一話:才無き者
《アルセリオ魔術学園》の第六教室では、夕暮れの陽が斜めに差し込む中、教師の声だけが静かに響いていた。
「いいか。魔術とは“世界にとって例外であること”を許容させる行為だ。つまり、世界を“納得させる”だけの論理が必要なんだ」
黒板に記された複雑な術式。だがその語り口は明快で、耳に心地よい。
彼の名は《フェイン・アルグレイン》。本学園の正式な教員でありながら、魔術師としての致命的な欠陥――“魔力の欠如”という異例の経歴を持っていた。
にもかかわらず、この男の講義を好む生徒は少なくない。
「じゃあ先生、魔力がない人でも魔術を使えるってことなんですか?」
ひとりの女子生徒が手を挙げた。赤毛をポニーテールにまとめた、気の強そうな三年生だ。フェインは微笑んで頷く。
「“使える”というより、“成立させる”。魔力が足りなければ、その分だけ論理で補う必要がある。準備に時間も手間もかかるけど、不可能じゃない。僕が生き証人だ」
教室の空気がわずかに和んだ。
フェインは続けるようにチョークを手に取り、先ほどの術式の構造を丁寧に分解していく。
「ここに注目。これはエーテルの偏向構造を使って、術式の根幹座標を固定している。魔力に任せてると気づかないけれど、座標制御は術の安定性に関わる重要なポイントだ」
誰も息を飲んだりはしない。驚きの魔法が放たれることもない。
けれど、この講義には理がある。静かに、しかし深く、生徒たちの意識に魔術という“世界の理不尽”を認識させていく。
教室の後方――窓際に立つ少女が、一歩も動かずその光景を見守っていた。
長い黒髪を低く束ねた少女。《ユナ》という名で知られているが、彼女の正体を知る者は学園にほとんどいない。
かつて東洋のとある国で、九尾の妖獣を討ち果たした英雄。だが、英雄として祭り上げられ、日常に戻る場所を失った。そんな彼女が流れ着いた先が――ここ、《アルセリオ》だった。
「……先生は、すごい方だと思います」
彼女は誰に向けるでもなく、小さく呟く。
彼の放つ魔力のない言葉に、しかし深い信念と覚悟が込められているのを、彼女は感じていた。
やがて鐘が鳴り、終業を告げる。
「今日はここまで。次回は“神代文字を用いた重層魔術”について。読んでおいてほしい資料は……教壇に置いてある」
生徒たちが教室を出ていく中、ひとり、先ほどの赤毛の少女がフェインの元へ近づいた。
「先生、あたし……正直、実技は得意だけど、理論はからっきしで。でも、先生の授業は、ちょっと好きかも。なんでかは、まだよくわからないけど」
「理屈で戦えない人も、感覚で理解できるように伝えるのが教師の仕事だ。君の魔術には、確かに“形”がある。いつかそれを言葉にできたら、きっと強くなる」
照れ臭そうに顔をそらす少女の背に、フェインは優しく声をかけた。
「じゃあ、また次の講義で」
全員が去った教室。フェインは溜息まじりに、黒板を消し始める。
「……ユナ、今日も立ってただけじゃないか。せっかくなら座って聞いてくれればいいものの」
「……いえ。私は、ただの護衛ですから」
ユナは相変わらず控えめな声で答える。
目を逸らしがちだが、その表情にはどこか誇らしげな色があった。
「でも……先生の言葉は、いつもまっすぐで。私は、好きです。……尊敬してます」
「そうか……ありがとう。でも、そんなふうに思われるほどの人間じゃない。僕はまだ、魔術師としても、人間としても、全然だ」
そう言って、フェインは苦笑する。
だがその瞳の奥には、燃えるような執念が宿っていた。
――諦めきれない。たとえ魔力がなかろうと、自分が“到達”できる可能性がある限り。
教員寮へ向かう道すがら、並んで歩くふたり。沈む夕陽が、石畳を黄金色に染めていた。
その静けさは、嵐の前のようにも思えたが。
この日常のなかに、確かにあったのは――尊敬と、誇りと、静かな決意だった。