四話:天災
フェイン=アルグレインの授業は、いつもとても静かだ。
騒がしい生徒たちも、彼が教壇に立つと自然に口を閉じる。
この人の授業が“面白い”と感じたことは、たぶん一度もない。
けれど、“聞かずにいられない”のだ。
この日も、そんなふうに淡々と講義が進んでいた。
黒板に描かれる複雑な構文図。聞きなれない用語と、理路整然とした言葉。
魔術を“感覚”でしかとらえられない私には、理解できることのほうが少ない。
でも。
「魔術とは、世界への“干渉権”だ。才能の差がそのまま行使の差に直結するように思われがちだが――」
彼の言葉には、何かを掘り下げようとする熱がある。
魔術を、世界を、人間を、知ろうとする眼差し。
私は――あの人を、魔術師としては信じきれていないけれど、教師としては、尊敬している。
その空気を、ぶち壊したのは、教室の扉を思いきり蹴破るようにして現れた金髪の少女だった。
「ふっふふーん♪ 今日もお堅いお話してるねぇ、フェイン先生?」
唖然とする私たち生徒をよそに、その少女はひらひらと手を振って講壇に近づいてくる。
誰かが小さく呟いた。
「第六……魔導……!?」
教室が一瞬で凍りつく。
――第六魔導。
魔術連盟の最高権力者の一角。
その中でも、史上最年少でその座についた、“天才”と呼ばれる少女。
「ごめんねー、フェイン。今日さ、近くまで来たから寄っちゃった。ついでに講義、見学してもいい?」
明るく無邪気な声。少女のような顔立ち。
けれどその背後に揺らめく魔力は、私たち凡百の生徒が感じたこともないほど濃く、鮮やかだった。
フェインはゆっくりと額に手をやり、いつもの静かな声で応えた。
「……勝手にしろ、ミリア。ただし、邪魔はするなよ」
ミリアは講壇の脇に立ち、じっと黒板を見つめた。
構文図。言葉。教室の空気。そのすべてを、彼女はまるで何かを測るように見渡す。
そして、ふとこちらに顔を向けると、にっこりと笑って言った。
「うんうん、わかるよ。フェインの言葉って、ちゃんと聞こうとしないと難しいよね」
教室の何人かがびくりとする。
「でもね、それって悪いことじゃないの。むしろ、今のこの空気、すっごくいいと思う」
何の前触れもなく話し出した彼女に、生徒たちは戸惑いながらも耳を傾ける。
「難しいって思いながらも、ちゃんと聞こうとしてるんだよね? だったら、ちょっとだけ、私からも“わかりやすい魔術の形”を見せてあげたいなって」
そう言って、ミリアは手を掲げた。
「さ、皆さんご注目ー。これが、“本物の魔術”だよ」
次の瞬間、空気が震えた。
言葉も構文詠唱もなかった。
ただミリアが手を動かしただけで、教室の壁のひとつが、まるで布のようにめくれ、向こうに見えたのは――
青空に浮かぶ、巨大な魔法陣。
構造は単純だが、まるで生き物のように光を帯びて脈動している。
「“天映召陣”――天空の鏡って呼ばれてるやつ。位置座標に術式を貼り付けるだけで、一定時間、世界を上書きできるの。どう? すごくない?」
ぽかんと口を開けたままの生徒たち。
誰もが、理解より先に“恐れ”を感じていた。
魔術がここまでの干渉力を持つものだと、誰も想像していなかった。
「……またそれか、ミリア」
フェインの声が、やや低くなる。
「“魔術のすごさ”を見せつけるために、生徒の前で遊ぶなと言っている」
「えー、遊びじゃないよー? みんな、魔術って“発動する”だけのものだと思ってるでしょ? でもこれは、“空間を定義する”魔術なの。ほら、勉強になるでしょ?」
「ミリア。知らない者を導くつもりなら、まずは驚かせるよりも、理解させる努力をしろ。
お前のその癖――“無知な者に優しくない”ところ、何度も言ってるはずだ」
ミリアの笑顔が、ほんの一瞬だけしぼんだ。
「……そっかぁ。そう言うところ、ほんっと変わらないよね、フェインは」
苦笑を浮かべて、ミリアは術式を解除した。
空間が、元に戻る。
生徒たちは、夢から覚めたように息を吐いた。
ミリアは私たちに軽く手を振り、くるりと踵を返した。
「また来るねー。フェインを困らせに!」
……講義は、そのまま静かに再開された。
でも、生徒たちの空気は明らかに変わっていた。
その放課後。
私は、なんとなく気になって、中庭に立つ彼女のもとを訪ねた。
「……あの、第六魔導さま」
「あっ、さっきの子。どうしたの?」
金糸の髪が夕陽にきらめく。彼女は無邪気に笑ってみせた。
言葉がすぐに出なかった。でも、どうしても聞きたかった。
「フェイン先生のこと……その、魔術師として……どう思ってるんですか?」
ミリアは一瞬だけ目を見開き、やがてふっと肩の力を抜いた。
ほんのわずかなその間に、何かを思い出し、そして受け入れるような、そんな沈黙があった。
「……そうだなぁ。才能は、まるでない。でもさ」
肩をすくめるような口調だったが、そこには侮蔑も、軽視もなかった。
彼女は、まっすぐ私を見た。
その瞳は、子どもじみた笑顔からは想像もつかないほど、深く、静かだった。
「世界の理に最も近い場所にいるのは、魔術を“使える”人じゃなく、“理解してる”人なんだよ。
そして、フェインはその中でも、たぶんいちばん、神に近い人間」
風が吹いた。金の髪が揺れ、夕陽を反射して柔らかくきらめく。
その瞬間だけ、彼女が年齢も肩書きも超えた、どこか遠い存在に思えた。
“神に近い”。
彼女の言葉が胸に残った。
それは畏敬というより、むしろどこか切なさを伴う響きだった。
魔術の天才である彼女が、なぜそんなふうにフェイン先生を語るのか。
私の知らないフェイン先生が、まだたくさんいるのかもしれない――
そんな予感が、夕焼け空の中、まるで薄紅色の余熱のように、じっと胸の奥に残っていた。