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14.

「ねぇ、スノウ」


レンがサラの手を取ろうと身を乗り出したそのとき――


「やめろ」


シュウジが一歩、レンの前に出た。


「これ以上、この子の目の前で“人間の姿”を捨てるな」


しばしの静寂。


だが、レンは怒りも見せず、ただ興味深そうに、まるで新しいオモチャの登場を喜ぶかのような目でシュウジを見つめ返していた。


「……じゃあ、どうすればいい?」


「タツミを、しばらく休ませろ。そして…タクミと過ごさせてやれ。必要なのはお前じゃない」


レンの瞳が細められた。金色の瞳孔が、ほんの一瞬、縦に裂けたように見えたのは気のせいか――


「…ほんと、僕のこと嫌いだね。シュウジは」


それでも、レンは私から手を離した。そのままタクミの前にしゃがみこみ、目を覗き込むようにして言う。


「大丈夫だよ。僕、スノウのこと大事にしてるから」


その笑みは、狂気と愛情の狭間に揺れていた。タクミが泣き腫らした目で見上げる先には、苦悶の表情を張りつけながらも、なんとか微笑もうとする母の顔があった。


「タクミ…ごめんね、大丈夫だよ」


優しい声だった。掠れて、細く、痛みを滲ませていたけれど、それでも確かに母の声だった。


私は、痺れるような脇腹の痛みに歯を食いしばり、肘で体を支えながら、ゆっくりとタクミを抱き寄せる。傷だらけの腕が、怯えた少年の小さな背を包む。タクミの身体がびくりと震え、そして堰を切ったように嗚咽がこぼれた。


「こわかった…母さん、ずっといなくて……」


「ごめんね…でも、もう大丈夫」


その言葉は、私自身に言い聞かせるものだった。一方で、部屋の隅からふたりをじっと見つめていたレンは、不思議な違和感に突き当たっていた。それは怒りではなかった。ただ、ほんのわずかな、けれど確かな「ズレ」。


――なんで、僕じゃないんだろう?


自分のものになったはずの女が、他の誰かを優先している。その事実が、胸の奥をむず痒くする。それは不快とも快感ともつかない、言葉にならない感情だった。


(……ああ、そうか)


レンの口元が、楽しげに歪む。


(この人を、完全に僕だけのものにしたいんだ)


まるで新しい遊びを見つけた子供のような顔だった。その無垢な表情に宿る執着の色は、誰の目にも狂気のそれだった。


「…なあ、レン。お前、こいつに何した」


低く抑えた声が、静寂を切り裂いた。振り返ると、シュウジが立っていた。冷や汗の浮かぶ額。強張った顎。声には怒りが滲んでいた。


「なにって…楽しく、過ごしてただけだよ?」


無邪気に答えながら、レンは肩をすくめる。その態度が、さらにシュウジの神経を逆撫でした。


「こいつ、お前といた一日で……まともに立てもしねぇ」


「え?でも、生きてるよ? ちゃんと食べて、水も飲ませてる。……途中からはね」


「……ッ」


シュウジは唇を噛みしめた。睨むように視線を逸らす。


(こいつは、ほんとうに、まともじゃねぇ)


その確信が、背筋を凍らせた。


そして、私に寄り添うタクミが、ふと私の顔を覗き込む。どれだけ優しく微笑んでも、その瞳に微かに揺れる影は、息子の幼い心にも伝わった。


「…母さん、泣いてるの?」


その一言が、私の頬を伝っていた無意識の涙を、初めて自身に気づかせた。私は笑って、頭を撫でようとした。だが腕は思うように上がらず、代わりにぽとりと布団の上に落ちた。


「大丈夫だよ、タクミ…母さん、ほんとに、大丈夫だから…」


嘘だった。でも、その嘘だけが、私を今、母であらしめていた。


それを見ていたレンの金色の瞳が、細く細く、縦に裂ける。


タクミが指で私の頬をそっとなぞりながら、小さく呟いた。


「母さん…ほんとに、大丈夫なんだよね…?」


その声に、私は応えず、ただその小さな手を包み込むように握った。その温もりに、タクミの涙がまた零れ落ちる。


そんな二人を、レンはじっと観察していた。まるで、未知の生命体を見るかのような目つきで。


「ねぇ、タクミ」


レンがふいに声をかける。


「さっき、母さんって呼んでたけど……それって、ほんとうの?」


問いかけに、タクミが少しだけ眉をひそめた。


「ほんとうだよ。母さんは、僕の本当のお母さんだ」


一切の迷いなく言い切る声。


レンは目を瞬かせたあと、ふっと微笑む。


「へぇ…そうなんだ。じゃあ、ほんとうに、親子なんだ」


その口調は、まるで信じられないものを見たような――あるいは、信じたくないと感じているような、不思議な色を帯びていた。


タクミは、涙に濡れた顔のまま、こくんと頷いた。


「うん…僕、覚えてる……ずっとずっと、そばにいてくれた…どこにも行かないでって、約束してくれた……」


その言葉に、私は小さく震えた。そして――


「……タクミ」


優しい声で、私は呼んだ。親子の絆。守る者と、守られる者。無条件の愛情。


それらは、レンの世界には一度として存在しなかった。レンの中には、家族という概念が存在していなかった。守るとか、帰る場所とか、そういう温かい言葉と結びつく経験が、一度もなかったから。ただ、いま目の前で起こっている光景――彼女が自分以外の誰かに心を寄せているそれが、どうしようもなく不快だった。


