を逸らされているような感覚。それがどこか、逆にありがたかった。


タクミは私の隣で膝を抱えて眠っている。呼び方ひとつで、この子の命が消える――

そう思えば、私は母であることを捨てるしかなかった。


でも。


でも……たまに、眠る彼の口から「ま……」と、呟きかける声が聞こえるたび、私は胸が張り裂けそうになる。「タツミ」なんて呼ばれたくない。でも、「ママ」と呼ばせてはいけない。そんな世界で、私は――ただ、隠れて生きている。



「……タツミ、誰か来てる」


タクミが目を覚まし、私の肩に頭を預けた。子どもにしては驚くほど小さな声。彼なりに、状況を理解している。私は彼の頭をそっと撫で、笑ってみせる。


「え、誰かな?」


そのときだった。校庭の門が、軋む音を立てた。誰かが、歩いてくる。袋を抱え、笑みを浮かべ、名乗りもせずに。


知らない顔。


それが、すべての始まりだった。


タクミかわいいんですよ

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