18.
その日はいつもより空がどんよりとしていた。
タクミはシュウジに預けられたまま、静かに昼寝をしていた。私はそっとベッドから立ち上がり、部屋の隅に置かれたタオルケットで身体を隠すように羽織る。今着ている服はレンが用意した服ではあったが、どこか着させられている感覚があり、私とって落ち着ける衣服ではなかった。
「……今のうちに、トイレを済ませておこう」
このモールを女性ひとりで移動するということが、どれだけ警戒すべきことかは分かっていた。それでも、いまは一人になれる貴重な時間でもあった。
以前着ていた、男を装う服はレンに捨てられてしまった。
「スノウには似合わないから」
有無を言わせない言動。決して強い語気ではないが、レンの中では、自らの決定は全員の決定事項であり、私がどう思っていようが関係なかった。少しだけ心許なかったが、少しだけなら、という淡い期待を抱き、私はドアを開けた。
薄暗い廊下。軋む床板。
誰にも会わずに行ければ──そう願っていた。
しかし、その期待はすぐに裏切られた。
角を曲がった先、誰かが立っていた。年齢は三十代半ばほどの男。背は高く、無精髭を生やし、汚れたパーカーのポケットに手を突っ込んでいる。
「……あんた、女だったんだな」
私は立ち止まり、息を詰めた。
男はゆっくりと近づいてくる。表情は笑っていない。興味と、支配の入り混じった目。
「今まで隠してたのか? ずいぶん綺麗な顔してんじゃねぇか……レンの女か?」
その一歩が近づいた瞬間──
風のような気配が背後から走った。
「……っ!」
男の肩に、すっと手が置かれた。それだけで、男の身体が硬直する。
「やめてね」
背後から現れたのは、レンだった。いつもと同じ笑顔。だがその声は、凍りつくように冷たい。
「僕のものに手を出すの、やめてね。壊したくなっちゃうから」
その笑顔の下に何があるのかを、男は直感で理解した。ガチリ、と歯車が噛み合う音が背筋を這うようだった。レンの目が、金色に光を帯びる。縦に割れた瞳孔が、捕食者のように男を射抜く。
「……わ、わかったよ。悪気はなかった」
男はすぐにその場から後ずさり、逃げ去るように去っていった。残された私は、背中に感じる気配から逃げることもできず、ただ立ち尽くす。
肩に落ちた自分の髪が、ふわりと震えていた。
「……ひとりで出歩いちゃ、だめだよ?」
レンが後ろから、耳元にそっと囁く。
「君は僕のそばにいるだけで、皆おとなしいんだから……わかるでしょ?」
私は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。自分が檻の中の檻にいるという現実が、否応なしに突きつけられた瞬間だった。
私は知らない。
先ほど私触ろうとした男が、その後行方知れずとなっていることを。