19.
廃モールの中央ホールには、早朝からざわついた声が響いていた。小さな焚き火を囲んで、数人の大人たちが顔を見合わせている。顔には怒りと疑念が浮かび、声は徐々に荒くなっていく。
「おかしいだろ、昨夜確認したときには、まだ缶詰は残ってたんだよ」
「数え間違いじゃないのか?」
「……俺たち、そんなミスするほど馬鹿じゃない」
険悪な空気の中心には、開かれた収納箱と、転がった缶詰の空き箱があった。明らかに人為的な消失。扉は施錠されていたが、鍵は誰でも手に取れる場所にあった。つまり、内部の誰かがやった――その事実が、疑心を膨らませていた。
「最近、あいつの様子がおかしいと思わなかったか?」
「いや、それを言うならお前も怪しかったぞ」
「みんな落ち着けよ! まずは状況整理をしよう」
シュウジが、壁際でじっと様子を見ている。目だけが、冷静に人々を観察していた。
(……このままじゃ、誰かが吊るし上げられる)
シュウジはそう思った。けれど、声を上げるにはまだ早い。
本当に、誰かが食料を盗ったのなら、その理由を見極めなければならない。誰かの空腹かもしれないし、何かの取引に使われた可能性もある。判断を間違えれば、もうこの集団は崩壊する。
それでも、誰かが声を上げる。
「――こんなときに盗むなんて、信じられない。罰を与えるべきだ!」
怒声が、吹き溜まりの空気に火をつけた。まるで、集団の中に長く蓄積していた不安と苛立ちが、噴き出すように。
そのとき――
誰かが、そっと囁くように言った。
「あの人を呼ぶべきじゃないか?」
その名が出た瞬間、場の空気が一変する。
緊張と、静かな恐怖。
そして――
「……レンが来たら、もう話し合いじゃ済まない」
シュウジが呟いた言葉が、焚き火の火花のように、燃え残りの不安に火を点けた。その時、3人の男を取り囲んで何やら言い合いが始まった。
「お前たちだろう!昨日の夜番はお前たちなんだからよ!」
「ち、違う!俺たちはそんな事絶対しない!」
必死に否定する3人を他所に、住人たちからの怒号は止まない。
重苦しい沈黙の中で、誰かの足音が響いた。
──コツ、コツ、コツ。
歩幅はゆっくり、音は確かに、だが妙に静かに迫ってくる。
まるで獣が気まぐれに牙を剥く前のような、緊張が背筋を撫でた。
焚き火の明かりの向こう。
黒い長袖の上着。
無造作にポケットに突っ込まれた両手。
その顔には、薄く貼りついた笑み。
「……喧しいなぁ。まだ朝だよ」
不意に吐き出されたその声は、少年のように無邪気で、なのにどこか薄ら寒い。
「れ……レン……」
誰かが小さく名を呼んだだけで、場の空気が一瞬にして凍りつく。
「何してるの?楽しそうだね」
レンは歩みを止め、焚き火のそばに立った。金の瞳孔がぎらりと光を反射し、まるで獣の眼のように誰かを見据える。
「食べ物がなくなったんだって?」
「…ああ…その、数が…合わなくて……」
「ふーん……そっかぁ」
笑っている。口元は、たしかに笑っている。だけど誰も、その笑みに安心など覚えなかった。なぜなら、彼は秩序の番人ではない。
暴力の象徴なのだから。
「で、誰が盗ったの?」
静かな問いかけ。でも、その空気は明らかに、答えを間違えれば命の保証はないという圧力を孕んでいた。
「ま、いいよ」
レンは片手をポケットから抜いて、ひらひらと振った。
「僕が探す。……全部、ね?」
その声が響いたとき、誰も返事ができなかった。
まるで、彼に何かを言えば、自分も調べられる側になると知っているかのように。
彼が歩き去ったあと、モールには、火の弾ける音だけが残された。