11.
「……来て」
その言葉は、まるで優しい子守唄のようだった。だが私の背に走ったのは、凍えるような戦慄だった。
レンはベッドの端に腰を下ろし、片手をひらりと上げて見せた。どこまでも緩やかに、どこまでも自然に――
まるで、そこにいるのが当然であるかのように。
私は、言葉なく立ち上がった。足の裏が床を踏むたび、重力が倍になっているように感じた。
好きにしていい――あのとき、自らそう言った。だから、もう選べない。拒めない。逃げられない。タクミの命が、私の言葉一つにかかっている。
レンの視線が絡みつく。ギラギラと輝く金の両目、その瞳は、まるで獣のようだった。だけどそれは、牙を剥くわけでも、唸り声をあげるわけでもない。ただ静かに、檻の中の獲物を見ている視線だった。
「きみは、僕のものになるんだよね」
穏やかに、楽しげに。まるでそれが、恋人への囁きであるかのように。
私は何も言わず、うなずいた。足が震える。全身が、冷えていく。けれど、立ち止まることは許されなかった。
この契約の代償として、私は笑わなければいけない。
何も考えず、目を閉じて、受け入れなければ。
明かりが落ちた。
空気が、変わる。
布の擦れる音が、静けさを引き裂くように響いた。
その瞬間――
私は、触れられることを理解した。
身体が反射的にこわばる。全神経が一点に集まり、叫び出しそうな衝動を、奥歯を噛み締めて飲み込む。
レンの手が、首筋にふれる。その指は冷たくなかった。
むしろ、人肌のぬくもりを帯びていた。その瞬間、私の意識は、奥底の記憶に触れた。
――記憶はもう、だいぶ薄れてきた。けれど、それでも夫のぬくもりは、どこかに残っている。優しく抱かれた感触、手のひらの大きさ、撫でる時の呼吸。
違う。
違う男の体温、違う感触、違う触り方。
それに気づいた瞬間、一気に現実に引き戻され、喉の奥を焼くような吐き気がこみ上げた。
私は、荒廃した世界になってからも、自らの体を差し出すことはなかった。この終末で、幾度となく“身を売る”女性を目にした。助けられなかった。けれど、同時に、自分がその場に立たされることはなく、奇跡的に避けてこられた。
だからこそ――今が、初めてだった。
この一線を越えることが、どれだけ重いことか。それでも私は、決心が揺らぎそうになるたびに、タクミのためと、呪文のように何度も自分に言い聞かせていた。私は、タクミの母親で、タツミの妻だったその事実が、彼女の中で崩れ落ちないように。折れそうになる心を、最後の力で支えるために。
「……楽しませてくれよ、スノウ」
そう囁いたレンの唇は、皮膚に触れたのか、空気だけだったのか。それすらわからないほどに、私の意識は遠くへ、遠くへ沈んでいった。
ーーー
どれだけの時間が経ったのか、もはや定かではなかった。モールの住人たちの間にも、ざわめきが広がり始める。
「……まだ出てきてないのか?」
「あいつ、死んでんじゃねぇ……?」
「……大丈夫、なわけねぇよな」
「ってか、あの人、他人と丸一日一緒にいたことあったか?」
「いや、そもそも人間に興味持ったことなかっただろ、あの人」
サラとレンは、部屋から丸一日出てこなかった。理由は単純だった。レンがサラの身体を貪り続けていたから――。
ーーー
その部屋の内側で、サラはただ、横たわっていた。
意識は浅く、夢と現実の境界が曖昧だった。手足は重く、自分の身体がまるで誰かのもののように感じる。唇を動かそうとしても、声は出なかった。
「…………く……ぅ……」
喉が乾いている。身体の奥が熱い。だが、それ以上に感じるのは、使い果たされたという感覚だった。無理矢理ではなかった。命令されたわけでもない。けれど、拒否という選択肢が初めから存在していなかった。
――そう。この一日、レンはずっと、彼女の身体を離さなかった。
指先、唇、爪、体温、息遣い。そのどれもが、狂おしいまでに絡みつき、サラという存在を識別しようとしていた。
「ふふ……やっぱり、飽きないや」
ベッドの縁で、レンの声が柔らかく響く。その金の瞳が、まるで宝石でも愛でるようにサラの体を見下ろしていた。瞳孔は細く縦に割れ、光を受けてかすかに揺れていた。人の形をした異形の目だ。
「なんでだろうね。普通はこう、一回やれば十分なんだけど……君は、違うんだよ」
サラは答えない。いや、答えられなかった。意識が波のように揺れ、時折記憶が飛ぶ。
それでも。
意識の底の底に、かろうじてひとつの言葉だけが残っていた。
(……タクミ)
それだけは、何度も、何度も。混濁した脳のなかで繰り返すようにして、サラは自分を繋ぎ止めていた。それがなければ、自分はとうに壊れていた。いや、もしかしたら、すでに少しずつ壊れ始めているのかもしれない。
けれど、それでも。
――守るという意志だけは、まだ心臓を動かしてくれている。
「ねぇ、タツミ。……あ、違った、スノウだったね」
レンがふと名前を呼び間違え、笑う。冗談のように響くその声が、耳の奥で鈍く残る。
「いい名前でしょ? 君がぼくの色に染まっていくたびに、よく似合ってるなって思うんだ」
柔らかい声。なのに、それは決して優しさではなく、支配の甘さだった。
サラは目を閉じたまま、眉根を寄せる。
涙ではない。けれど、何かが頬を伝った気がした。
レンとサラ