「ねぇ、スノウ」


呼びかけに、私は目を上げる。


「この子、ここに置いておく?」


その言葉に、空気が凍った。


「え……?」


タクミの顔が引きつる。私は唇を開きかけて――何も言えなかった。


「僕は別にいいよ?スノウが望むなら。部屋にいても。でも、僕と一緒に寝てる時にさ、騒いだりされたら困るなぁ」


にこりと笑ったレンの言葉に、タクミが息を呑む。私は、何かを言おうとするが、震える喉から声が出ない。


それを見ていたシュウジが、ついに立ち上がる。


「……レン。いい加減にしろ」


静かだが、怒気を含んだ声。だがレンは、一切動じない。


「なにが?」


「お前の冗談は、まったく笑えない」


「冗談なんか言ってないよ?」


金の双眸が、ぴたりとシュウジを捉える。


「スノウは、僕の所有物だよ。……違う?」


その場の空気が、音を立てて崩れ落ちる。タクミが、ぎゅっと私に縋りついた。私は、咄嗟にその身体を抱きしめ、レンの言葉を聞かなかったふりをした。だが、その目には、明らかな恐怖と絶望が揺れていた。


「……タクミ。シュウジさんに、少し外に連れて行ってもらおうか」


その一言が、唯一の防衛だった。タクミは顔を上げる。戸惑っていたが、何かを感じたのか、こくりと頷いた。母から離れたくない。けれど――この空間にいれば、壊される。本能的に、そう理解していた。


「いこう」


シュウジがそっとタクミの肩に手を置き、彼を連れて部屋を出る。残された私は、乾いた喉を震わせて、ようやく息を吐いた。


「……レン」


名を呼ぶ声は、かすかに震えていた。その音に、レンの目がまた細められた。


「大丈夫だよ、スノウ。僕は、ぜんぶ分かってるから」


彼の笑顔は、深い闇の底に咲いた白い花のように、どこまでも不自然だった。レンの歪んだ感情は、確実に熱を帯びていく。私の目の前で、それはますます肥大していく。


――スノウは、僕のだから。


それが、レンにとって唯一無二の真実になりつつあった。


ベッドの上、私はうっすらと目を閉じたまま、タクミの残した温もりの痕跡を感じていた。心が、もつれる。肉体の痛みではない。張り詰めた心が、軋むのだ。


レンは、ソファでじっとこちらを見ていた。今の彼は妙に静かだった。だが、それは嵐の前の静けさのようでもあり、無垢な悪意が沈殿しているようでもあった。


「……スノウ」


レンの声が響く。


「母親って、何なんだろうね。どうしてああやって、痛そうな顔で笑えるの?」


私は答えなかった。代わりにゆっくりと身体から力を抜き、タクミと再会できた喜びと、自分の無力さに打ちひしがれていた。


「ねぇ、君があの子の母さんなんだよね?」


レンが立ち上がる。その気配に、私の肩がかすかに震えた。レンが、ベッドの端に腰をかける。


「僕にも、君が教えてよ、母親とか無条件の愛とかさ」


私の意識が遠のいていく中、その言葉だけが、鋭く心に突き刺さった。ベッドの端に腰を下ろしたレンの指先が、そっと私の頬に触れた。熱を失いかけた肌に、ほんの少しだけ冷たい指先。


「やっぱり君が笑うの、好きなんだよね。……あの子がいた時の君、すごく綺麗だった。ああいうのも、悪くない」


無邪気な声が耳の奥をざわつかせる。自分を所有しながら、壊しながら、なおもその美しさを慈しもうとするその言動は、まるで神か獣か、いずれにせよ人ではなかった。


「ねえ、スノウ。僕の目、綺麗でしょ?」


ふいに顔を覗き込まれて、私は微かに瞼を開けた。そこには、深く冷たい金の瞳があった。理性が薄く縁取られ、中心にはわずかに縦に割れた瞳孔――人の目ではない、けれどなぜか魅せられるような異形の美。


「君の瞳にも、僕の色……映えそうだね」


その囁きに、ようやく私の指が小さく震えた。


それを見て、レンは優しく笑う。だがその笑みは、ひどく歪んでいた。


「タクミは、また来たがるかもね。……でも、大丈夫。僕がちゃんと、守ってあげる。君も、あの子も」


“守る”


その言葉が、レンの口から出るたび、私の内側には重く、濁ったものが沈んでいった。守られることが、これほど恐ろしく、逃れがたい呪縛になるとは――私は、まだ知らなかったのだ。


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