8
「もし」
俺の天文台。
俺の研究室。
俺のベッド。
その上に座り、俺がそう声をかけたのは我が物顔で椅子に座る瑠璃だった。
「もし、俺がここを出たいと言ったらどうする」
「どうする、とは?」
「どうやってここを出るつもりだ」
「知りたい?」
瑠璃は聞いてばかりだ。
教えてくれるのは稀だ、と思う。
それとも、俺が何も言わないからだろうか。
俺が聞いたら、答えてくれるのだろうか。
「知りたいと言ったら教えてくれるのか」
「貴方がそう望むのなら」
俺がそう望めば、決断すれば教える。
それは天文台よりも、天文台に住む誰よりも瑠璃を選べと言っているようなものだ。
「瑠璃は珊瑚のことが好きなのか?」
「どうして?」
「じゃないと、ここにいる理由がない」
「貴方だとは思わないの?」
顔を寄せ、問いかけてくる。
俺は顔を引くことなく、けれど視線だけを外した。そうしなければ何か別のものを踏み外してしまいそうだった。
「俺のことが、好きなのか」
「そうだと言ったらどうする?」
質問に質問で返すのは、俺が曖昧なことしか言わないからだろうか。
選択を渋っているから、瑠璃も答えを濁すのだろうか。
「貴方が私を選んでくれるなら、私はとっくに貴方を選んでいるのに。酷い人。私はずっと、どうしたいかを伝え続けてる」
「どうしたいって?」
「貴方と一緒に、ここを出たい。私を選んで欲しい」
瑠璃は笑っていなかった。
ふと視線を戻せば、瑠璃の瞳は真っ直ぐ俺を見ていた。
ここで逃げるのは男らしくないと、そう思わせるような瞳だった。
「最初からお前の言ってることは一貫してた。俺に、ここに残るかここを出るか選ばせようとしていた。だがお前は、あの日まで俺のことを知らなかった筈だ。どうしたあの日、珊瑚を助けた。どうしてあの日、俺の前に姿を見せた」
どうして。
どうして。
どうして。
「俺達に見つからなきゃ、ここがブルーステラだと知る前に逃げ出せた筈だろう。たとえ見つかっても、逃亡幇助でもさせれば良かった筈だ。どうして俺に拘る。あの日、初めて会った筈の俺に」
そう捲し立てれば、瑠璃は一歩引いて冷めた目で自分のことを見つめられるだろうと。そんな思惑を含んだ言葉だった。
俺の思惑に反して瑠璃は、一歩も引かずに俺を見つめたまま答えた。
「その答えを持っているのは私ではないから、今は未だ言えない」
瑠璃は俺にわからないことばかり言う。
「ごめんね」
そうやって謝られても、今の俺がわからないなら意味がないのに。
瑠璃は未来のことしか言わない。未来の俺ではなく、今の俺に向かって話をしろと。そう言っても、きっと何も返してはくれないのだろうけど。
「お前、何に向かって話してる」
「何って、貴方にでしょう?」
「お前が話してる相手は俺じゃない。俺じゃない、誰かだ。お前の目は真っ直ぐ俺のことを見てるが、本当に見てるのは別の人間じゃあないのか」
瑠璃は傷ついた顔をしていた。
傷つける言葉だと思ったし、そういう言い方をした。
ただ、瑠璃は俺を害そうとするどころか、俺のために動いているように見えて。傷つけるとわかって言葉を口にするのは、少しだけ心苦しかった。
「俺を見ろ」
どこか泣きそうな顔の瑠璃を前に、傷つけることばかりしている。
普通の人間にならしないことだ。特に女になら。いつから俺は、瑠璃をただの人間の一人だと思わなくなったのだったか。たった数日。たった数週間、一緒に生活していただけなのに。秘密を共有するというのは、こんなにも心を惑わせるものだっただろうか。
「俺を、見ろ」
今の俺は弱い。何かを迷っている人間は弱くなるものだ。
瑠璃が俺を弱くさせた。けれど俺は、これが悪いものだとはあまり思わなかった。弱いことは、悪いことではない。
いつかこれが正しかったと思う日が来ると、なんとなく思っていた。
動いて後悔することよりも、動かずに後悔することの方が多いと。本当はもう、瑠璃が求めていたことも俺が選びたい道もそこにあるとわかっていた筈なのに。
どうしても捨てられなかった。これからのことを思えばどうすれば良いのか、どうしたいのかわかり切っていても。これまでのことを捨て切れなかった。そうならないようにする方法だけを考えていた。
「未だ、一ヶ月には少し遠いから。ちゃんと考えましょう。後悔しないように」
「お前はそれで良いのか」
「貴方が私を選んでくれたら、とても嬉しいけれど。貴方が私を選ばないのなら、私はとても残念だと思うけれど。私は」
息を吸う。
グッと何かを堪えるように、泣きそうな顔のまま、瑠璃は笑った。
「貴方が勢い任せに私を選ぶ方が、私を選ばないことよりも嫌だから」
瑠璃の頬を伝う零れ落ちた暖かさに、目を見張る。
泣いている女は苦手だった。よってたかって悪者にされて、周りの男は関わりたくないと壁を作るばかりで。味方がいないことが辛かった。
けれど。
「後悔しない選択を」
良い女だと思った。強い女だと思った。
それは弱さではなく強さだと、何故だかそう思った。