六話:雪解け
学園の外は、空の色からして違って見えた。
澄んでいるのに、どこか重たい――そんな青。
校外演習。
実地での探索と防衛戦術の体験――建前はそれだが、要は“魔術を実際に使う”訓練だった。
訓練の開始に合わせて、生徒たちは班ごとに分かれ、整然と演習区域に踏み込んでいく。
私たちが案内されたのは、学園の管理下にある“安全区”――小規模な魔獣しか出現しない、比較的穏やかな演習場だった。
この区域に現れる魔獣は、すべて監視魔法で行動範囲を把握されている。
危険度も低く、基本的には単独行動をとる個体ばかり。集団で動くような例は、訓練記録の中にも存在しない。
けれど、私は心のどこかで警戒を解けないままでいた。
気のせいかもしれない。でも、風の匂いが違った。草の揺れ方が、不自然に思えた。
それに、誰もが少し浮き足立っていた。普段の授業では味わえない“実戦”の空気に、高揚と不安が入り混じっている。
いつもの教室とは違う、空気の張りつめた場所。
何かが起きるような気がしていた。
そしてそれは、まるで私の不安を見透かしたかのように、唐突に訪れた。
――魔獣の群れ。
安全区に出るには出るが、通常なら二体以上が同時に現れることはまずない。
けれど今、十を越える獣の唸り声が、森の奥から響いてくる。
耳に届くというより、地面を通して腹の底に響いた。
これは――明らかに異常だった。
配置された監視結界をすり抜けたのか、それとも結界そのものが破られたのか――演習の想定から、完全に逸脱している。
すぐに指導教官が魔力拡声で避難の指示を出す。
けれど、その声が届く前に――私は仲間とはぐれていた。
……違う。
“はぐれた”んじゃない。
私が、あの子を助けようとして飛び出したのだ。
目の前で、年下の生徒が怯えて動けなくなっていた。
逃げ遅れ、声も出せずにただ立ち尽くすその子に向かって、魔獣の一体が牙を剥いて迫る。
理性より先に、身体が動いた。
私は迷わず詠唱に入った。
火球系の構文を組み、詠唱速度を限界まで上げる。
けれど、森の中は視界も悪く、集中も乱される。
――遅い!
間に合わないと悟った瞬間、獣の目が私に向いた。
体が、硬直する。
こんな時、私の魔術は遅すぎる。制御しきれない。
ああ――ここまでか。
その瞬間だった。
「……退け」
低く、冷えた声が森に響いた。
目の前の魔獣が、突如として動きを止めた。
いや、止められたのだ。
不可視の力が、空間の一部を“断ち切る”ように、魔獣の動きを封じている。
見えない構文の痕跡。
それはたしかに、魔術だった。
「……“構造遮断・単位断絶”。簡易的な空間転位封鎖……成立したか」
聞こえたのは、静かな声――フェインだった。
「リシェル、下がれ」
名を呼ばれたことに、一瞬だけ意識が揺れる。
そういえば、彼に名前で呼ばれたのはこれが初めてだったかもしれない。
でも、それを特別だと感じる暇もないほど、状況は切迫していた。
「今のうちに、ユナが片づける」
風が裂ける音。
黒髪の少女――ユナが、目の前を音もなく駆け抜ける。
その身のこなしは、魔術でも戦術でもない。
まるで一振りの刃のように、静かに正確に、獣たちの急所だけを貫いていく。
魔獣の群れが、何かに気づくより先に、すべて沈黙した。
……戦いは、終わった。
私はその場に膝をついた。
恐怖からではない。――実感だった。
今、確かに目の前で、フェイン=アルグレインが魔術を“成立”させた。
それは魔獣を倒すような大技ではなかったけれど、術としては間違いなく“本物”だった。
構文図を描く手。詠唱の精度。空間干渉の理論。
講義で聞いていたすべてが、今この瞬間、現実のものとして目の前にあった。
フェインは、たしかに“使えない”のではなく――“成立させる”側の人間だった。
「……ありがとう、ございます……先生……」
そう呟いた声は、届いていただろうか。
名前を呼ばれたとき、不思議と怖さが消えた気がした。
それは、信頼というにはまだ不確かな何かだったけれど――
でも、間違いなく、私の中で彼への見方が変わった一瞬だった。
リシェルという名を、静かに呼ぶその声を。
私はもう一度、どこかで聞きたいと思っていた。