九話:調査開始
森は、静かだった。
学園南端に位置するこの安全区画は、かつて実習用に整備された自然帯のひとつであり、日常的に低リスクの魔獣が生息している。
危険度は極めて低く、実力ある上級生や教師の監督下であれば、十分に制御可能な領域――
……のはず、だった。
「魔力濃度、微妙に不均一ですね。通常時と比べて……偏差、7.8%上昇」
ソルが木立の間を慎重に歩きながら、手のひらに浮かべた計測術式を見つめて言った。
「それが高いのか低いのか、素人の僕にはよくわからんが……まあ、気味は悪いな」
ヴァルドは腰に下げた長杖にそっと手を置きながら、無言の警戒を払っている。
「異常ってほどじゃない。でも、何かが少しずつズレてるのは確か。構文網も、あちこちで断片的に死んでる」
「術式汚染か……この程度でも“地味に厄介”なのよね」
イレーナが小声で呟き、肩にかけた制御書板を開いた。
「視認可能な魔獣はいないわね。クロード、どう?」
「……十時方向、45メートル先。体高120、複数の魔力源。クレスバウ種と思われます」
冷ややかにそう告げたのは、クロードだった。
すでに指先に淡く術式をまとわせ、目標方向を睨んでいる。
「クレスバウ……ああ、跳躍力のある四脚獣ね。群れる傾向はあるけど、知性は低い。問題ないわ。警戒しつつ接近を」
森の中、踏み鳴らす足音を抑えながら、一行は慎重に進んでいく。
その足元に転がるのは、苔むした枝、わずかに焼け焦げた葉、破られた術式紙片――
やがて、視界の先にそれは現れた。
灰色の毛並みに覆われた獣たち。狼に似た姿だが、肩から背にかけて異常発達した骨状の突起を持ち、
喉の奥から絶えず魔力を漏出させている。
《クレスバウ》。魔術によって変質した小型魔獣の一種。
生態としては単純だが、動きは素早く、群れたときの連携攻撃が厄介とされていた。
「群れは……六体。連携意識は中程度」
クロードが構文を描きながら呟いた。
「撃っていい?」
「いいけど、殺しすぎないでよね。調査が目的なんだから」
クロードは無言で頷き、詠唱なしに右手を払った。
その瞬間、一本の赤い雷光が森を駆ける。
樹をかすめ、空気を裂いて、クレスバウの一体に直撃。
体をひねった獣が一瞬、硬直した。
「スタン付与……よし、一体無力化」
「私も援護するわ。ソル、術式干渉の制御お願い」
イレーナが素早く構文図を描き、空中に展開された六重の魔法陣が風を巻き起こす。
その術式の中心から、密度を持った風刃が三本、音もなく放たれた。
風刃は二体目と三体目の足元を狙い、接地を断つ。
獣たちがよろめき、隊列が崩れた――
「囲みが崩れた! 四体目、こっちに来る!」
ソルが手早く防御陣を自分の前に展開すると、衝突と同時に淡い青光が弾けた。
「っ、けっこう強いな……でも、今のところは予定通りだ」
やがて戦闘は終わった。
六体のうち三体は無力化、残りは軽傷状態で逃走。
「全体的に魔力量が少し多い。個体差というにはちょっと均一すぎる気もする……」
ソルが眉をひそめた。
「知性が上がってるって感じはなかったけど、配置が妙だったわ。あんなふうに“待ち伏せ”に近い形で現れるのは、群れとしては稀よ」
イレーナの言葉に、ヴァルドが無言で頷く。
「誰かが誘導した? いや、なら痕跡があるはずだ……」
「あるいは……あの群れ自体が、既に“何かに反応していた”のかもね」
クロードが、構文の残滓を拾いながら呟いた。
不穏さを孕んだまま、調査初日は終了する。
次回、より詳細な構文痕の解析と、地形異常の再確認へと移行する――
“何がここで起きたのか”。
それを知るには、まだ材料が足りない。