16.
かつて、彼は軍にいた。
理不尽な命令にも歯を食いしばり、泥を啜ってもなお正義を信じていた。銃口の向こうにどんな顔があっても、それが大義に繋がると信じることができた。
――その日までは。
偶然知ってしまった。報告書の端に、消されかけたファイル名。
【PROJECT R.----】
【Specimen R/09】
•状態:適応済み/安定
•出自・年齢:[不明]
そこに、名前はなかった。
ただ被検体09とだけ記された記録。
当時のシュウジは、それが人であるとは思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。悪に屈しない、それが彼の信条だった。だが、組織そのものが悪であると気づいてしまった時、その正義は音を立てて崩れ落ちた。
除隊後、実家に戻った。畑を耕し、黙って汗を流す日々。
近くに住む妹の息子、まだ幼い甥が唯一の救いだった。
小さな命は無垢で、自分の壊れた正義にも笑顔を向けてくれる。戦場では救えなかった命を、今度こそ守りたかった。
だが感染症は、すべてを呑み込んだ。
甥も、妹も、妹婿も。シュウジは再び、何も守れなかった。
「これは俺への罰なんだ」
その言葉を胸に、彼は流れ着いたモールに身を置いた。そして出会ってしまった。
あの時の被検体09ーーレン。
細身の体躯に、不気味なほど整った顔立ち。そして、見下ろすような無邪気な笑み。
「共感?なにそれ、おいしいの?……冗談だよ、そんな顔しないで」
――こいつだ。
それだけで、全てが繋がった。あの日見た報告書の被検体09、それが目の前で生きていた。
それ以来、シュウジはレンから目を離さなかった。制御不能で、残虐で、人を人とも思わない存在。それでも――生きている。それだけで、どこかに救いがあるように思いたかった。
そして、タツミとタクミがモールにやって来た。
少年は甥に似ていた。気づけば頭を撫でていた。心がそう命じるよりも早く。
そして、少年を守ろうとするその母。タツミと名乗る、顔を隠した女。
彼女は、レンのような怪物に対して、自らの体を差し出す覚悟を見せた。母親として――人間として。ボロボロにされながらも、少年を守り抜こうとするその姿に、シュウジの胸は再び焼けつくような熱を取り戻した。
正義なんて、もう信じていない。
けれど、あの少年と、あの女は。
――今度こそ、見殺しにしない。
静かに、そして確かに。かつて折れたはずの「正義」が、再び心の底から息を吹き返そうとしていた。
幼少期のレンくん