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生姜やニンニク、塩胡椒、ヨーグルト。ターメリックで下味をつけた、牛肉のマリネ。
トマトは種と身を分け、じゃがいもとにんじんと共に一口サイズに切り分ける。玉ねぎはバターで飴色になるまで炒め、水に入れてガラムマサラと牛乳、隠し味にすりおろした林檎を加えて煮込む。四種類のスパイスを薬研で潰し、乳棒と乳鉢ですり潰した挽きたてのカレー粉を加え、更に煮る。
曜日感覚を養うために毎週同じ曜日に出される、黒くて辛い天文台のカレー。
「辛いなら無理するな」
「何で、ここのカレーはこんなに辛いんですか?もしかして辛口のルゥを?」
「ルゥ?」
「ルゥを使わない?もしかしてスパイスから、いえ、市販のものを使わないのならそうなるわね。一体どこから食材を調達しているのかしら。まさか全て自家栽培だなんて」
ブツブツと呟く瑠璃を、見下ろすように見つめる。
「そ、それよりお水を。お水をくださいな」
「あぁ」
顔を真っ赤にして俺に水を求める姿は艶やかに見えて、少し足を動かすのを躊躇った。
いつもなら目ざとく見つけて咎めてくる瑠璃は、今はそんな余裕はないらしくヒィヒィ言いながらカレーを睨んでいる。
「ほら」
水を渡す。
「ありがとうございます」
女に興味はない。その気持ちは変わらない。
鼻の下を伸ばして見つめるのは失礼だと思うし、他の男のように恋をしながら生活を成り立たせる自信もない。俺は女を幸せにできる類の男ではない、と常々思っている。
だが瑠璃のことは綺麗だと思うし、触れたいと思う。恋を知らない俺はそれが恋と呼べるものなのかもわからず、しかしこの口喧しい部外者に心を傾けることがどれだけ危険なことかだけはわかっていた。珊瑚の恩人であっても、瑠璃はこの天文台の全てを脅かす。
けれど。
「敬語。使い辛いなら、外して良い」
「え?」
「話し辛いんだろ?」
真っ直ぐ見つめられて、思わず目を逸らす。
「えぇ。そう、ね。そうさせてもらうわ」
やっと林檎のような紅色から解放された頬が、はにかむ乙女の頬が桃色に変わる様を見て俺は嫌な符丁を感じた。
これは、決して実らないものだ。
「俺は本を読んでるから。お前も適当に過ごしてろ。この部屋のものなら、使って構わないから。その代わり」
「わかってる。どこにも出るな、でしょう?」
「あぁ。呉々も、本当に、頼んだからな」
「そこまで聞き分けの悪い子供ではないわ」
「今までが聞き分けの悪い子供だったから言ってるんだが」
「ごめんなさい。でも、困った顔をする貴方が可愛いから」
「全員の首を絞めることになる。困らせたいならもっと別の方法にしろ」
「困らせるのは良いのね」
「時と場合による」
クスクスと笑う彼女からフイと目を逸らし、どかりと椅子に座る。
アンティークのオフィスチェアは何年使っているのかギシギシと音を立てる。
壁も、床も、家具も、全てが木製で全てが焦茶色をしている中で俺達の色だけが異彩を放つ。カレーを諦めて真っ白な布団に腰を落ち着けた瑠璃の目の色はやはり夜空に似ていて、髪の色は反射するとチラリと紫を覗かせる。
「海を閉じ込めたような目をしてるのね」
ふと、唐突に目について言及され、本を読もうとした手が止まった。
俺もたった今、瑠璃の瞳の色のことを考えていたから。
「その髪の色も。白い、砂浜みたい。それとも白鳥かしら」
「海と砂浜か」
「見たことない?」
「あぁ。俺達は外の世界を知らない。海は、暗くて怖いものだと教祖様が仰っていたな」
「とても綺麗よ」
それって遠回しに俺の瞳が綺麗だと言ってるのか、と、言いかけてやめた。
「貴方の瞳の色も。髪の色も。とても綺麗よ」
ぐ、と息を呑む。
「お前は一ヶ月もすれば帰る。あまり人をおちょくるな」
「おちょくってなんかいない。答えは約束の日に聞くから」
それきり瑠璃が何も言わなくなってしまったものだから、俺も返せるものがなく黙り込んだ。
俺はこの静けさが気持ち良いのか、気持ち悪いのかわからなかった。
!
タラリ、と汗が一筋流れて落ちる。
息が詰まって上手く酸素を取り込めない。
そんな、重く張り詰めた空気の中で俺は息を呑み込む。
「私に何か、隠していることはないかい?」
真っ直ぐ見つめられた目を、逸らしてはいけない。
黙っていれば誰にも干渉されなくて済む環境で生きてきた俺は、壊滅的に腹の探り合いに向いていないのに。
瑠璃が来たから。珊瑚を助けたから。
俺が、それを望んだから。
「何もありません」
無理矢理心を落ち着けて。
足りない酸素を、それでも少しづつ取り込んで。
何とか発した言葉に柘榴様の表情は動かなかった。
「私達は家族だ。支え合って生きていこう。手に余るようなことがあれば、必ず相談して欲しい」
「はい。お心遣い、痛み入ります」
「君は賢くて、優しい子だ。ねぇ、翡翠」
「若君」
咄嗟に、口をついて出たのは昔の呼び名。
先代が存命の頃は、柘榴様は若と呼び慕われていた。
そして、立場が上であることは重々承知していたが、職員達からは弟のように思われ。蝶よ花よと育てられていた。
俺よりも年下の柘榴様。
「私はもう、若じゃないよ」
「申し訳ございません」
「でも、ね。お祖父様は未だに、僕のことを坊と呼ぶ」
柘榴様のお祖父様。先先代の教祖様。この天文台の祖であり、一番最初に神の言葉を賜った依代の人。
未だ生きている、俺にとってはご隠居以外にない天の上の人。先代に拾われた俺は会ったことすらない。
そして、この監獄を作った。
「柘榴様」
「ん?」
「ご隠居は、初代様は何を思ってこの天文台を作ったのでしょう」
「それは翡翠が気にすることではないよ。全ては神の思し召しのままに」
柘榴様は光のない目を俺に向ける。
俺は、ずっと、この目が怖くて。
「まさか、逆らうつもりではないだろうね」
「いいえ。ただ」
「ただ?」
「自分が生まれ育った場所の成り立ちを知りたいと思うのは、そんなに良くないことなのですか」
この天文台には隠されていることがある。
そんなこと、ここにいる誰もが知っている。
詮索するような人間がいなかったのは、ただ、ここにいることが悪いことだと思っていないから。それだけだ。
「今言ったことは忘れてあげるから、誰にも言わないように」
俺はこの人にだって、先代にだって盲目になったことはない。どちらも優しい人だったが、俺にとっては怖い人でもあった。
無知が愚かだとは思わない。この世の全てを知ろうだなんて傲慢なことだ。
だが、俺は、隠されているものがあるなら知った上で選びたい。
「承知、致しました」
頭を下げる。
何かを隠すのには理由がある。それが俺のためになるのか、今の俺にわからない。もし、その何かを知った俺が、今の俺と違う道を選ぶのなら。俺は知らなければならない。
この天文台の成り立ちを。