17.
朝。目覚めた時、まず目に入るのは、すでにいないタクミの姿だった。
隣にはレンが眠っていた。緩やかな呼吸。閉じられた瞼。穏やかな寝顔。しかし、その手は彼女の手首に絡まり、まるで逃げないようにとでも言うかのように掴まれていた。
夜はタクミと別々に過ごしている。レンの「夜は邪魔」のひとことで、タクミは毎晩、シュウジの部屋へと預けられることとなった。
最初は泣いた。寂しそうに手を伸ばして、「母さんも一緒がいい」と懇願された。でも私は、抱きしめながら、首を振るしかなかった。このモールで、ここで「生かされる」ためには、何かを諦めなければならない。タクミの無垢な願いでさえ――。
レンの部屋で朝を迎えるたび、私は息苦しい安堵を覚える。
今日も、生きて目覚められた。それだけが、唯一確かなことだった。
昼間のレンは姿を見せない。タクミと過ごす時間は、穏やかで、かすかな幸福さえ滲んでいる。まるで過去の幻のような、静かなひととき。
けれどその静けさは、夜になると容赦なく終わる。
レンは、決まって日が沈む頃に帰ってくる。細く長い影を引き、音もなく部屋のドアを開ける。彼の視線は私しか映さない。誰とも交わらず、何も語らず、ただ私のもとへと戻ってくる。
「今日も、君の匂いで眠りたいな」
囁くようなその声に、恐怖も嫌悪も、すでに反応しきれなくなっていた。
初夜のような激しさは消えた。レンは、“壊さない方法”を学習したようだった。だがそれは優しさではない。ただ、私を長く所有するための方法にすぎなかった。
抱かれても、何も満たされない。触れられても、心は干からびたまま。夜が来るたび、私は冷たくなっていく自分を感じる。
タクミがいるこの場所は、確かに生き延びるには最適なのだろう。でも、それだけではもう足りない。それでも――タクミのために、何かを捨ててでも、生きていなければならない。
夜を終え、また朝が来る。
私は、シュウジに手を引かれて戻ってくるタクミを抱きしめ、「ごめんね」と心の中で何度も謝りながら、今日という一日をまた、黙って始める。
ある日の夕方、私はじっと息を殺して壁にもたれかかっていた。腕は痺れ、二の腕の辺りにズキズキと痛みが走る。
(さっき――)
レンに抱きしめられたはずだった。けれどその腕はあまりにも強く、無遠慮に骨を締め上げるようだった。
「ごめん、忘れてた。君ってそんなに柔らかいんだったね」
謝罪の声に、本当の後悔はなかった。軽い調子で、無邪気なトーンで。まるで潰れたクッションを気にするような、そんな感覚。
「でもさ――」
目の前に現れたレンが、しゃがみこんでこちらを覗き込む。
「こんなに壊れやすいのに、どうして僕から逃げようとするの?」
金色の瞳孔が縦に割れて揺れる。その奥に、共感の欠片もない。
「ねぇ、怖い?」
笑った。その笑みは子どもが虫を潰す前に見せるそれだった。
私は、言葉にできない何かで喉を詰まらせた。
怖い、ではない。
悲しい、でもない。
痛い、のに。
この青年は「それ」を理解できない。自分の力が、存在が、どれほど他者に影響するのかを知らない。それが、何よりも――
(惨い……)
けれど、逃げ場はない。この場所で、レンから目を離した瞬間に、誰かが、タクミが傷つくかもしれない。だから、逃げない。
「……ううん、平気よ」
無理に笑ったその顔を、レンはじっと見つめていた。
「……ほんと?」
まるで玩具の調子を見るみたいに、レンの指が更紗の頬をつついた。優しいのか、壊そうとしているのかも分からない手つきで。
「だったら――もっと強くしても、いい?」
私は、唇の端で痛みに耐えるように笑った。
「……いいわよ。あなたがそうしたいなら」
そう言うしか、なかった。それが一番、タクミを守れる選択肢だと知っていたから。
レンは、そんな私の覚悟すらも面白い玩具を見つけたような顔で見つめていた。
「ふーん……やっぱり、君は特別だね」
その言葉は、喜びか、所有欲か。もしかしたら、ただの独占癖の発露かもしれない。ふいに、レンの指が私の首筋に伸びる。熱を帯びた掌が、痛めた二の腕を避けながら服の上から触れてくる。
「こことかさ……押したら、どれくらい痛いんだろうね?」
無邪気な声。けれどその言葉に含まれるのは、興味であり、共感ではない。
私は小さく息をのんだ。
その気配を察したのか、レンは眉をひそめた。
「……嫌なの?」
「嫌」と答えたら、タクミに何が起きるか分からない。
「いい」と答えたら、自分の心が壊れてしまう。返せる言葉が、なかった。
数秒の沈黙の後。レンが首を傾げた。
「あれ……なんで僕、こんなこと聞いてるんだろ」
ぽつりと、呟いたその声には――ほんの微かに、違和感が混じっていた。
「君ってさ……泣いたり、怒ったり、笑ったり……忙しいね。僕、そういうの全部、わかんないのに」
私が目を開けると、レンは床に座り込んでいた。両膝を抱えて、壁にもたれて、まるで自分自身を抱きしめるような姿勢で。
「誰かを痛めつけると、嫌われるんだって知ってる。
でも、僕はそうされて育ったから、それが普通だと思ってた」
その言葉に、私の中で何かが凍る。そうされて育った――?
「僕はずっと……誰からもやめてって言われたことなかったんだ。だから……君がそういう顔するたび、なんか胸がざわざわする」
静かに震える声だった。それは謝罪ではなかったし、反省でもなかった。けれど――そこに確かに芽吹きかけた感情だけがあった。私は、ゆっくりと彼の隣に座った。
そして、何も言わずに――自分の手を、そっとレンの手に重ねた。
「……まだわかんなくていいのよ」
声は震えていたけれど、確かだった。
「でも、わからないことを……怖いって思ってくれたなら、きっと大丈夫だから」
レンの金の瞳が、ぱちぱちとまばたいた。やがて彼は、私の手をぎゅっと握り返した。強くはなかった。痛みもなかった。